稲荷井の想い
夏祭りから数日後、豊は一人で学校の購買部にいた。
生徒会から依頼された文化祭後の売上集計を手伝っているのだが、今日はなぜか集中できない。美月の浴衣姿が頭から離れないのだ。
「稲荷井君、お疲れさま」
振り返ると、海斗先輩が立っていた。
「海斗先輩、お疲れさまです」豊は眼鏡をクイッと上げた。
「文化祭の集計、順調?」
「はい。売上は予想を上回っています」豊は資料を見せた。「投資効果としては十分な結果でしょう」
海斗は豊の分析力に感心した。「君、本当にすごいな。生徒会に入らない?君がいると、財政管理がとても助かりそうだ」
「ありがとうございます」
「ところで」海斗は少し声を落とした。「最近、美月の様子が気になるんだ」
豊の手が止まった。
「どういう意味ですか?」
「恋愛関係で悩んでるみたいでさ」海斗は苦笑いした。「照井君と嵐山君の間で揺れてるのかな」
豊は複雑な表情をした。海斗先輩は、自分の告白のことは知らないようだった。
「そうですね...」豊は曖昧に答えた。
「君は美月の幼馴染だから、何かアドバイスできないかな?」海斗が尋ねた。
豊は少し考えてから答えた。「美月は自分で答えを見つけるタイプです。周りが口を出しすぎない方がいいと思います」
「なるほど」海斗は頷いた。「君は美月のことをよく理解してるんだね」
「幼馴染ですから」豊は淡々と答えた。
海斗が去った後、豊は一人で考え込んでいた。
(美月のこと、本当に理解してるのかな...)
自分は美月の気持ちを理解していると思っていたが、実際はどうなのだろう。彼女が陽斗と颯太の間で悩んでいることは分かるが、自分への想いについては、やはり恋愛感情ではないのだろう。
放課後、豊は美月を迎えに生徒会室に向かった。いつものように一緒に帰るためだ。
「美月、お疲れさま」
「豊君、ありがとう」美月は荷物をまとめながら答えた。
「今日はどうだった?」
「特に変わったことはないかな」美月は曖昧に答えた。
二人は並んで校門を出た。いつもの帰り道を歩きながら、豊は美月の横顔を見た。少し疲れているように見える。
「美月、最近よく眠れてる?」
「え?」美月が振り返る。
「なんとなく、疲れてるように見えて」
「そうかな...」美月は苦笑いした。「少し考え事が多くて」
豊は立ち止まった。「照井君と嵐山君のこと?」
美月も足を止めた。「豊君...」
「僕に話せることがあれば、聞くよ」豊は真剣な表情で言った。「投資的観点抜きで」
美月は少し笑った。「投資的観点抜きって、珍しいね」
「たまには、ただの幼馴染として話を聞きたいんだ」
美月は少し迷ってから口を開いた。
「二人ともとても素敵なの。照井君は優しくて、一緒にいると安心する。颯太君は情熱的で、心が動かされる」
豊は黙って聞いていた。
「でも、どちらかを選ぶってことは、どちらかを傷つけることでもある」美月は続けた。「それを考えると、答えが出せなくて」
「美月は優しすぎるんだ」豊が呟いた。
「え?」
「人を傷つけたくないって気持ちは分かる。でも、曖昧なままでいることも、相手を傷つけることになるよ」
美月はハッとした。豊の言葉に、ドキリとするものがあった。
「豊君...それって、あなたに対しても?」
豊は少し考えてから答えた。
「僕の場合は少し違うかな」豊は微笑んだ。「僕は美月の幸せが一番大切だから。美月が他の人を選んでも、それで美月が幸せなら僕も嬉しい」
「本当にそう思ってる?」美月が心配そうに尋ねた。
「本当だよ」豊は頷いた。「ただし、条件がある」
「条件?」
「美月が心から納得できる選択をすること」豊は真剣になった。「義理や同情で決めるんじゃなくて、自分の気持ちに正直になること」
美月は豊の言葉を深く受け止めた。
「ありがとう、豊君」
「どういたしまして」
二人はまた歩き始めた。
「豊君は、いつからそんなに大人になったの?」美月が尋ねた。
「いつからかな...」豊は少し考えた。「多分、美月を好きになってからかも」
