プロローグ(2):「純白のシフォンケーキと、歪められた愛のレシピ」
魔王の私室。
そこは、この城の中で唯一、私の心が休まる聖域だ。
謁見の間の禍々しさとは対照的に、この部屋は私がこっそりとDIYで改装している。
壁紙は落ち着いたクリーム色(幻術で偽装しているので、他人には黒く見えるはずだ)。
窓辺には、ピンク色の花を咲かせる「月の涙」という植物の鉢植え。
そして部屋の中央には、ふかふかのクッションを敷き詰めた特注の長椅子がある。
私は部屋に入るとすぐに、重たいマントを床に脱ぎ捨てた。
そして、クローゼットの奥に隠しておいた、ふわふわの部屋着に着替える。
これだ。この感触だ。
チクチクする正装なんて、誰が考えたんだろう。肌触りの悪い服は、心の平穏を乱す最大の敵だ。
「……ふぅ」
私は長椅子にダイブした。
顔をクッションに埋める。カモミールの香りがする。癒される。
このまま一生、ここで丸まっていたい。
でも、私にはやらなければならないことがある。
それは「世界征服」でも「勇者討伐」でもない。
「……おやつの時間」
私は起き上がり、サイドテーブルの上のベルを鳴らした。
チリン、という澄んだ音。
すぐにドアがノックされた。
コン、コン、コン。
「魔王様、失礼いたします」
入ってきたのは、メイド長のサキュバス、**リリス**だ。
彼女はセクシーなメイド服に身を包み、手には銀のトレイを持っている。
リリスは私の数少ない理解者……だと思いたい。彼女だけは、私の好みが「血の滴るステーキ」ではなく「甘いもの」だと知っているからだ。
「本日のご注文の品をお持ちしました」
リリスがトレイをテーブルに置く。
銀のドーム状の蓋を開ける。
そこには、完璧な白さを誇るシフォンケーキが鎮座していた。
横には、琥珀色の紅茶が入ったティーカップ。
「わぁ……」
私の瞳が輝いた(自分でもわかる)。
シフォンケーキ。雲のように軽く、雪のように白い。
平和の象徴だ。
「リリス、ありがとう。今日も美味しそうだよ」
「勿体なきお言葉。……しかし魔王様、よろしいのですか?」
リリスが少し困ったような顔で私を見る。
「ん? 何が?」
「その……このような『軟弱な』人間の食べ物を好まれていると知れれば、他の軍団長たちが何と言うか……」
リリスの声には、本気で私を心配する響きがあった。
そう、魔界において「甘いもの」は嗜好品ではなく、「子供の食べ物」あるいは「弱者の餌」という認識なのだ。大人の魔族は、生肉や激辛のスープを好む。
「……大丈夫だよ、リリス。これは……その……」
私はフォークを手に取りながら、言い訳を考えた。
正直に「甘いものが好きなんです」と言えば、また幻滅されるかもしれない。
INFPの脳内CPUがフル回転する。
「……これは、研究なんだ」
「研究、でございますか?」
「そう。……人間の文化を知ることは、攻略の第一歩だから……」
苦しい言い訳だ。
でも、リリスは「はっ! さすが魔王様!」と目を丸くした。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず……! 人間を骨抜きにするこの『甘味』という快楽物質を、自らの肉体をもって分析されているのですね!」
「あ、うん。まあ、そんな感じ」
またしても勘違いされた。
私がただの甘党だという事実は、高尚な「毒見実験」へと昇華されてしまった。
私はケーキを一口食べた。
ふわりとした食感。口の中に広がる優しい甘さ。
幸せだ。
この一瞬のために生きている。
私が至福の表情(とろけた顔)を浮かべていると、リリスがメモ帳を取り出して何かを書き込み始めた。
「……記録いたします。魔王様は、糖分による脳内物質の分泌を確認中……。恍惚の表情……これは、人間が堕落するプロセスを再現されている……」
やめて。
観察しないで。
恥ずかしいから。
「ところで、リリス」
「はい」
「……ガインたちは、今どうしてるの?」
私は気になって聞いてしまった。
さっきの「永遠の責め苦」発言が、どう作用しているのか。
リリスは表情を曇らせた。
「はい。ガイン将軍は地下牢で、捕虜にした人間たちに『特別な尋問』を行っております」
「ひっ……!」
フォークを落としそうになった。
やっぱり拷問してるんだ。私のせいで。
「ですが……少々、様子がおかしいのです」
「おかしい?」
「はい。ガイン将軍は、『殺してはならぬ』『苦痛を与え続けろ』という命令を忠実に守ろうとするあまり……」
リリスは少し言い淀んだ。
「捕虜たちに……健康的な食事を与え、適度な運動をさせ、睡眠時間を管理しております」
「……え?」
私の思考が停止した。
拷問じゃないの?
