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 第三章 海江田亜紀への追想

 ぼくはアキが転校して来た日を思い出した。

 ぼくらの小学校は六年生が十六人だった。

 そのせいでクラスはひとつしかない。

 六年生の新学期は五年生の延長ではじまった。

 ぼくはいちばんうしろの席だ。

 ぼくの左隣の机はあいている。

 シンジの席だ。

 シンジが転校した空白をその席はぼくに見せつけていた。

 ぼくの右隣はミク。

 ミクの右向こうはコトブー。

 始業式の一週間後にアキはやって来た。

 全員の自己紹介が終わると先生はぼくの左隣の席を指さした。

 元のシンジの席だけがあいていたからだ。

 アキはよろしくねと会釈して腰をおろした。

 ぼくはその瞬間こう思った。

 この子はどうしてこんなさびしげに笑うんだろうと。

 知らない者たちの中で心細いのかも?

 そうぼくは踏んだ。

 力になってあげなきゃとぼくはこぶしを固めた。

 アキは初対面からぼくを『ユーヤくん』と呼んだ。

「ねえユーヤくん。きょうシンジくんはお休み?」

 ぼくはアキの顔を見た。

 どうしてシンジを知っているんだろうと。

「えっ? その席がシンジの指定席だったんだ。シンジは引っ越したからもう来ないよ?」

「あらそうなの。なんだ。引っ越しちゃったんだ。ちょっと残念。ねえユーヤくん。わたし教科書忘れちゃった。見せて」

「うん。いいよ」

 ぼくは机をくっつけた。

 教科書をふたりのあいだに立てる。

 ぼくは思い出す。

 ぼくが引っ越して来たときも教科書が間に合わなかった。

 シンジにこうやって見せてもらったっけ。

 シンジは最初からぼくに友好的な笑顔を見せた。

 でもコトブーはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 以来コトブーとはそんな関係だ。

 ぼくはアキに右隣のミクを手で示す。

「あっちが猫森美紅。自分のことをボクって呼ぶんだ。男まさりでね」

 アキが興味なさそうにぼくの口を途中でふたした。

 そんなの知ってるわって顔で。

「ふうん。じゃミクちゃんの向こうは?」

「コトブー? 酒屋の息子でね。おばあさんが店で焼くたこ焼きは町の名物だよ」

 アキがうふふと笑ってぼくを見た。

「ユーヤくんとコトブーくんは仲がよくないのよね? なにか理由があるの?」

「えっ? 理由? よくわからないよ。ぼくが転校して来た当初からコトブーはぼくをきらってるらしい。理由なんかないんじゃないかな?」

「そうなんだ。まあきらいになるのに理由はいらないわよね。好きになるのも理由なんかいらない。そうでしょ?」

 ぼくがアキの質問に答えかけると先生がぼくらを叱った。

 ぼくとアキは口をつぐんだ。

 以来アキは毎日教科書を忘れたと机を寄せて来た。

 ぼくらは先生の目を盗んで小声でひそひそ話し合った。

 ぼくはクラスの人間関係や町の様子を説明しようとした。

 でもアキが聞きたがるのはぼくのことばかりだった。

 ぼくがぜんそくで苦しんだって話すとアキも実感のこもった相づちを打った。

「わたしもね。小さいころすっごく深刻な病気にかかったの。一生治らないんじゃないか。そう心配したわ。ここだけの話にしてくれるユーヤくん?」

「うんいいよ海江田さん」

「アキって呼んでよユーヤくん。実はわたしね。五百円ハゲになっちゃったことがあるの。わたしって非社交的でしょ? 人間関係での悩みが多いのよね。男の子はそうでもないけど女の子ってそういう気苦労が絶えないの。気づいたらハゲが頭のてっぺんにできててね。五百円玉大のすっごく目立つやつ。気にすれば気にするほど治らないの。もう一生恋なんかできない。いっそ死んじゃおうって思ったわ。ところでね。ユーヤくんのぜんそくはいつ治ったの?」

「この町に越してからだよ。シンジと釣りをするようになっていつの間にか治ってた」

「そうなの。わたしもこの町に来たから全快するかな? まだ完全に治ってないのハゲが。えへっ。五百円玉じゃなくなったけど薄い部分があるわ。今度ふたりっきりのときに見せてあ・げ・る。気をつかってハゲててもハゲてないなんて言っちゃやーよ。自分じゃよく見えないところにあるから誰かに説明してほしいの」

 そのときミクがぼくとアキのあいだに丸めたノートの切れっぱしを投げこんだ。

 広げると『ボクが見てやるよ五百円ハゲ』と書かれていた。

 ハッとぼくとアキがミクに向く。

 ミクが頭のてっぺんに指で丸を作って歯をむいた。

 アキがぼく越しにミクに口を開く。

 先生に聞こえない声でミクに毒舌をぶつけた。

「他人の会話を盗み聞くなんてよくないわよ。タチの悪いネコさんね。そんなにわたしとユーヤくんが気になるの?」

 ムカッとミクのひたいに青すじが立った。

 ミクの背中でコトブーが口パクをしている。

 ミクにケンカを売るな五百円ハゲと読めた。

 ぼくらの会話はコトブーにまで届いたらしい。

 ミクが席を蹴った。

 アキの売り言葉に『なにをー』と。

 わっとぼくは驚いた。

 ミクの手をつかむ。

 両手を広げてアキにつかみかかろうとするミクの手を。

 ミクがぼくをかむべく口をあけた。

「止めるなユーヤ! この女をもう一度五百円ハゲにしてやるんだ!」

 コトブーがうしろからミクをはがいじめにした。

 ぼくとコトブーでいきり立つミクを制する。

 ミクは男まさりなだけあって油断するとぼくらが引きずられる。

 もみ合っているぼくら三人に先生がツカツカと小走りで寄って来た。

「伊沢! 猫森! 琴吹! あんたたち三人! 廊下に立ってなさい!」

 ぼくとミクとコトブーは先生にえりをつままれた。

 そのまま廊下にほうり出される。

 廊下でミクが口をとがらせた。

「どうしてボクら三人が廊下だよ! 悪いのはあのろくでなし女だぞ! 毎日毎日教科書を忘れるバカ女をなぜ先生は注意しない! おかしいじゃないか! うちの担任は女のくせに可愛い顔した美少女に弱いのか!」

 ミクのぼやきにコトブーが首を横にふった。

「いや。海江田は美少女じゃねえ。ああいうのは性悪女しょうわるおんなって言うんだ。おとなになると魔性の女になるはずだ。先生の前では可愛い笑顔を絶対に崩さねえ。おとな受けはひたすらいい。だからおれたちがどう文句を垂れてもむだだぜミク」

「そんなのってありかい? なんでいちばんの元凶のあの女がおとがめなしでボクらがこんなあつかいを受けるんだよ? それってまちがってるぞ?」

 コトブーが鼻で笑った。

「ふふふ。おとなの世界ってのはそんなものよ。正直者がバカを見るのさね。本当に悪いやつは笑顔でみんなをだますのよ。おれは子どもだから真実と美しいものを見抜く目を持ってるぜ。おれの目を信じろミク」

 コトブーの見開いたどんぐりまなこにミクが肩をすくめる。

「ウソくせー。ボクはお前がいちばん信用できないね。そんな純真なやつがペットボトルデブになるかよ。なあユーヤ?」

 ぼくは顔をそむけた。

 ぼくにふるなよと。

 それじゃぼくまでコトブーを邪心のかたまりに見てるみたいじゃないか。

 ただでさえ仲が悪いのにこれ以上悪くするのはやめてくれ。

 チャイムが鳴るまでぼくらは立たされた。

 アキが転校して来て一週間目だった。

 帰りじたくのアキがぼくに声をかけた。

「ねえユーヤくん。わたし釣りがしてみたい。つれて行って」

「うん? ああいいよ。溜め池でよけりゃ」

「わたし海の魚は恐いからそのほうがいいわ。言っとくけどミミズもだめよわたし。ミミズ以外のエサを用意してね」

 ぼくも最初そう思った。

 シンジから釣りに誘われたときフナはミミズで釣るものだと。

 けど最近のフナは植物性の練り餌で狙うとシンジに教えられた。

 シンジが説くにはフナ釣りは釣りの中で最も奥の深い釣りだそうだ。

 ぼくも帰りじたくをはじめた。

 そのときふと横を見た。

 アキのランドセルの中が目に入る。

 アキのランドセルには真新しい教科書がぎっしり詰まっていた。

 ぼくは不思議に思った。

 あれれ?