美月は驚いた。豊がそんなことを素直に言うなんて。
「人を好きになるって、成長させてくれるものなんだね」豊は続けた。「美月のおかげで、僕は前より優しくなれたと思う」
「豊君...」
「だから、美月には感謝してるんだ」豊は振り返った。「恋が実らなくても、美月を好きになれてよかった」
美月の目に涙が浮かんだ。豊のそんな言葉を聞いて、胸が締め付けられた。
「泣かないでよ」豊は慌てた。「せっかくいいこと言ったのに」
「ごめん」美月は涙を拭いた。「豊君が素敵すぎて」
「それなら、僕を選んでくれてもいいのに」豊は冗談めかして言った。
「豊君...」
「冗談だよ」豊は笑った。「でも、半分本気かも」
翌日の昼休み、豊は一人で中庭にいた。お弁当を食べながら、昨日の美月との会話を思い返していた。
「稲荷井先輩」
振り返ると、明が立っていた。
「春日さん、どうしたの?」
「お昼一緒に食べませんか?」明がお弁当を持ち上げた。
「もちろん」豊は隣のベンチを指した。
明は豊の隣に座った。
「稲荷井先輩は、美月さんのことがお好きなんですよね」明が突然言った。
豊は驚いた。「どうして分かるの?」
「見てれば分かります」明は微笑んだ。「でも、美月さんは気づいてませんよね」
「気づいてるよ」豊は苦笑いした。「ちゃんと告白もした」
「えっ?」今度は明が驚いた。
「でも、恋愛対象としては見てもらえなかった」豊は淡々と話した。「まあ、幼馴染だから仕方ないかな」
明は複雑な表情をした。
「稲荷井先輩、辛くないんですか?」
「辛いよ」豊は正直に答えた。「でも、美月が幸せならそれでいい」
「僕も...似たような感じです」明が小さく言った。
「春日さんも?」
「照井先輩のことが好きなんです」明は頬を赤らめた。「でも、先輩は美月さんのことしか見てない」
豊は明の気持ちがよく分かった。
「辛いね」
「はい...でも、稲荷井先輩を見てて思ったんです」明は続けた。「好きな人の幸せを願うって、とても美しいことだなって」
豊は明を見直した。この後輩は、思っていたよりずっと大人だった。
「春日さん、君はいい子だね」
「ありがとうございます」明は微笑んだ。「稲荷井先輩も、とても素敵な人です」
二人は並んでお弁当を食べながら、それぞれの恋について語り合った。同じような境遇にある者同士、不思議な連帯感が生まれていた。
放課後、豊は購買部の整理をしていた。今日は美月の生徒会の仕事が長引くと聞いていたので、一人で作業をしている。
「よお、幼馴染君」
振り返ると、颯太が立っていた。
「嵐山君?どうしたの?」
「ちょっと話がある」颯太は近づいてきた。「美月のことだ」
豊の表情が緊張した。
「美月がお前のことを大切に思ってるのは分かる」颯太は続けた。「でも、恋愛感情じゃないってことも分かる」
「...何が言いたいの?」
「お前、諦めてるだろ」颯太は真っ直ぐに豊を見た。
豊は答えなかった。
「俺はお前みたいに諦めるつもりはない」颯太は宣言した。「美月を手に入れるまで、諦めない」
「美月は物じゃない」豊が静かに言った。「手に入れるとか、そういう話じゃないでしょ」
颯太は少し驚いた。豊の言葉に、思わぬ強さを感じたのだ。
「そうだな」颯太は頭を掻いた。「言い方が悪かった」
「美月が幸せになれるなら、君でもいい」豊は続けた。「でも、美月を泣かせたら許さない」
颯太は豊をじっと見つめた。
「お前、本当に美月のことが好きなんだな」
「当たり前でしょ」豊は眼鏡をクイッと上げた。
「分かった」颯太は頷いた。「美月は大切にする」
颯太が去った後、豊は一人で考えていた。
自分の恋は実らないかもしれない。でも、美月への想いは本物だった。そして、その想いが自分を成長させてくれたことも確かだった。
「美月、君が幸せになれますように」
豊は心の中で祈った。たとえ自分が選ばれなくても、美月の笑顔を見ていたかった。
夕日が購買部の窓から差し込んで、豊の眼鏡を優しく照らしていた。