第3話:「冷徹なる業務改革と、失われた『ゆとり』」
兄、ゼノンが城の実権を握ってから三日が経過した。
そのたった三日間で、魔王城は別の場所に生まれ変わっていた。
いや、「生まれ変わった」などという生易しい表現では足りない。「改造手術を受けた」と言うべきだろう。
かつて薄暗く、どこか澱んだ空気が漂っていた廊下は、過剰なまでに磨き上げられ、塵ひとつ落ちていない。
壁に設置された松明は撤去され、代わりに「魔導LED照明」のような青白い光を放つクリスタルが等間隔で並べられた。その冷たく無機質な光は、城内の陰影をすべて消し去り、深夜でも昼間のように明るい。
そして何より変わったのは、そこに住む者たちだ。
カツ、カツ、カツ、カツ。
廊下を行き交う魔物たちの足音が、恐ろしいほど統制されている。
かつてはダラダラと歩き、無駄口を叩いていたゴブリンやオークたちは、今や全員が背筋を伸ばし、無言で、競歩選手のような速度で移動していた。
彼らの目は死んでいる。
いや、正確には「思考を放棄し、命令を遂行するだけの機械」の目になっていた。
「……おはようございます、ヴォルクス副官殿」
すれ違いざま、オークの一人が私に敬礼した。
その動作は完璧な四十五度。指先までピンと伸びている。
しかし、そこに以前のような親しみや、だらしない笑顔はない。
「あ、うん……おはよう……」
私が弱々しく返すと、彼は即座に踵を返し、業務に戻っていった。
雑談は許されない。
『業務時間内の私語は、生産性を低下させる害悪である』――それが、ゼノンが定めた「新・魔王軍服務規程」の第一条だからだ。
私はため息をつきながら、抱えている書類の束を持ち直した。
重い。物理的に重い。
これらは全て、ゼノンが私に課した「決裁書類」だ。
『北の森の伐採計画書』『武器庫の在庫管理最適化案』『捕虜の労働シフト表』……。
かつてはガインやリリスが適当に処理していた(あるいは放置していた)案件が、全て数値化され、文書化され、私のデスクに積まれている。
「……死ぬ。これは死ぬよ……」
私は涙目で廊下を歩いた。
私のINFP脳は、数字と規則の羅列を見るだけで拒絶反応を起こす。
「この森を伐採した場合の生態系への影響は?」とか「妖精さんが住処を失うのでは?」とか、余計なことばかり考えてしまい、ハンコが押せないのだ。
執務室(以前の私の私室は没収され、窓のない狭い部屋に移された)に入ると、そこには先客がいた。
聖女セレスティアだ。
彼女は部屋の隅で、私の代わりに書類の一部を仕分けしてくれていた。
「……遅いわよ、ヴォルクス。移動に三分十五秒かかってる。規定より四十五秒遅い」
彼女の口調は厳しいが、その手は休むことなく動いている。
セレスティアはここ数日、私の補佐(という名の介護)をしてくれている。
彼女もまた、ゼノンのやり方には思うところがあるようだが、ESTJとしての性が「非効率な状況」を放置できず、結果的に手伝ってしまっているらしい。
「ごめん……。途中でイグニスを見かけて……」
「イグニス? ああ、あの中庭のオブジェね」
セレスティアが冷めた目で窓の方を見た(この部屋に窓はないが)。
イグニスは今、ゼノンの命令で「城内熱源供給システム」の一部として固定されている。
中庭の真ん中で動くことを禁じられ、一定の温度で炎を吐き続けるだけの装置。
『ドラゴンをただ遊ばせておくなど資源の浪費だ』というゼノンの合理的判断によるものだ。
「……イグニス、泣いてたよ。『温泉に入りたい』って」
「そうでしょうね。でも、今の体制では無理よ。ゼノンには『感情』というパラメータが存在しないもの」
セレスティアがペンを置いた。
彼女の碧眼に、複雑な色が浮かぶ。
「……正直、悔しいけれど……」
彼女は唇を噛んだ。
「彼の統治は『完璧』よ。業務効率は以前の三百%に向上。食料廃棄率はゼロ。兵士の練度も上がっている。……私の目指していた『規律ある世界』そのものだわ」