 どうして教科書を忘れたなんてアキはウソをついたんだろう?

 ちゃんと持って来てるじゃないか?

 ぼくはアキがウソをつく理由がわからなかった。

 ランドセルを背負ったアキが立ちあがった。

「じゃわたし溜め池の前で待ってるわね。ミミズは持って来ちゃやーよユーヤくん」

 家に帰ったぼくはアキに竿を用意した。

 シンジが引っ越してからぼくは釣りをしていない。

 シンジがいたときもシンジにおんぶにだっこだった。

 ぼくはふたり分の釣りの用意をととのえた。

 溜め池に自転車を飛ばす。

 アキはすでにぼくを待っていた。

 つばがひらひらと広がった絹の帽子に白いスカート姿で。

 釣りをするかっこうじゃない。

 でもぼくは見とれた。

 アキの日に焼けたことのないまっ白な肌が陽光を照り返している。

 初夏を思わせる陽炎を背に強く握れば折れそうな細い手首がぼくを招いた。

 幸せを顔から笑みこぼしながら。

 ぼくはアキの竿に仕掛けをつないだ。

 慣れない手つきで。

 シンジのお父さんが池にすえた板貼りの台座からぼくはアキのウキを池に投げこむ。

 見よう見まねだ。

 練り餌は落ちなかったもののなにかがおかしいのだろう。

 アキのウキはピクリとも動かない。

 シンジと釣っているときはすぐモロコがつついてウキがピクピクしたのに。

 ぼくは思い出す。

 シンジの言葉を。

 フナ釣りは奥が深いんだと。

 ぼくはエサを替えた。

 仕掛けも替えた。

 ウキも替えた。

 でもどれだけ工夫してもアキの竿にはモロコが一匹釣れただけだった。

 小さな小さな小指ほどのモロコだ。

 アキはそのモロコが可愛いと笑み崩れた。

 針をはずしたモロコをアキがそっと池に逃がす。

 ぼくはタオルでアキの指についたモロコのぬめりをぬぐった。

 アキの細い指にアキの身体のもろさが透けていた。

 なのにぼくには見えなかった。

 アキの寿命が。

 フナ釣りは奥が深い。

 でもミクとコトブーとオニヘーは底が浅い。

 ぼくとアキが釣れないフナに悪戦苦闘しているとミクがまず現われた。

 ミクはぼくとならぶアキを見て頬をぷくっとふくらませた。

 アキのかっこうは釣りの服装じゃない。

 ひらひらの帽子に清純そのものの白スカートだ。

 ミクは野球帽にスパッツにTシャツだった。

 女の勝負にならないと判断したのだろう。

 ミクがぼくの竿をひったくる。

 ミクは釣りで勝敗を決めようと考えたようだ。

 ミクはすぐにぼくの竿でフナを釣りあげた。

 ぼくとシンジに毎日割りこんだだけはある。

 どうもエサの固さが秘訣らしい。

 ぼくの練ったエサは固すぎてフナの口に合わないみたいだ。

 ぼくはあわててアキのエサを軟らかく練り直した。

 ミクがフナを手にニッとアキに自慢げな笑顔を向けた。

 第一ラウンドはミクの勝ち。

 お返しにアキがあかんべーをして舌をレロレロ伸ばす。

 美少女がだいなし。

 ムカッと来たミクがフナを池に投げ捨てた。

 二匹目を釣ろうとウキを浮かべる。

 負けじとアキも仕掛けを投じた。

 そのときコトブーが溜め池の土手に姿を見せた。

 いつものように石を投げようと大きな岩に肥大したお尻をすえる。

 コトブーがうつむいて手ごろな石を探しはじめた。

 そこにいつもより早くオニヘーが走って来た。

 いつもだとコトブーが石をさんざん投げたあとで現われるのに。

「こらあっ! 池に石を投げるんじゃなーい! チエちゃんはそんなたわけたまねはしなかったぞぉ!」

 そのチエちゃんって何者だよ?

 そうぼくとアキとミクはオニヘーの声に顔を向けた。

 一方コトブーは大きくあわてた。

 いつもコトブーは立って石を投げる。

 オニヘーが来るとコトブーは立ち姿のまま逃げ出す。

 ところがきょうのコトブーは岩にすわった。

 ぼくが釣りに来たのがひさしぶりだったせいだろう。

 いつもの用心をコトブーは忘れた。

 コトブーは石を探す体勢のままびっくりした。

 そのためコトブーのすわる岩がゴロリとかしいだ。

 コトブーは前のめりに身を投げ出された。

 大きな岩はゴロゴロと転がりはじめた。

 岩は斜面を一直線に駆けおりて来る。

 ぼくら三人が乗る台座に向かって。

 そのコースだとぼくら三人はボーリングのピンになる。

 三本しかないピンだけどストライクまちがいなし。

 ぼくはアキの手を引いた。

 台座を離れようと。

 ミクは男まさりだから余裕で岩をよけるはず。

 そう思った。

 でもちがった。

 ミクも女の子だった。

 迫る岩に硬直して立ち尽くしている。

 手を頬に当てて。

 アキがぼくの指をほどいた。

 アキがミクの手を取る。

 ミクを岩の進路からどかせようとアキがミクを引く。

 ぼくも手を貸した。

 転がる岩が台座の板に乗った。

 ズドズドとぼくらに迫った。

 恐怖でこわばったミクのひざが動かない。

 ぼくとアキはミクをたぐり寄せられない。

 台座が岩の重さで縦揺れを起こした。

 ぼくとアキはミクを台座の端に押す。

 ミクが岩の進路からずれた。

 ぼくらも岩をよけようとした。

 でも狭い台座上にミクと岩が乗るとぼくとアキの立つ場所がない。

 台座から岩の通り道とミクを引く。

 残りはゼロ。

 つまりぼくとアキは台座の上にいるかぎり岩の下敷きだ。

 いまから陸に逃げもできない。

 ぼくとアキは見合わせた顔を同時にうなずかせた。

 逃げ場は池だけだ。

 迫る岩が目前。

 ぼくらは台座ごと上下に振動中。

 冷や汗がタラタラ。

 考えていては間に合わない。

 アキがぼくに抱きついた。

 悠長に『せーの』なんて声をかけているひまはなかった。

 ぼくはうしろ向きに池に飛んだ。

 アキを抱きかかえて。

 間髪を入れず岩がゴロゴロ。

 岩が台座を通過した。

 ドップーン!