「将軍曰く、『不健康な状態で痛めつけてもすぐに死んでしまう。最高の悲鳴を上げさせるには、最高の健康体でなければならない! まずは基礎体力の向上だ!』とのことです」
「……あ、そう」
「現在、地下牢からは『ワンツー! ワンツー!』という掛け声と、捕虜たちの『もう走れません!』『いや走れ! 長生きしろ!』というやり取りが聞こえてきます」
……それは、なんていうか。
ブートキャンプ(新兵訓練)では?
私はホッとしたような、呆れたような気持ちで紅茶をすすった。
まあ、死んでないならいいか。
むしろ健康的になってるなら、結果オーライかもしれない。
「それと、もう一つ報告が」
「うん?」
「西の森に住む『魔女』から、献上品が届いております」
魔女。
私の胃薬係……もとい、薬草園の管理人だ。
彼女もまた、私を「稀代の大魔術師」だと勘違いしている一人だ。
「これです」
リリスがポケットから取り出したのは、小瓶に入った紫色の液体。
ラベルにはドクロマークが描かれている。
「魔女殿からのメッセージです。『魔王様の深淵なるご要望にお応えし、飲んだ者が“自分は幸せだ”と永遠に思い込む猛毒”ハッピー・エンド”を精製しました。これで人間どもを廃人にしてください』とのことです」
ブフォッ!!
私は紅茶を吹き出した。
何を作ってるのあのお婆ちゃん!?
私が欲しかったのは胃薬! せいぜい睡眠導入剤!
なんで「幸せな廃人製造薬」なんて危険ドラッグが届くの!?
「ま、魔王様!?」
「ゲホッ、ゴホッ……! だ、大丈夫……」
私は涙目で口元を拭った。
この城、危険人物しかいない。
私の周りには、ブレーキ役がいないのだ。
その時、私はふと思った。
この「ハッピー・エンド」。
……これ、薄めて使えば、ただの「いい気分になれる薬」なんじゃないか?
もしかして、私のこの慢性的な不安感や鬱屈にも効くのでは?
いや、ダメだ。
そんな安易な道に逃げてはいけない。
INFPとしてのプライドが許さない。私の悩みは、私の内面で解決すべき高尚な葛藤なのだ。薬でハッピーになってどうする。
「……リリス。その薬は……厳重に保管しておいて」
「はっ! いずれ来る『人間牧場化計画』の切り札としてですね!」
「……うん、まあ、そんなとこ」
違う。
いざという時、私が辛すぎて死にそうになったら自分で飲むためだ。
私はため息をつき、残りのシフォンケーキを口に運んだ。
甘い。でも、先ほどより少し苦く感じるのは、気のせいだろうか。
その時、窓の外から何かが飛んできた。
白い影。
それは窓枠に止まり、コンコンとガラスを叩いた。
伝書鳩……ではない。
白いフクロウだ。
足には手紙が結ばれている。
「あれは……人間の使い魔?」
リリスが警戒して身構える。
私は窓を開けた。フクロウは私の腕に飛び乗り、手紙を差し出した。
封蝋には、聖騎士団の紋章。
まさか、宣戦布告?
ついに攻めてくるのか?
私は震える手で手紙を開いた。
中に入っていたのは、一枚の便箋。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『魔王ヴォルクスへ。
貴様の“生かさず殺さず”という声明、確かに受け取った。
我々を健康体にまで回復させ、万全の状態で甚ぶろうというその嗜虐性……戦慄した。
だが、勘違いするな。我々もただでは屈しない。
貴様が与える“試練(筋トレ)”を乗り越え、必ずや貴様の首を物理的にへし折りに行く。
首を洗って待っていろ。
――勇者アルバンより』
…………。
私は手紙をそっと閉じた。
「魔王様? 何と?」
「……ファンレター……かな」
私は遠い目をした。
どうやら、私の意図せぬところで、勇者がムキムキにビルドアップされ始めているらしい。
終わった。
世界攻略どころか、私の生存戦略が詰んでいる。