そう。
皮肉なことに、聖女である彼女が理想としていた管理社会を、魔王である兄が実現してしまったのだ。
ぐうの音も出ないほどの完成度で。
「でも……」
セレスティアは自身の胸に手を当てた。
「何かが違うの。息が詰まるわ。……貴方がダラダラと昼寝をしていた頃の空気の方が、まだ……人間らしかった気がする」
「セレスティアさん……」
彼女のデレ(?)に感動したのも束の間、部屋のスピーカーから冷徹な声が響いた。
『ヴォルクス。セレスティア。直ちに「作戦司令室」へ来い。……遅れたら昼食抜きだ』
ゼノンだ。
私たちは顔を見合わせ、肩を落とした。
社畜のランチタイムは、常に上司の機嫌に左右される。
◇
作戦司令室(かつての食堂を改装した場所)には、巨大な戦略地図が広げられていた。
ゼノンは地図の上に駒を置きながら、私たちが入ってきても顔を上げなかった。
「……遅い」
「申し訳ありません!」
私が反射的に謝ると、ゼノンは鼻を鳴らした。
「まあいい。……リリス、状況を」
控えていたリリスが一歩前に出る。
彼女の顔からは、いつもの「楽しげな余裕」が消えていた。
目の下に隈ができている。ENTPの自由な発想力を封じられ、単なるデータ分析係として酷使されているストレスが見て取れた。
「はい。現在、当城の支配領域は順調に拡大中。……しかし、東の『妖精の森』にて、現地の抵抗勢力が籠城の構えを見せています」
「抵抗勢力? たかだか妖精風情がか?」
ゼノンが眉をひそめる。
「はい。彼らは『花のバリケード』を展開し、我々の重機の侵入を阻んでいます。……物理的な攻撃力は皆無ですが、兵士たちの戦意を削ぐ精神干渉を行っている模様です」
「くだらん」
ゼノンは即座に断じた。
「焼き払え」
その言葉に、部屋の温度が氷点下まで下がった気がした。
「……え?」
私が間抜けな声を出した。
「聞こえなかったか? 焼き払えと言ったのだ。森ごと灰にすれば、籠城もクソもないだろう」
ゼノンは無表情で、地図上の「森」の駒を弾き飛ばした。
駒が転がり、床に落ちる乾いた音が響く。
「ま、待ってください!」
私は思わず叫んでいた。
恐怖で足が震えているが、口が勝手に動いた。
「焼き払うなんて……あそこには、たくさんの生き物が住んでるんです! 珍しい花だって咲いてるし、ユニコーンだって……!」
「それがどうした?」
ゼノンが私を見た。
その目は、ゴミを見る目だった。
「ヴォルクス。お前のその『感傷』が、組織の利益にどれだけ貢献する? ユニコーン一匹の命と、我が軍の資源確保。どちらが優先順位が高いか、計算もできないのか?」
「け、計算なんて関係ない! 命だよ!?」
「命など数字だ。……リリス、焼夷弾の準備をさせろ。明日の正午に実行する」
リリスが一瞬、私を見た。
彼女の瞳が揺れている。彼女もまた、この命令には嫌悪感を抱いているようだ。だが、逆らえば彼女自身が消される。
「……承知、いたしました」
リリスが苦渋の表情で頭を下げる。
「やめて! お願いだから!」
私はゼノンの足元に縋り付こうとした。
しかし、彼は私を冷たく見下ろし、マントを翻した。
「決定事項だ。……ヴォルクス、お前も現場へ行け。自分の甘さがどれほど無力か、その目で見て学んでこい」
ゼノンは部屋を出て行った。
残されたのは、絶望に打ちひしがれる私と、拳を握りしめるセレスティア、そして唇を噛むリリス。
「……ヴォルクス」
セレスティアが静かに私の名前を呼んだ。
顔を上げると、彼女は泣きそうな、でも決意に満ちた顔をしていた。
「……もう、限界ね」
彼女の言葉の意味を、私は痛いほど理解した。
「効率」の名の下に、大切なものが踏みにじられる世界。
それは、私が最も恐れ、そして最も許せない「地獄」だ。
私の胸の中で、小さな、しかし熱い炎が灯った。
それは恐怖を焼き尽くすほどの、純粋な「拒絶」の炎だった。