 岩が池に身を投げる。

 ぼくはアキと抱き合ったまま池に尻もちをついた。

 岩の立てた水柱が盛大にあがった。

 遊園地のウォータースライダーが着水したみたい。

 ぼくはホッと息を吐く。

 母さんがこの溜め池でなら釣りをしてもいいと許可したのはここが浅いせいだ。

 岸からしばらくは子どもでも足が立つ。

 溺れる心配はまずない。

 ぼくとアキはぬるむ池の底に手をつけた。

 水は腰までしかない。

 でも泥で気持ちが悪い。

 ぼくもアキも胸までびしょ濡れだ。

 夏に近い気温だから風邪は引きそうもないけど。

 ミクが台座の板からひざ立ちにぼくらを見おろしている。

 ミクの身体ぎりぎりを岩が通りすぎた。

 そのせいでミクは腰が抜けたみたい。

 放心した顔だ。

 コトブーは土手ででんぐり返ったままだった。

 オニヘーはコトブーに見向きもしない。

 ぼくとアキにすっ飛んで来る。

 台座をオニヘーがドスドスと踏む。

 叱られるとぼくは首をすくめた。

 オニヘーが台座上から池にいるぼくとアキを見おろした。

 アキがキャハハハハと笑いはじめた。

 おもしろくてたまらないとアキが腹をかかえる。

 さすがのオニヘーも毒気を抜かれたらしい。

 ぼうぜんとアキを見つめた。

 ひとしきり笑うとアキが池の中からオニヘーに右手をさし伸べた。

 オニヘーがアキを台座に引きあげる。

 ぼくはオニヘーが恐いので自分でよじのぼった。

 オニヘーが帽子の下のアキの顔をしげしげとながめた。

 ほぉと口を丸める。

「チエちゃんより可愛い子に会ったのは初めてだ。早く帰って着替えるんだぞ嬢ちゃん」

 アキが水を垂らす帽子を取って腰を折った。

「ありがとうおじさま。おじさまもなかなかダンディよ」

 照れたオニヘーが目を白黒させた。

 でもすぐ目をコトブーに転じた。

 オニヘーが土手を駆けあがる。

「こぉらぁ! この悪ガキがぁ! 死人が出たらどうすんだぁ! チエちゃんより可愛い子の顔にケガをさせたらぶっ殺すぞぉ!」

 コトブーがあわてふためき逃げはじめた。

「わぁお! おれそんなつもりじゃないよぉ! いまのは事故なんだぁ! 信じてくれよオニヘー!」

 コトブーを追いかけてオニヘーが去った。

 アキが立てないミクを見おろした。

 次に池に落ちた岩の波紋を見る。

 ちょっと考えたアキがまた笑いをはじけさせた。

 ぼくはアキに訊く。

「なにがそんなにおかしいの?」

「だってねユーヤくん。わたしたちもミクちゃんと同じ側によけたら岩が素通りしたんじゃない? 池に飛びこむ必要はなかったんじゃないの?」

 あっとぼくは声を洩らした。

 そのとおりだ。

 ミクがずぶ濡れのぼくとアキを見てぎこちなく笑いはじめた。

 ぼくとアキも笑う。

 ぼくもアキも着替えなければならない。

 ぼくとミクは溜め池の前でアキと別れた。

 アキは家がこの近くだからとぼくに説明した。

 ぼくはアキの説明を不思議に思わなかった。

 溜め池の近くにはオニヘーの家しかないのにぼくはアキの言葉をおかしいと感じなかった。

 アキがぼくとミクに手をふる。

 またあした学校でねと。

 空は雲ひとつない。

 四月なのに汗ばむほど暖かな陽気だった。

 家に着いたぼくのシャツはすでに乾いていた。

 脱ぎ捨てたぼくの服は溜め池特有の変な匂いがした。

 洗濯機に入れずに手で洗ってねと母さんに叱られた。

 明日学校でアキに手洗いの苦労を教えてやろう。

 ぼくはそう考えながらズボンとパンツを洗った。

 翌日アキは学校に来なかった。

 風邪でも引いたのかな?

 帰りにお見舞いに行こうか?

 なんてぼくは考えていた。

 でもそれも昼休みには忘れた。

 ぼくはみんなと校庭を駆け回った。

 コトブーは昨日オニヘーにつかまらなかったようだ。

 普段と変わりない顔で登校していた。

 いつもと同じ一日が春のうららかな陽気とともに過ぎた。

 ぼくは思いもしない。

 きのうあんなに元気だったアキが昼休みに死につつあったなんて。

 アキが死んだ。

 そう知らされたのはさらに翌日だ。

 先生が目を腫らせて報告した。

「海江田亜季さんがお亡くなりになりました。召されて天国に行かれました。三歳から宝物にしていたクマのぬいぐるみを胸に」

 ぼくらはみんな信じられなかった。

 でも先生のまっ赤に泣き明かした眼が動かせない事実だと告げている。

 先生は必死で涙をこらえていた。

 アキは病院から学校にかよっていたそうだ。

 死にかけ病院から。

 ぼくはアキの言葉の意味をそのとき知った。

 家が溜め池の近くだとアキが言ったのは死にかけ病院をさしてたんだと。

 アキが死にかけ病院に入院中だと知ってたら。

 ぼくはそう悔やんだ。

 アキと釣りに行きはしなかった。

 でももう取り返しがつかない。

 どんなに泣いてもアキは帰らない。

 アキの両親は隣町にマンションを借りてアキを見守っていたそうだ。

 池に落ちたあとアキは両親と病室でごく普通に笑い合った。

 失敗して水びたしになっちゃったと。

 両親が病室を去った夜中に熱が出た。

 翌日は朝から高熱が引かなかった。

 小学校の昼休みが終わる直前アキは天に召された。

 たった一週間の同級生だった。

 ぼくらはクラス全員でアキの葬式に出席した。

 そのときだ。

 ぼくがアキのお母さんに頬をぶたれたのは。

 ぼくが泣くより先にアキのお母さんが涙をポロポロとこぼした。

 アキのおじいさんが彼女の肩を抱いてつれ去った。

 アキのお父さんがぼくの頬を調べてくれた。

 お父さんがぼくを別棟に招く。

「すまなかったね伊沢くん。許してくれないか。妻は気が動転してるんだ」

 わけがわからないぼくにお父さんが話してくれた。

 ぽつりぽつりとアキの一生を。

 アキは幼稚園のときに白血病を発症した。

 アキは小学校時代をずっと病院ですごした。

 アキは骨髄移植のドナーが不適合だった。

 ドナーつまり『提供者』だ。

 アキにぴったり合う骨髄の提供者がいなかった。

 アキは一進一退で病室に閉じこめられた。

 去年の一月だ。

 脳に腫瘍が見つかったのは。

 アキは手術をした。

 でも白血病のせいで血が止まらない。

 腫瘍をすべて取り除けなかった。

 白血病と脳腫瘍が重なってアキの命は今年の夏までと宣告された。

 白血病だけなら。

 脳腫瘍だけなら。

 そうアキのお父さんは涙した。

 どちらかひとつなら薬や手術でアキはもっと長く生きられたのにと。

 アキのお父さんがぼくに教えてくれた。

 一般の病院は手の打ちようがなくなった患者を厄介者あつかいにするそうだ。

 近く確実に死ぬ人間を見つづけるのは医師も看護師もつらいから。

 そういう特殊な患者を受け入れる施設がぼくらの町に建つ『死にかけ病院』だ。

 死を看取る代金として高額の部屋代を要求する。

 こんな田舎に大病院が建つ理由はそれだった。

 アキは去年の四月に一般病院を追い出された。

 そしてこの町に来た。

 死にかけ病院に。

 アキは最初海の見える病室にいた。

 南向きの景色のいい部屋に。

 医師も両親もアキに残り時間を教えなかった。

 でもアキはいつしか自分の入れられた病院が一般の病院とちがうと気づいたんだろう。

 死にかけ病院に一般患者はいないから。

 全員が間近な死を待つ人間ばかりの病院でアキはなにを見つめたんだろう?

 なにを考えたのかな?

 しばらくしてアキは要求した。

 溜め池しか見えない北側の病室に替えてくれと。

 アキの両親は家の経済状態を考えたからだと思ったそうだ。

 海の見える部屋より景色の悪い溜め池側の病室は部屋代が安い。

 年が明けた今年の三月だ。

 アキはとつぜん小学校に行きたいと切り出した。

 死にかけ病院からいちばん近いぼくらの小学校に。

 アキは昨年の毎日を病室ですごした。

 たったひとりで。

 窓がひとつだけのまっ白な病室だった。

 アキの唯一の楽しみはぼくらのドタバタを見ることだったようだ。

 ぼくらは飽きもせず溜め池で騒動をくり返した。

 アキがシンジを知っていたのも見ていたからだ。

 声も聞こえていただろう。

 静かな田舎の池面いけもを渡るぼくらの大声が。

 死の直前アキは両親に笑いながら伝言を託したそうだ。

 ぼくのせいじゃないから気にしないでと。

 わたしのわがままだったのと。

「ユーヤくんと釣りができて幸せだった。コトブーくんに岩を転がしてもらって楽しかったわ。ミクちゃんは可愛いからきっとユーヤくんのいいお嫁さんになるわね。シンジくんと会えなかったのがひとつだけ残念」と。

 アキは最期まで笑っていたそうだ。

 こんなに楽しい一週間はなかった。

 ほんとよと。

 アキのお父さんの話が終わってぼくは悟った。

 先生がぼくら三人だけを廊下に立たせた理由を。

 先生がアキを立たせなかったのはアキの寿命を知ってたせいだ。

 夏まで生きられるかわからないアキだ。

 どんないたずらをしようと先生は叱らなかったにちがいない。

 叱ろうとしても叱れなかったのかもしれない。

 あと三ヶ月の命の教え子なんてつらすぎる。

 そのときウルルがふうとため息を吐いた。

 食事を終えたらしくおなかをさすっている。

「悲しみの比重が突然ふくらんだせいでもうおなかいっぱい。ごちそうさま。子守歌を歌ってもらったみたいにいい気分だ。ありがとうユーヤ」

 ウルルの言葉にぼくは回想から引きもどされた。

 ぼくをじっとりとにらむミクの目に気づく。

 ミクの口の端がゆがんだ。

「ミント味の思い出ってどんなかなあ? ボクにもあとでゆっくり聞かせてねユーヤ。ボクの悪口ばかりだったら怒るからね」

 ミクとコトブーの視線がぼくに突き刺さる。

 ぼくは青ざめた。

 とってもまずい気がする。

 なんとかごまかさなきゃ。

 ぼくは落とし穴をのぞきこんだ。

 事実を見つめ直してみる。

 戸の外はガレキの山だった。

 あれってどういうことだろう?

