プロローグ(1):「玉座の冷たさと、伝わらない詩心」
玉座の間は、今日も今日とて、憂鬱な色に染まっていた。
高い天井を支える黒曜石の柱。
深紅の絨毯は、まるで古い血痕のよう。
そして壁に飾られた歴代魔王の肖像画は、どれもこれも眉間に皺を寄せ、この世の全てを呪っているような顔をしている。
(……どうして、みんな笑わないんだろう)
私は、魔王ヴォルクス。
この陰鬱な城の主であり、魔族の頂点に立つ者。
今、私は玉座の上で、膝の上に置いた手をじっと見つめていた。
白く、細い指。爪の手入れは完璧だ。だって、誰かを引っ掻いて傷つけたりしたくないから。
私の心の中には、いつだって美しい風景が広がっている。
朝露に濡れる銀の森。
月光を浴びて歌う人魚の湖。
争いのない、静寂と調和に満ちた世界。
でも、現実は違う。
「魔王ヴォルクス様ァァッ!!」
雷鳴のような怒号が、私の繊細な鼓膜を揺さぶった。
ビクリ、と肩が跳ねる。
心臓が早鐘を打つ。やめて。大きな声を出さないで。私は大きな音が苦手なんだ。
目の前に跪いているのは、我が軍団の誇る猛将、オークロードのガインだ。
彼の筋肉は岩のように隆起し、全身から発する熱気と獣臭が、ここまで漂ってくる。
「人間どもが、またしても我らを愚弄しております! 国境の砦にて、聖騎士団が『魔王討伐』の演習を行っているとの報告が!」
ガインが床を拳で叩いた。ドンッ、という衝撃音。
胃が痛い。キリキリする。
演習ってことは、彼らは「私を殺す練習」をしているということだ。
どうして? 私はまだ何もしていないのに。ただ、静かに本を読んで、ハーブティーを飲んでいたいだけなのに。
「許せませぬ! 断じて許せませぬ! 魔王様、どうかご決断を! 全軍に進撃の命令を! 奴らの砦を粉砕し、その瓦礫で城壁を築くのです!」
「うおおおおおっ! 戦争だ! 殺戮だ!」
「血を見せろ! 俺たちの渇きを癒やせ!」
広間に控える数百の魔物たちが呼応する。
彼らの瞳には、狂気と興奮が渦巻いている。
怖い。
みんな、どうしてそんなに野蛮なの?
痛いのは嫌でしょう? 誰かが泣くのは悲しいでしょう?
私は何か言わなければならない。
魔王として、彼らを鎮め、かつ納得させなければならない。
理想を言えば、「争いは何も生まないよ。みんなで詩を詠もう」と言いたい。
でも、そんなことを言えば、彼らは失望するだろう。もしかしたら暴動が起きるかもしれない。
私は彼らに愛されたいわけではないけれど、嫌われるのも怖い。見捨てられるのも怖い。
葛藤が喉を詰まらせる。
言葉が出てこない。
私は俯き、震える唇を開いた。
「……か、悲しい……」
つい、本音が漏れた。
小さく、消え入りそうな声だった。
だが、私の身に宿る強大すぎる魔力が、その声を勝手に増幅し、ホール全体に響く「重低音の嘆き」へと変換してしまった。
『……哀しい…………な…………』
空気が凍りついた。
魔物たちの歓声がピタリと止む。
ガインが、ぎぎぎ、と首を上げて私を見た。
(あ、しまった。また雰囲気を重くしてしまった)
私は顔面蒼白(もともと白いけど)になった。
早くフォローしないと。
えっと、えっと。
悲しいのは、人間たちが愚かだからで、戦争そのものが嫌なわけで……いや、でも戦うのは嫌で……。
「……なぜ……彼らは……気づかないのだろう……」
私は必死に言葉を紡いだ。ポエム調で。
「……命は……散るためにあるわけではないのに……」
ああ、なんて抽象的。
これじゃ伝わらない。私の言いたいことは「死ぬの怖いからやめよう」ってことなのに。
しかし。
ガインの目が見開かれた。
その瞳に、畏怖の色が浮かぶ。
「……命は、散るためにあるわけではない……だと?」
ガインが震える声で復唱した。
「そ、そうか……! 魔王様は、単なる殺戮など望んでおられないのだ……!」
「え?」
「ただ殺すだけでは、それは『解放』になってしまう! 苦しみから救ってしまうことになる!」
「はい?」
「散らせるな、と仰っているのだ! 殺さずに……生かしながら、永遠の苦痛と絶望を与え続けろと! 命を弄び、その尊厳を極限まで踏みにじることこそが、真の『哀しみ』であり、魔王様の望む地獄絵図なのだ!」
(……まって)
私の思考が追いつかない。
すごい勢いで解釈がねじ曲がっている。
「命を大切に」が、どうして「死なせないように拷問しろ」になるの?
この種族間のコミュニケーション・ギャップ、埋めようがなくない?
「うおおおおっ! 深い! 深すぎる!」
「殺して終わりじゃないんだ! 生かして地獄を見せるんだ!」
「なんて残酷で、なんて慈悲深い(皮肉)んだ!」
広間が、先ほどとは質の違う、より陰湿で粘着質な熱狂に包まれていく。
やだ。なにこれ。余計に怖くなったんだけど。
私は助けを求めるように、虚空を見つめた。
涙が滲んできた。
この涙すら、彼らは「人間の愚かさを嘆く慈悲の涙」とか「獲物を前にした歓喜の涙」とか解釈するんだろうな。
もういい。
諦めよう。
私は疲れた。精神的HPがゼロだ。
私はゆっくりと玉座から立ち上がった。
マントを引きずる。
もう、自室に帰ろう。ハーブティーを飲んで、大好きな恋愛小説『白薔薇の君と、呪われた騎士』の続きを読もう。
「……あとは……任せる……」
私は投げやりな一言を残し、玉座の裏にある隠し扉へと向かった。
背後から、ガインの絶叫が聞こえる。
「ハハァーッ!! 承知いたしました! 『生かさず殺さず、永遠の責め苦』を与えるための準備に入ります! まずは拷問器具の手入れからだーッ!!」
違う。
私が言いたかったのは「あとは(勝手に解散して、みんなでお茶でも飲んでてくれればいいから、私のことはほっといて)任せる」だったのに。
隠し扉が重い音を立てて閉まる。
廊下に出た瞬間、私は壁に手をついてへたり込んだ。
「……はぁぁ……」
ため息が回廊に木霊する。
胃薬が欲しい。この世界に胃薬はあるんだろうか。
なければ、薬草園の管理をしている魔女のお婆ちゃんに相談しよう。
……あのお婆ちゃんも、私のことを「毒の調合を依頼に来た」とか勘違いしそうで怖いけど。
私はトボトボと、薄暗い廊下を歩き出した。
足取りは重い。
世界攻略? 無理無理。
私はただ、この城の片隅で、静かに暮らしたいだけなのに。




