第2話:「裸の付き合いと、予期せぬ闖入者の影」
温泉の湯気は、まるで白いベールのように視界を柔らかく包み込んでいた。
お湯の温度は摂氏四十二度。
イグニスの微調整のおかげで、私の冷え切った手足の末端まで血液が循環し始めているのがわかる。
私は浴槽(噴水)の縁に頭を乗せ、ぼんやりと空を見上げた。
東の空が白み始め、星々が一つ、また一つと消えていく。
「……気持ちいい……」
口から漏れたのは、言葉というよりは、溜め込んでいた疲労の塊だった。
壁(ドラゴンの尻尾)の向こう側からは、セレスティアがお湯をすくうパシャパシャという音がリズミカルに聞こえてくる。
「……ねえ、ヴォルクス」
不意に、向こう側から彼女の声がした。
いつもの「管理官」としての硬い声ではなく、お湯で少しふやけたような、無防備な響きを含んでいた。
「……なに?」
「貴方、本当にこのまま、ここで暮らすつもりなの?」
「うん。……だめ?」
「だめじゃないけど……。魔王としての野望とか、ないの? 世界を自分の色に染めたいとか」
野望。
INFPにとって、それは最も縁遠い単語だ。
私はお湯の中で膝を抱えた。
「……あるよ」
「えっ、あるの?」
セレスティアの声が少し緊張した。壁の向こうで身構えた気配がする。
「……世界中のみんなが、週休五日制になって……お昼寝の時間が法律で義務化されればいいと思ってる……」
沈黙。
そして、盛大なため息。
「……バカみたい。でも、貴方らしいわね」
「セレスティアさんは? 野望とかあるの?」
私が聞き返すと、彼女は少し黙った後、ポツリと言った。
「……私は、完璧な世界を作りたいだけよ。誰もがルールを守り、誰もが役割を果たし、悲しいことや理不尽なことが起きない……時計仕掛けのように正確で、優しい世界を」
ESTJ(幹部型)らしい理想だ。
でも、その声には少しだけ疲れが滲んでいるように聞こえた。
完璧を求めるあまり、自分自身をがんじがらめにしてしまっているような。
『……お二人とも、素敵な夢をお持ちですね』
イグニスが低い声で割り込んだ。
『私は……ただ、この温かいお湯に浸かって、ヴォルクス様のマシュマロ焼きを見ていられれば、それで十分です』
「イグニス……」
なんて謙虚なドラゴンなんだ。
私たちは、種族も性格もバラバラだけど、この温かいお湯の中では、なんとなく繋がっているような気がした。
その時だった。
ザザッ……ザザッ……。
中庭の茂みの方から、草を踏み分ける音がした。
小鳥のさえずりではない。もっと重く、そして隠そうともしない無遠慮な足音。
「……誰?」
セレスティアの声が鋭くなる。
お湯をかく音が止まった。
私は身を沈めたまま、視線だけを音の方向へ向けた。
朝霧の向こうから、人影が現れる。
一人ではない。五人、いや六人か。
彼らは全員、黒いローブを纏い、顔をフードで隠している。
だが、その手には明らかに物騒なもの――魔導杖や大剣――が握られていた。
「……ここが、魔王の隠し湯か」
先頭の男が低い声で言った。
フードの下から覗く目は、獲物を品定めするような冷たい光を宿している。
「情報通りだ。魔王と聖女、そして炎竜……全員、武装を解除して弛緩しきっている」
武装解除。
確かに、私は全裸だ。セレスティアも(多分)全裸だ。イグニスは元から全裸だ。
物理的にも精神的にも、最も無防備な瞬間。
「貴様ら、何者だ!」
セレスティアが叫んだ。
バシャッ! という音がして、彼女が立ち上がった気配がする(見えないけど)。
しかし、彼女の杖は脱衣所のカゴの中だ。ここにはない。
「我々は『黒の教団』。世界の均衡を崩す異分子を排除する者だ」
男が杖を掲げた。
先端にどす黒い魔力が集束していく。
「魔王ヴォルクス。聖女セレスティア。そして古の炎竜。貴様らの馴れ合いは、世界の『設定』に反する。よって、ここで消去する」
シナリオ?
何を言っているんだ。
しかし、彼らの殺意は本物だ。
「……イグニス!」
私が叫ぶよりも早く、イグニスが動いた。
彼は巨体を起こし、私とセレスティアを庇うように翼を広げた。
『……ヴォルクス様の安息を……邪魔するなァァァッ!!』
普段の温厚な彼からは想像もつかない、激しい咆哮。
しかし、男たちは動じない。
「無駄だ。ドラゴンの弱点は解析済みだ。『対竜結界』展開」
男たちが一斉に呪文を唱えた。
地面から幾重もの光の鎖が飛び出し、イグニスの巨体を絡め取る。
『ぐオオオオオッ!?』
イグニスが悲鳴を上げて崩れ落ちた。
鎖が食い込み、彼の動きを封じる。
「さあ、まずは聖女からだ。その清らかな魂を汚してやる」
男たちが下卑た笑い声を上げながら、壁の向こう側――セレスティアのいる方へと歩みを進める。
「……きゃあっ!?」
セレスティアの悲鳴。
だめだ。
私の平和な朝風呂が。
私の大切な友達が。
またしても、土足で踏みにじられようとしている。
私は温泉の中で拳を握りしめた。
お湯が、沸騰し始めた。
イグニスの熱ではない。私の怒りの熱で。
「……またかよ」
私はつぶやいた。
INFPの堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。
「……いい加減にしろよ……変態ども」
魔王の裸体に、漆黒のオーラがまとわりつく。
湯けむり殺人事件ならぬ、湯けむり虐殺劇の幕開けだった。