 あっ!

 ひょっとすると。

「わかった気がする。この部屋の仕掛け」

 ぼくは廊下を落とし穴の反対に走った。

 入って来た戸を探す。

 ミクとコトブーもついて来た。

 でも入って来た戸はなかった。

 部屋の東の戸がない。

 ミクがぼくの顔を見る。

「戸がどこにもないぞユーヤ!」

 コトブーもぼくに顔を向けた。

「どうして入って来た東の戸が消えたんだよユーヤ?」

 ぼくは廊下の両壁を見あげる。

「ぼくが考えるにこの廊下はさ。方位が入れ替わってんじゃないの? ぼくらは廊下を東西に走ったと思った。けど実は南北じゃ? そのため踏みこんだときにめまいがした。あのめまいは東に向いたぼくらの足を無理やり北に向けためまいだったんじゃないかな?」

「は?」

 コトブーとミクが首をかしげた。

 飲みこめないらしい。

「だからさ。最初の図書室で壁が床になったのを見ただろ。あれといっしょだよ。この部屋の東西だと思ってる方向感覚をセセリがねじ曲げたんじゃないかな? そのウソに気づかせないためセセリはわざとこの部屋の入口でぼくらを待ちかまえてたんだよ」

 コトブーがうなずく。

「ああ。わかった。自分が逃げる先が西だと思わせるためにか?」

「そう。最初にセセリが逃げた方角が北だったんじゃない? 西じゃなくてさ」

 ミクが首をかしげた。

 半信半疑って顔だ。

「ボクらが見せられたのは西に走るセセリじゃなかった? 北に走るセセリだった?」

 ぼくはミクに顔を向けた。

「うん。セセリのやつ落とし穴で直角に折れて西に逃げたんだよ。だからこの廊下の左右の壁がさ。実は東西じゃ?」

 コトブーが廊下の左右に立つ壁に目を向けた。

 信じられないって目を。

「えーと。じゃおれたちが最初から目にしてた壁によ。次の部屋に行く西の戸がある?」

 ぼくは大きく首を縦にふった。

「ぼくはそう思う。ぼくらは廊下の突き当たりの落とし穴ばかり気にしてた。廊下の横壁なんか見向きもしなかった。だろ? セセリが言ってた『迷いに迷え』は落とし穴の幻覚を見破ったあとの二重の引っかけじゃないのかな? だから『迷いに迷え』と『迷い』をふたつ重ねて表現したんじゃ? 南北に走る廊下を東西に走ってると錯覚すればさ。いつまでたっても西の戸が見つけられないもの」

 ミクがぼくのシャツを引く。

「つまりこうかい? この部屋に入ると目の前に一直線の廊下が見える。そこをセセリが遠ざかるように逃げる。ボクらは当然セセリを追う。セセリの逃げた突き当たりに戸が見えた。戸の手前が落とし穴だ。落とし穴を前にボクらは立ちすくむ。どうしても落とし穴に落ちずに戸をあけられない。そのせいでボクらは眼前に見えてる戸がとなりの部屋への戸だと思いこむ。西の戸だと。落とし穴に気を取られるあまり廊下の突き当たりの戸がニセモノだと疑わない?」

「ああミクそのとおり。セセリがわざわざぼくらに姿を見せたのもさ。落とし穴が最初から開いてたのもだね。ニセモノの戸を本物だと思わせる布石だったんだよ。廊下が南北に走ってる真の偽装を隠すためのね。踏みこんだときのめまいも落とし穴の強烈さで忘れちゃうはず」

「するとユーヤ。さっきあけた戸の外がガレキの山だったのはさ。あれってこの廊下が南北に走ってるせいかい? つまりあの戸が部屋の外の廊下へつながる北の戸だから?」

「たぶんね。それでぼくらが入った東の戸が見つからなくなった。落とし穴が北なら反対側は南でただの壁だよ。そもそも戸がないせいだと思う。南の壁の外は二階の空中だからね。『こっちは行き止まりだ。バーカ』って貼り紙も疑心暗鬼を起こさせるためじゃない? 貼り紙がなければ素直に北の戸だと考えたかも」

 なるほどとうなずいたミクが廊下の壁に手を伸ばした。

 落とし穴を前方に見た左の壁に指を当てる。

 北に顔を向けたら西は左だと。

「じゃこの壁のどこかに西への戸があるわけだよね? 見えないだけで?」

 手さぐりでミクがドアノブを探す。

 ミクが廊下のまん中まで進んだ。

 ミクが声をあげる。

「あった! 戸だ!」

 ミクが戸を引きあけた。

 とたん火を吐く竜の口がミクを威嚇した。

「うわあっ!」

 あわててミクが戸を閉じる。

 バタンと。

 ミクがぼくに顔を向けた。

「なんだよいまの? ドラゴンがいたぞ? あれも幻覚か?」

 ぼくはうなずく。

「もちろんだ。ここまですべてまぼろしだったんだよ。なのに竜だけ本物なわけがない」

 コトブーが胸を張って剣を突きあげた。

「ドラゴンなにするものぞぉ! われこそは伝説の勇者なりぃ! いざ行かんみなの者よぉ! われにつづけぇ!」

 コトブーが戸をあけた。

 中に突進する。

 ゲームのやりすぎだぞコトブー。

 部屋の中で竜の首が八つ踊っていた。

 剣をかざしたコトブーが悲鳴をあげる。

「インチキだあ! 一匹じゃないぞぉ! 八匹もいるぅ! こんなのどうやって退治しろってんだよぉ!」

 ぼくは竜をよく見た。

 八匹じゃない。

 胴体はひとつで尾はふたつ。

 頭が八つの竜。

 つまりヤマタノオロチってやつだ。

 オロチのうしろの壁に赤と青の玉が光を放っている。

 見たとたん胸が甘ずっぱくズキンと脈打った。

 赤い玉の上に女の子の髪らしい束も見える。

 あの赤く光る玉が人形の盗まれた記憶らしい。

 竜の吐く炎を避けてミクも参戦した。

「わーん! 恐くてオシッコちびりそう! ヘビはきらいなんだったボク!」

 コトブーが竜の首をひとつ切り落とした。

 ミクをかばいながら。

「ちびったらおれのズボンを貸してやる! 安心して洩らせミク!」

「コトブーのズボンなんかブカブカではけるかぁ!」

 ミクがつっこんだときコトブーの切った竜の首がフッと浮いた。

 元の傷口につながる。

 一時的に七股のオロチになったのがまた八股に復活した。

 オロチがミクを集中的に狙いはじめる。

 ミクがヘビぎらいだからかいちばん弱そうだからか。

 ぼくはミクを背中にかばった。

 ぼくも竜の首と応戦する。

 コトブーが炎を吐く竜の首に斬りつけた。

 次々と落として行く。

 竜の首は簡単に落ちた。

 四本までは。

 ぼくもひとつ落とした。

 ところが五つ目を落とそうとすると残った四つの首が前後左右に逃げた。

 剣が当たらない。

 その間に床に落ちた四つの首がまた復元した。

 ふりだしにもどるだ。

 コトブーがうんざり顔をぼくに向けた。

「ユーヤ。いくらやってもキリがねえぞ。なにか手はねえのか?」

「神話じゃヤマタノオロチは酒で酔いつぶして倒すんだ。けどここに酒なんかないよ?」

 ぼくの返事にコトブーが肩をすくめる。

 竜の吐く炎をよけながら。

「ちがうぞユーヤ。これはヤマタノオロチじゃねえ。神話のヤマタノオロチは尾っぽも八本だ。この竜はシッポが二本しかねえ。『アタマ八またシッポ二またのオロチ』が正しい」

 ぼくのうしろのミクが頭から湯気を立てた。

「こら! そんなささいなツッコミを入れてる場合か! ときと場所を考えろコトブー!」

 ミクに叱られたコトブーが首をちぢめた。

 へーいと。

 けどぼくはコトブーの指摘に引っかかるものを覚えた。

「でもなんで尾がふたつ? 一本でも八本でもいいのにどうして尾っぽがフタマタ?」

 ミクがぼくにも声を飛ばす。

「ユーヤもそんなくだらないこと気にするな! コトブーになるぞ!」

 コトブーになるのはいやだ。

 けどぼくはこれまでの幻覚を思い起こしてみる。

 横倒しになった部屋。

 巨大アリ。

 ガイコツ。

 廊下。

 不明はガイコツだけでどれも現実に存在するものだ。

 まず実物がある。

 それにまぼろしを貼りつけてぼくらの目をあざむいた。

 じゃこの竜はなにを偽装して竜になってる?

