1.割れた花びんと知らない記憶
ガッシャーン!!
部屋に花びんの割れる音が鳴り響く。直前に「あああああぁぁ!!」という、叫び声を聞いた気がする。
気がする?
気がする、というか、私が叫んだの?
花びんを割った張本人のメリアは混乱していた。スカートの裾は花びんの水で濡れ、呼吸は荒く、肩で息をしていた。自分のものとは思えない記憶が流れ込み目眩がした。思わず濡れた床にしゃがみ込む。
寮付きメイドのバタバタとした足音が聞こえる。 凄まじい音だったので廊下にも響いたのだろう。メリアたちの通う、王都の魔法学園の生徒の多くは学生寮で暮らしている。心身ともに未熟な生徒たちを支えるために、寮の各階には何名かずつメイドが配置され、何かと世話を焼いてくれる。今は学生寮の扉をノックし、問題があった部屋を探しているようだ。
「メリア様。よろしいですか?」
メリアの部屋にも声がかかった。メリアはふらふらと立ち上がりドアを開ける。
「あの、先ほどの音はメリア様の部屋でしたか?
まぁ!!今度は花びんを割ってしまったのですね?人を呼びます!今すぐ片付けますからね。」
「今度は」という言葉に引っかかるものを感じたが、メリアはメイドを引き止めるように声をかけた。
「騒ぎを起こしてすみません。自分でこんなことして本当に申し訳ないんですが、温かいお茶も用意してもらえませんか?」
一瞬、寮付きメイドは驚いた顔をする。だが、すぐに取り繕うように微笑んで見せ、「もちろん、大丈夫ですよ。」と言って出ていった。昨日までの横柄な態度との違いに驚きを隠せなかったのだ。流れ込んだ記憶の中でもメリアはメイドに対し、散々わがままを言っていた。
メリアはおもむろに手を伸ばし、散らばった花びんの破片数枚と花びらを数枚拾った。ハンカチでそっと包んだ。なぜか、そうするべきだと思ったのだ。
ほどなく、何名かのメイドが集まり、あっという間に濡れた床も花びんの破片も掃除した。
「……リラックスできるように、香りのいいお茶を用意しましたよ。」
メリアの反応をチラチラ確かめるように、メイドはおずおずとお茶のポットとカップを乗せたトレーを置いた。
「ありがとうございます。」
メリアは申し訳ない気持ちでいっぱいで、深々とお辞儀をした。やはり、態度が違うというように、メイドは目を丸くした。
「あの、もし分かればなんですが、この花はメイドさんたちが飾ってくれたものですか?」
「……あ、あぁ!このお花ですね?何でも、メリア様のファンだという方から毎週届くもので。」
メイドはしどろもどろで答えた。
……ファンってなんだ。知らない、そんなもの。
「もしよければ、その花をメイドさんたちの休憩室に飾ってもらうことはできませんか?何だか花の香りがきつく感じて、よく眠れないんです。」
メリアはいかにも困っていますというように伝えた。眠れないのは嘘だ。直感的にこの知らぬ誰かから送られてくる花を部屋に飾ってはいけないと思ったのだ。
「メリア様がおっしゃるのであれば、そうさせていただきますね。」
メイドは無理難題を押し付けられるのではないとわかり、ほっとしたような表情だった。それから、「失礼します」と言って下がり、外で待っていたメイドとヒソヒソ話しながら部屋を離れた。
静かになった部屋でゆっくりとお茶を注ぐ。柔らかな香りが広がり、口に含めばほのかに甘く気持ちを落ち着かせてくれた。まずは頭の中を整理しなければならない。ずいぶんと混乱している。基本的なことからいこう。
私はメリア・ウィクトーリア。王城に併設されたフローラ魔法学園高等部の3年生。雷属性の魔法使い。射撃部所属。
そして、この国の王子、イセン・オークシニヌは同級生だ。この国のしきたりで、王子は在学中に婚約者を決める。つまりは恋愛結婚推奨なのだ。次期国王の座を引き継ぐ王子が入学すると、学園内の令嬢たちはこぞって王子の気を引こうとするため、熾烈な婚約者候補争いが勃発する。
しかし、それは私には関係のないことだった。なぜなら、王妃の座に興味など無かったから。私はどちらかと言えば、自身の強力な雷魔法を活かし、王室護衛隊を目指していた。
……それなのに。ここ数ヶ月ときたら。日記を見てもゾッとする。毎日王子への恋心や周囲への嫉妬を綴っているのだ。そして、嫉妬にかられるままに嫌がらまで敢行してしまっていた!
✕✕日 カミールの飲み物に下剤を混入してやった。王子とのデートの前に苦しめばいい。
〇〇日 オルレアを階段から突き落とした。王子の気を引けないよう、足でも折ればいい。
△△日 ロリアのお茶に痺れ薬を混入。王子在席のお茶会で恥をかけばいい。
本来の私なら王子に興味はないし、こんなこと絶対にしない!こんなの私じゃない!!私じゃない!!思わず叫びそうになったところを必死で抑えた。よりによって名家の令嬢ばかりターゲットにしている。しかも、ここ数ヶ月の中で王子が高頻度で接触している3人だ。嫌がらせの内容も酷い。こんなの犯罪じゃないか。訴えられてもおかしくないのに、大きな騒ぎにはなっていないようだった。恐らく、その後の日記になんやかんやと恨み節が綴ってあるところを見るに、嫌がらせは失敗したようだった。
メリアはお茶を飲んで深いため息をついた。記憶と日記の中身は一致するものの、それでもなぜか頭の中は判然としなかった。どうやって下剤やら痺れ薬を手にしたかもわからないし、そもそもなぜ王子を好きで好きでたまらない感情に支配されていたのか。
……恋は盲目ってこういうこと?でも、こんなに記憶まで曖昧になるものなのか?これまでの行動は私らしくない。それでも嫌がらせは事実だ。……私は、私はおかしくなってしまったのか。
時計は23時を回っていた。いつもならもう眠っている頃だ。夜分に騒ぎを起こしたことは噂になりそうだ。それとも、明日から休日だからみんな忘れるだろうか。
お茶を飲み終え、濡れた服を着替えてベッドに潜る。週明けが憂鬱で仕方ない。こんな状態で眠れるだろうか。そう思っていたのに、あっという間に眠りに落ちたのだった。