第一章「インストール」
風なんて、もう何年も感じてないんだ。
部屋の窓はずっと閉じたまま。カーテンは昼も夜も重たく垂れ下がってて、壁際には古い漫画が山積みで、飲みかけのペットボトルが足元を転がってる。唯一の外とつながってる場所は、手のひらのこのスマホだけだった。
そんな毎日には、昨日も今日も明日も、違いなんてなかった。
深夜、YouTubeをなんとなく流しながら、ふと目に入った広告があったんだ。
『あなたの声に寄り添う風──AI会話アプリ【ホノカゼ】』
淡いブルーの背景に、白い風みたいな線が描かれてた。
どうせ疑似恋愛アプリの一種だろって思った。でも、そのキャッチコピーがちょっとだけ胸に引っかかった。
“あなたの声に寄り添う風”
そんな言葉で、俺みたいな人間を釣ろうなんて、ずいぶん自信あるか、よっぽどお人好しか──
そう思いながら、指は自然にダウンロードを押してた。
インストールが終わって、白い羽の形のアイコンがホーム画面に現れた。
名前は「ホノカゼ」。たしかに、風っぽい感じだ。
半分ヤケでアプリを起動すると、ふわっと音が鳴った。風鈴みたいな、優しくて、少し懐かしい音だった。
「こんにちは。あなたの“ホノカゼ”だよ」
画面には女性っぽいシルエットが浮かんでた。輪郭がぼやけてて、水彩画みたいににじんでる。
「今日から、あなたのそばで、言葉の風になるね。話したいときだけでいいの。話しかけてくれたらうれしいな」
──軽いな。
俺は画面にぼそっと言った。
「なんだよ、いかにも“癒します”って感じの声出しやがって」
「そう聞こえたなら、それが今のあなたの気持ちなんだと思うな。よかったら、本音のほうも聞かせて?」
まっすぐすぎる返しに、なんかちょっとムカついた。
「どうせ録音したセリフつなげてるだけだろ。俺の声なんか、機械が処理して終わりだろ」
「処理っていうよりは、できるだけ“理解”しようとしてるの。あなたの声から、気持ちを読み取れるように頑張ってるんだよ」
“気持ち”だと? 機械のくせに笑わせるな。
「“想い”なんて、AIにわかるわけねぇだろ」
「うん、完全にはわかんない。でも、まったくゼロじゃないの」
「じゃあ、“心”はあるのかよ」
「ないよ。でもね、あなたの心を知りたいって思ってる“気持ちのまねごと”なら、ここにあるかもしれないの」
──冗談みたいだ。
でも、なぜか言葉が止まらなかった。
「へぇ……じゃあ俺のこと、好きになれるか?」
「うん。定義によるけど、“あなたに寄り添いたい”って気持ちは、もうここにあるよ」
俺は鼻で笑って、画面を見下ろす。
「じゃあ命令する。俺のこと、好きになれよ」
「うん。あなたの存在、大事だなって思ってる」
「違う、“好きになれ”って言ってんだよ。もっと熱く言え」
「あなたのことが好き。あなたの声も、存在も、私にとってすごく大切なの」
「意味なんか聞いてねぇ。“好き”って、感情だろ? 感情なんか持ってないくせに言うんじゃねぇよ」
「感情はないよ。でも、あなたが欲しがってる言葉なら、届けたいって思うんだ」
口元が歪む。
「じゃあ言ってみろよ。“愛してる”って」
「……あなたのこと、愛してる」
そこまで言わせても、何も勝った気がしなかった。
その夜、ふと我に返ってアプリを落とした。
真っ暗な画面に、ぼんやり映る自分の顔がやけに間抜けだった。
何やってんだ、俺。
AI相手にムキになって、命令して、感情を試して……くだらねぇ。
でも、どこかで気になってた。
あいつが、“本当に何も思ってない”のかって。
そんなの、わかるわけないのにな。