 しっぽが二本ってことはセセリ自身じゃないか?

 ぼくはハッとコトブーに声をかける。

「コトブー! 八本の首のうち実物は一本だけだ! あとの七本は切ってもむだだぞ!」

 コトブーが深くうなずく。

 ぼくとコトブーは戦いを再開した。

 いちばんうしろにひかえる動きの速い一本の首を斬ろうと。

 でもその一本は他の七本に邪魔されて手が届かない。

 敵は四本の首を攻撃。

 三本が防御。

 本体と思われる一本は逃げるのみに徹している。

 こちらはミクを後方にさげているので剣が二本しかない。

 どうにも手が足りない。

 そのときぼくの胸ポケットからウルルがピョコッと顔を出した。

「ねえユーヤ。おいら思うんだけどさ。首じゃなく尾を狙えばいいんじゃない? セセリは頭を分身させるのに精一杯だ。しっぽにまで力が回ってないんじゃかな?」

「なるほど。そうかも。だから尾が二本なのか」

 ウルルの指摘を受けたぼくはチラッとミクに目を流す。

 ぼくとコトブーが首を引き受ける。

 ミクはうしろからこっそりしっぽを斬ってと。

 ミクがガッテンだとこぶしを固めた。

 しゃがんだミクが竜の背後にしのび寄る。

 せーのでぼくら三人は剣をふりあげた。

 同時にふりおろす。

 ミクの斬りさげた剣がしっぽに当たった。

 すると八つの竜の首がいっせいに消えた。

 女の子の可愛い悲鳴が部屋に響く。

「きゃあっ! 痛い痛い! ひどいじゃないのあんたたち!」

 黄金のしっぽを腹に巻きこんだリスのセセリがぼくをにらみつけた。

 コトブーが声をセセリにぶつける。

「ひどいのはお前だろ。人形の髪と思い出を返せ」

 セセリが鼻で笑った。

 リスにしては表情が豊かで人間の少女の顔に見えてしようがない。

「やーよ。あれあたしの。あたしがもらったの」

 コトブーが剣の先をセセリに突きつけた。

「ウソつけ。人形は盗まれたって言ってたぞ」

「ちがうもん。あたしがほしいからもらったの。だからあたしのよ。あげないよーだ!」

 セセリが舌を突き出した。ぼくとコトブーは顔を見合わせる。

 ぼくはウルルに訊いてみた。

「ねえウルル。セセリって数千年も生きてるって話だよね? これじゃまるで子どもだよ。記憶喪失にでもかかったの?」

 ウルルが肩をすくめた。

「わかってないなあ。ちがうさ。おいらたちは死がないほど長生きだって話をしたろ。つまりその間ゆっくり成長するわけ。セセリは数千歳だ。けどきみたち人間に当てはめればまだ八歳ていどにしか育ってない」

 ぼくの口がポカンとあく。

「精神年齢八歳? じゃ交渉してもむだじゃない?」

 ぼくが剣をふりあげるとあわてたセセリがコトブーに声をかけた。

「ねえそこの太ったあんた。あたしと組まない? あたしと組めばおいしい思いのし放題よ。女の子にもモテモテ。どう高級中華料理こみで? フカヒレとツバメの巣と干しアワビもつけるわよ」

 コトブーが足をふらふら前に出す。

 ウルルがぼくのポケットから声を飛ばした。

「セセリの誘惑に乗っちゃだめだコトブー。確実に道を誤るぞ。いったんぜいたくに慣れたら止まらなくなる。いま以上のデブになってもいいのか!」

 いま以上のデブが効いた。

 コトブーの足がピタッと止まる。

 キイイとセセリが歯をきしませた。

「ウルルは黙ってて! だいたいウルル。あんたはどっちの味方よ? あたし? それとも人間?」

 全員の視線を受けたウルルがうろたえた。

 あわてて答えを探す。

 すこしのち誰の敵にもならない名案を見つけた。

「お。おいらは正義の味方だ」

 セセリをふくめたぼくら四人が交互に顔を見合わせる。

 全員の感想がひと言に結晶した。

「ウソくせー」

 こいつは全員の敵ね。

 そう言いたげにセセリが肩をすくめた。

 ぼくもちょっとウルルを見る目に警戒心を混ぜてみる。

 セセリが有利になればセセリに乗り替えるかもと。

 ミクがまっ先に気を取り直した。

 剣をふりあげてセセリに踏み出す。

「どうしても返すのはいやなわけね?」

 セセリが口を横に開いた。

 いーだと舌を出す。

「そうよ。あれはあたしの。ぜーったいに渡さないわ」

 ミクがふくみ笑いを洩らした。

「ふふふ。交渉決裂。あとは実力行使じゃん」

 ミクがセセリに切りかかった。

 サッとセセリが身をかわす。

 スルスルッとセセリが柱を駆けのぼった。

 セセリが天窓から外にのがれる。

 捨てゼリフを置きみやげに。

「やーん。人間がいじめるぅ。レンさまに言いつけてやるからぁ!」

 ふた股のシッポの影がサッと床の月あかりをよぎる。

 セセリが去った。

 そのとたんフッと意識が揺れた。

 気がつくとぼくは戸の前で横に寝ていた。

 二階にあがってすぐの部屋の前だ。

 ぼくの頭の先は廊下のガレキの山だった。

 いまにもぼくの頭に崩れて来そう。

 コトブーが廊下に寝たままぼくの顔を見た。

「ここ最初に入った図書室の前だぞ? おれたち夢を見てたのか?」

 ミクが口に人さし指を立てた。

 ミクも横になっている。

「しっ! 図書室の戸から音が聞こえる」

 たしかにカリカリと戸を引っかく音がした。

 ぼくは戸をあけた。

 ウルルが飛び出して来た。

 またぼくの胸ポケットにもぐりこむ。

「ふう。ありがとうユーヤ。おいらの力じゃこの戸はあかないんだ」

「それどういうことウルル?」

 ウルルが鼻で笑った。

「ふふふ。この戸の下を調べてごらん」

 ぼくはしゃがんで戸にペンライトを当てた。

 ネコ用の小さな戸口が消えている。

「ど? どういうことウルル? セセリを追ったときたしかに確認したのに?」

 ぼくの問いにウルルがふむふむうなずいた。

 説明してあげようって顔だ。

「その戸はセセリ用の戸じゃないんだ。きみたちが最初に入った戸はセセリ用の戸だった。あわてたセセリが自分用の戸を消し忘れたんだよ。だからきみたちはセセリを追ってセセリの心の一部に入りこめた。きみたちの肉体をこの廊下にとどめたままね」

「あっ! それでいまぼくらは戸の前に横たわってたのか!」

「そう。人形もセセリをつかまえようとずっと努力してたんだ。でもセセリは人形が追って来ると自分用の戸を消した。するとこの部屋はセセリもおいらもいないただの図書室になる。きみたちは人形より速かった。だからセセリは戸を消すひまがなかったんだ」

「なるほど。そうだったのか」

 コトブーもうなずいた。

 図書室の中を指さす。

「するってえとだな。おれたちは人形の髪の毛と玉を取りに進む必要がある?」

 ウルルがパチパチと手とたたいた。

「そのとおり。よくできました。えらいぞコトブー。さあユーヤ。取りに行け」

 ぼくは顔をしかめた。

 なんて勝手なネズミだと。

 ぼくは図書室で床に散乱した本にペンライトを当てた。

 古い漢字ばかりで読みにくい。

 魔術に関した本が大半だった。

 死者を甦らせる書。

 悪魔と契約する方法。

 伝説の生き物の捕獲の仕方。

 この屋敷はよほど憑かれた人が住んでいたらしい。

 魔法使い志願者だったようだ。

 それで人形が歌えるのでは?

 ぼくらは図書室の倒れた本棚と本の山をよけて次のサンルームに向かった。

 生いしげる時の迷走樹の葉に月明かりがサラサラと流れている。

 時の迷走樹もセセリの幻覚だとぼくは思った。

 でも現実に存在していた。

 ぼくはふと疑問が浮かんだ。

「ウルル。この実を食べると一年前か一年後に意識が飛ぶんだよね? もしぼくがいま実を食べて一年前にもどったとするでしょ。そのぼくがこの屋敷に来ない選択をしたらどんな事態が起きるわけ?」

 ウルルが眉を寄せた。

 むずかしい質問をしないでくれって感じ。

「おいらの聞いてるかぎりではだよ。かかわった者たちの記憶も変化するらしい。もしユーヤがこの屋敷に来ない選択をすればおいらたちの眼前からユーヤの姿が消える。おいらたちの記憶からユーヤがいなくなる。ただなにが起きるかわからない。だからこの実は軽々しく使わないほうがいいよ。もっともね。使ったからって変化なしとも聞くけど」

「変化なし?」

「うん。一年前に意識がもどってもさ。ほとんど同じ行動を一年分つみ重ねるにすぎない。そういう話だね。まったく同じじゃないものの人間って結局よく似た行動を取るそうだよ。ユーヤが一年前にもどっても今夜またこの屋敷に来る率がほぼ百パーセントだってさ。失敗をやり直そうとしてまた同じ失敗をくり返す。それが人間だっておいらは聞いてる」

「ふうん。そんなものなの」

「そう。そんなものさ。だってね。この木は元々インカって国にあったんだぜ。インカって知ってるかいユーヤ?」

 知らないと首をふるぼくを見てコトブーが手をあげた。

「おれ知ってる。たしか南米にあった国だ。スペイン人にほろぼされたんだぜ。皇帝が身代金を首の高さまでつみあげたのに死刑にされてよ」

 変な知識は豊富なやつだな。

 そうぼくは感心した。

 そしてハッと気づく。

「この実があっても皇帝の死刑を止められなかった。そう指摘したいのかい? ウルル?」

「当たり。過去を変えるってのはさ。頭で考えるよりずっとむずかしいんじゃないかな?」

 ぼくらは次の部屋の戸をおそるおそるあけた。

 ガイコツ剣士の部屋だ。

 けど動くガイコツはいない。

 いたのはバラバラになった人体標本だ。

 床に骨が散らばっている。

 壁には棚が作られていた。

 棚のすぐ下の床に割れたガラスびん。

 得体の知れない生き物たちのひからびた残骸。

 元はホルマリン漬けだったようだ。

 ワニの死体も見える。

 棚の下部にある引き出しをコトブーが引いた。

 コトブーがあわてて飛びずさる。

「うわあっ! な! なんだこれっ!」

 ぼくがのぞくと干物が崩れた腹をあけていた。

 頭に白い皿が乗っている。

 カメの甲羅を背負ったキバをむく生き物だ。

 ミクがぼくの背中に隠れた。

 おそるおそるコメントをつける。

「カ? カッパのミイラ?」

 たぶんそうだと思いつつ次の引き出しもあけてみる。

 キャーッとミクが泣き声をあげた。

 乾き切ったネコの首がふたつ見えた。

 ひとつの胴体にくっついて風化している。

 しっぽは四本だ。

 ネコマタってやつじゃないか?

 この引き出しひとつひとつに異形の生き物の剥製がボロボロに劣化して収まっているらしい。

 ぼくは部屋を見まわした。

 このガイコツの部屋はおかしな生き物たちの遺骸でいっぱいだ。

 どんな人間がこの屋敷に住んでいたんだろう?

 幽霊屋敷になるべくしてなった。

 そういうことかな?

 次の部屋は廊下に偽装されていた部屋だ。

 戸をあけた。

 普通の部屋にもどっている。

 調度品はなにもない。

 床や壁に円模様がカラフルに色分けされて描かれているだけだ。

 コトブーが声をあげた。

「これゲームで見たことがあるぞ。魔法陣だ」

 ぼくは眉をしかめた。

 魔法陣は悪魔を呼び出すために描かれる。

 つまりこの部屋は悪魔を呼ぶための部屋らしい。

 ここって幽霊屋敷というよりアブナイ家なのでは?

 ぼくらは次の戸もおそるおそるあけた。

 でも引き出しの破損したタンスと残骸と化したベッドがあるだけだった。

 ここは寝室みたいだ。

 タンスの上に赤い玉と青い玉が置かれている。

 赤い玉に乗せられた黒髪は窓から射しこむ月あかりでつやつやと輝いていた。

 ミクがタンスの赤い玉と青い玉を見あげた。

「この玉きれいだねえ。ボクもこんなのほしいな。ウルルはこういうの作れないの?」

 ウルルがうなずいた。

 痛いところを突かれたって顔で。

「おいらじゃだめだね。おいらはおしゃべりくらいしか力がないのさ」

 ウルルって役立たず?

 そうミクの口がぼくとコトブーに向けて動いた。

 みたいだねとぼくとコトブーも口パクで返す。

 ウルルがムッとぼくを見あげた。

 ぼくはあわてて話題をそらせる。

「じゃさウルル。この玉って人形にもどせるわけ? もどらなきゃ取り返しても意味がないよ?」

 ウルルがうなずいた。

「簡単さ。その玉を本来の持ち主に近づければいい。勝手に吸いこまれる」

 なるほどとぼくはタンスの上に手を伸ばした。

 ふたつの玉と髪の毛を取る。

 黒髪はぼくの父さんが塗るうるしみたいに黒い。

 このきれいな髪をなくしちゃあの人形は悲しいだろう。

 ぼくは手に取りたそうにしているミクに玉と黒髪をあずけた。

 階段をおりると人形がぼくらを待ちかまえていた。

 ミクが赤の玉と髪の毛を人形に見せる。

「あーりがーと」

 ミクが人形の頭に黒髪をかぶせた。

 赤い玉を近づける。

 スッと玉が人形に吸われた。

 パチッと人形の目が全開する。

 それまで眠りの中にいるような半目だったのに。

「ああ! 思い出した! わたし平吉へいきちさんと約束したんだった。戦争が終わればって。ねえ戦争は終わったんでしょ? こんな太った男の子がいるんだもの終わったのよね?」

 人形がぼくに向く。

 そのたとえでぼくにふるなよ。

 コトブーが平和ボケしたデブだ。

 ぼくまでがそう同意したみたいじゃないか。

 ぼくはふと疑問を持った。

「戦争はもう八十年以上もやってないよ。きみ第二次世界大戦中に記憶を盗まれたの?」

 人形が首をかしげた。

「わたし空襲を受けて人形になったの。『皇国の存亡は戦艦大和にあり』ってラジオで言ってたわ。『戦艦大和の主砲が敵艦隊を全滅せしめたり。大日本帝国の勝利は目前である。全国民よ期待せよ』って。けどそのあとは身体がだるくって頭もぼんやり」

 ぼくとミクとコトブーはひたいを寄せ合った。

 ひそひそ話す。

『いつの時代の話?』とぼく。

『戦艦大和が沈む前だろうな。でも大和の主砲は一度も敵に当たらなかったぞ?』とコトブー。

『記憶が混乱してるんじゃないの?』とミク。

 そういやとミクが気づいた。

 残った青い玉をポケットから取り出す。

「これ誰の記憶か知ってる? 人形さん?」

 人形があっと声を立てた。

瑠璃左衛門るりざえもんさんのだわきっと」

 ぼくは訊き返す。

 そんな変な名前の人間なんているのと。

「るりざえもん? 誰それ?」

「この屋敷の持ち主よ。管理人として庭に小屋を建てて住んでるわ」

「あっ。あのメガネのお兄さん?」

「はい。その人」

「そういやあの人もだるそうなしゃべり方だったっけ」

 ぼくは意外だった。

 この屋敷の持ち主ってオカルト趣味の超偏屈ジーサンだろう。

 そう想像してたから。

 ぼくら三人は議論をはじめた。

 人形に質問をつづけるべきか屋敷の持ち主の記憶をもどすべきか?

 人形の話す内容はぼくらの知識と食いちがう。

 だから先に青い玉を持ち主に返そう。

 そうぼくらの結論が出る。

 人形に聞くより屋敷の持ち主に聞くほうがまともな説明をしてくれそうだと。

 しゃべる人形の話がどこまで正しいかぼくらでは判別がつかない。

 人形を屋敷に残してぼくらは庭に出た。

 プレハブ小屋の戸をたたく。

 すでに時刻は午後十一時だった。

 プレハブ小屋の電灯は消えている。

 寝ているみたいだ。

 しばらくしてパジャマ姿のお兄さんが顔を出した。

 けだるげにずれたメガネを直しながら。

「きみーたーち。入っちゃだめーって言っといたのにー」

「そんなことより瑠璃左衛門さんこれ」

 ぼくは青い玉をお兄さんに近づける。

 スッと玉が吸われた。

 お兄さんがにわかにシャキッとなる。

 お兄さんが首をブルブルとふった。

「私を瑠璃左衛門と呼ぶなんてきみたちは何者かね? 瑠璃左衛門は五百年前の私の名前だぞ?」

「五百年前? お兄さん五百年も生きてるの?」

 ぼくは瑠璃左衛門さんに質問をしながら胸ポケットのウルルを見た。

 ウルルがピョコッと顔を出した。

 つづいて首を横にふる。

「ちがうちがう。おいらたちの仲間じゃない。この人は人間。ごく普通の人」

 ぼくの胸のウルルから瑠璃左衛門さんが身を引いた。

「ネ! ネズミがしゃべった!」

 コトブーが目を見張る。

「五百年も生きてると口にした人がしゃべるネズミに驚いてるぞ? そんなのありかい?」

 たしかにぼくらのほうがびっくりだ。

 ぼくらと瑠璃左衛門さんがにらみ合う。

 お互いに聞きたい件がたっぷり。

 そんな顔で。

 人形をまじえて話し合おう。

 そうぼくらは屋敷に引き返す。

 人形は止まっていた。

 声をかけても反応がない。

 瑠璃左衛門さんが人形を抱きあげた。

「力が切れたんだろう。生身じゃないからエネルギー補給がごく少量しかできない。動けるまでためるのに時間がかかるんだ」

 ぼくは首をかしげて人形を見た。

「この人形はなにをエネルギーに動いてるんです?」

「たしかじゃないが空中を飛んでる電波みたいだぞ? 気力かもしれん。まあここじゃお茶も出せない。私の小屋にもどろう」

 人形を手にプレハブ小屋にもどる。

 ぼくらはそれぞれスマホで家に連絡を入れた。

 コトブーの家でゲームをやっていて遅くなると。

 ミクがポケットからスマホを出すときに小銭入れを床に落とした。

 ミクは男まさりのくせに可愛いストラップを小銭入れにつけていた。

 小さなタヌキのぬいぐるみつきストラップだ。

 お茶をいれた瑠璃左衛門さんがぼくらに話しはじめる。

「五百年前の話だ。私は剣の修行中だった。あるとき悪魔と名乗る絶世の美女がたずねて来てね。ひとつ願いをかなえてあげると笑う。どんな願いでも言ってごらんとね。私も笑って女に告げた。永遠に若いままでいたいと。あまりに剣の上達が遅かったせいだ。剣の道をきわめる前に年老いてしまう。私はそう焦ってたんだ。女はふふふと笑うと帰って行った。私はすぐにその女を忘れた。美女ではあったよ。でもほんのわずかな言葉をかわしたにすぎない。私は剣の修業に打ちこんでた。まだ十代だった。女性に気を取られるには若すぎたんだ。二十歳をすぎて私は妻をむかえた。子どももできた。男の子だったね。私の剣はそこそこ上達した。大名の家来になれてさ。妻と息子をつれて城下町に引っ越した。織田信長の生まれるすこし前の時代だよ」

 瑠璃左衛門さんが問うようにぼくを見た。

「はあ」

 ぼくはなんと返事すればいいかわからない。

 織田信長の生まれる前に生きた人と話す経験は初めてだったから。

 瑠璃左衛門さんが気にせず話をつづける。 

「それから二十年がすぎた。すると私を見る周囲の目が変化しはじめた。当時は人生が五十年と思われてた時代でね。五十歳を越えればいつ死んでもおかしくなかった。そのころの四十歳はいまの八十歳くらいだろう。私は四十歳になろうってのに十代にしか見えなかった。きみもお兄さんと呼んでくれたよね?」

「は。はい」

 たしかに初めて会ったときぼくは瑠璃左衛門さんを二十歳未満だと思った。

 いまも大学生にしか見えない。

 肌なんかつやつやだ。

「結婚して三十年がたったときだ。妻から化け物とののしられた。私のひとり息子は妖怪を見る目でおびえはじめた。私に近寄らなくなったよ。周囲の人々も気味悪いものにふれるようにビクビクした。しかたなく私は家を捨てた。あとで聞くと妻はそののちすぐ老衰で死んだそうだ。息子は合戦で死んだ。私が仕えた大名ももっと強い家に滅ぼされた。それ以来私は日本中や世界中を歩いた。自分が永遠に若いままだと悟られないようにね」

 ミクが手をあげた。

「たずねて来た美女ってさ。本物の悪魔だったわけ瑠璃左衛門さん?」

 瑠璃左衛門さんがうなずく。

「たぶんね。世界を回ってるときこんな噂を耳にした。神さまと悪魔が賭けをしたそうだ。毎年人間をひとり選んで悪魔が願いをひとつかなえる。願いをかなえられた人間が破滅しなければ神さまの勝ち。破滅すれば悪魔の勝ち。神さまが百五十連勝すれば悪魔は人間にちょっかいを出さない。逆に悪魔が百五十連勝すれば人間をすべて消し去る。私はもう一度その女に会おうと探してる。でも会えたところで女はまた笑うだけだろう。軽率な願いをしたお前が悪いとね」

「でもそれ」

 ミクが抗議の声をあげようとした。

 しかしあとがつづかない。

 瑠璃左衛門さんが手でミクを制した。

「いいんだよ。目の前に現われた美女が悪魔と名乗って信じる者などいるはずがない。どんな願いもかなう? そんなバカなだ。そうだろ? 私は近所の美女が私の気を引こうとしてるだけだと思った。まさか本当にバカな事態になろうと予想もしなかったからね。口はわざわいの元。昔から言うがまさにそれだ。私は死ねないんだよ永遠に」

 ぼくは人形に目を移した。

 ミクから会話のバトンを奪う。

「じゃこの人形は?」

「第二次世界大戦中のことだ。空襲があってね。この町はほとんど焼けた。夏至の夜にね。私はある目的のため死の寸前の人間を探してた。病院なら死の直前の人間がいるだろう。そんなふうに考えた」

「病院って死にかけ病院?」

「そう。当時は普通の病院になってた。病院に足を運んだところへ突然の空襲が来た。病院も爆撃された。大混乱が起きてね。混乱が静まったときだ。病院の敷地のはずれで死の直前の女の子を見つけた。どう手を尽くしても助からない大やけどだった。身体の半分が黒焦げで炭になってた。だがその小学生はいまにも死のうってのに一体の人形を胸に抱いて離そうとしない。それで私はその不出来な人形に女の子の魂を封じこめた。私はひとりぼっちでさびしかった。死にゆく小学生の魂ならもらってもかまわないだろう。そう思ったんだ。私は故郷を捨てたあと自分が死ぬ方法かこの身体を元にもどす方法を探しつづけた。第二次世界大戦の直前チベットで教えてもらった術がある。生きてる人の魂を物に封じる『封魂の術』だ。術を成功させるには春分や夏至といった季節の転換点が望ましいと聞いた。この屋敷はその手の妖しげな術に使う品でいっぱいなんだ」

 ああとぼくは納得した。

 悪魔を呼び出す魔法陣。

 魔術に関する書物。

 それらは瑠璃左衛門さんが死ぬためにあるのかと。

 オカルト趣味のアブナイじいさんの楽しみじゃないんだ。

 もっとも瑠璃左衛門さんの言葉どおりだと目の前にいる人が『五百年間死ねないアブナイじいさん』にまちがいないが。

 ウソをついているとすればもっとアブナイかも。

 ぼくの思いにかかわりなく瑠璃左衛門さんが話をつづけた。

「戦争が終わりに近づいたころだ。私は突然だるさに襲われた。記憶も思うように引き出せない。ああようやく死ぬときが来た。そう私は安心したよ。でもそのままずるずるときょうまでだ。屋敷の掃除をするのも面倒になってね。庭にプレハブ小屋を建てて管理人を名乗ったんだ。つけヒゲやシワで年を取ったように見せかけてね。適当な歳月が過ぎるとまた若い姿で管理人としてやって来る。管理人の顔を鮮明に憶える人はいなくて怪しまれなかったな」

 ぼくは人形に目をすえる。

 人形はピクリとも動かない。

「なるほど。でもこの人形。死んだんですか?」

「いやエネルギーが尽きただけだろう。あすになればまた動き出すんじゃないかな? 魂だけで動かすにはその人形の身体が大きすぎるらしい」

 コトブーが手をあげた。

「人形になる前の女の子ってさ。この近所の子だったわけ? 可愛かった?」

「人形になってから聞いた名はね。たしか『横川智恵子よこかわちえこ』だ。小学六年生だそうだ。きみたちの小学校の大先輩だよ。可愛かったかどうかはわからない。私が見つけたときは顔も焦げてまっ黒だった。家は海沿いにあったそうだよ。でもその夜の空襲で焼かれて両親も兄弟もみんな死んだ。米軍は海の近辺を集中的に爆撃した。おかげで海から遠いこの屋敷は焼け残ったがね。ひどい一夜だったよ。私も不死身じゃなかったら死んでただろうね。さあ次はきみたちの番だ。名前から教えてくれるかね?」

 瑠璃左衛門さんにうながされてぼくらは自己紹介をすませた。

 今夜の冒険の一部始終を語る。

 おばさんから夏至の夜に歌う人形の話を聞いてしのびこんだいきさつを。

 ぼくが話し終えると興味深そうに瑠璃左衛門さんがうなずいた。

 ぼくの胸ポケットに目を向ける。

「ふむふむ。それでネズミがしゃべるわけか。ねえウルルくん。私をこんなにした悪魔と名乗る女だがね。きみの知り合いにいないかい?」

 ウルルがブルッと全身をふるわせた。

「その女はだめ。そいつは本物の悪魔。悪魔を名乗るまがいものならおいらもいっぱい知ってる。けどその女だけはだめ。おいらたちの仲間で本物の悪魔と知り合いなんてやつはいない。その女は神さまとも顔見知りなとんでもない女。五十万年以上生きてるって聞いてる。おいらたちが全員でかかってもその女には勝てない。その女を見つけたところでおいらたちや人間に手出しのできる相手じゃないよ。悪いことは言わない。その女にかかわるのだけはやめたほうがいい」

 瑠璃左衛門さんがガクッと肩を落とした。

 推測はしていたけどやはり事実だったか。

 そんな感じ。

 コトブーがふと思い当たるって顔を見せた。

「ちょっと待てよ? オニヘーのやつさ。いつもチエちゃんがどうとかわめいてなかったか? この人形の元の名前が横川智恵子。オニヘーってさ九十歳以上だよな? 第二次世界大戦中は小学生じゃねえ?」

 ぼくはさっきの人形の言葉を思い返す。

「たしかこの人形は言ったよね? 平吉さんと約束したって。オニヘーの本名は平吉?」

 ミクが手をポンと打った。

「思い出した! そうだよ。浜崎平吉はまさきへいきちってんだ。ボク保健所に勤めるおばさんから聞いたよ。オニヘーは肝臓が弱ってるのにお酒をやめようとしないんだって。あれじゃ長くないのに男ってやつはまったく。だってさ」

 ぼくら三人は顔を見合わせた。

 ぼくはおそるおそる確認を舌の上で転がす。

「じゃオニヘーのチエちゃんがこの人形? この人形の会いたがってる平吉さんが?」

 ミクがぼくの顔をうかがう。

「オニヘー?」

 コトブーがうんざりだと両腕を広げた。

「おれらオニヘーのために死にそうな苦労をしたのかよ! あのくそじじい! ぶんなぐってやる!」

 駆け出そうとしたコトブーをぼくが止める。

「いや。まだそうと決まったわけじゃ」

「止めるなユーヤ! そうに決まってる! きっとそうだ!」

 ぼくはコトブーの腕をつかみながら人形に目を移した。

 人形はピクリとも動かない。

 声も出さない。

 きみの平吉さんはオニヘーなのか?

 答えてくれないかいチエちゃん?

 チエちゃん人形は動かないままだった。

 時刻はすでに夜中の十二時前だ。

 ぼくらはその夜は解散した。

 あしたみんなでオニヘーをたずねようと約束して。

 ぼくが家に帰ると父さんと母さんが玄関でむかえてくれた。

 シンジの家で遅くなってもこんな真似はしないのに。

 父さんと母さんがぼくの顔をしげしげとながめた。

 そのあとホッとした顔でふたりはぼくを解放した。

 ぼくは困惑しつつ二階の自室に入った。

 部屋の戸を閉めるなり胸ポケットのウルルが口を開いた。

「あのふたりユーヤの心配をしてたぞ。コトブーにいじめられてるんじゃないか。そう思ったんだろうな」

「そ? そうなの?」

「たしかじゃないよ。おいらは波動から推測してるだけ。でもそうなんじゃないかな? 普段コトブーと仲がよくないんだろ? なのにコトブーの家でゲームをして夜更かし? そんなの不自然だ。だから親として心配で当然。コトブーにいじめられてないって説明しとけよユーヤ。親に心配かけちゃいけない」

 ほぉとぼくは口を丸くした。

 さすがに長生きなだけのことはある。

 ところでとぼくは話題を変えた。

「そういやさ。どうしてセセリはあの屋敷を根城にしたわけ? 日本いやがらせ連盟と瑠璃左衛門さんは無関係なんでしょ? ぼくは瑠璃左衛門さんも関係者だと思ってたけど」

「ああそれね。おいらは田舎育ちで野宿も平気なんだ。でもセセリはずっと人間からチヤホヤされたせいで野宿はいやなわけ。絹や羽毛にくるまってヌクヌクと眠りたいのさ。おいらが左遷された当初セセリはあの病院の横の森で入院患者の思いを食べてた。ところが戦争中だったためにあの病院はいまとちがって普通の病院になってたの。死にかけの人間だけなんてより好みができなかったわけ。セセリはそういう一般のケガ人の思いなんかいらないのさ。そこへおいらが毎日しゃべりかけただろ。うんざりがつもったところへあの人形の波動をつかまえたみたい。セセリは大量の人間の善意や憎悪を食べた過去があるからさ。ほとんどの思いは食べ尽くしてるの。人間で言うグルメなのさ。でも生きてる人形の悲しみなんて珍しいものは食べたことがなかったんだろうね。それで人形の思いに惹かれて屋敷に入りこんだみたい。雨をよけなくてすむようになるとさ。次の快適さを求めておいらをかご詰めにしたんだ。そこからセセリの優雅な生活がはじまったってところだね」

 なるほどとぼくは納得した。

「じゃもうひとつ質問。ウルルってさ。ぼくについて来たけど寝るよね?」

 ひと晩中おしゃべりをされちゃかなわない。

「心配するな。おいらは寝なくても平気だ」

「ぼくは平気じゃなーい!」

 ぼくが無理やりウルルを寝かせたのは明け方近くだった。

 戦争中から閉じこめられていたせいでウルルのおしゃべりが止まらない。

 ぼくはセセリの気持ちが理解できた。

 ぼくも鳥かごを買わなきゃ。

 ウルルは正義の味方じゃない。

 話し相手をしてくれる者の味方だ。


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