竜と魔法(2)
『ひぃやぁぁぁあああっ!!』
佐藤千希は、おそらく人生で一番の絶叫を上げていた。
魔法以外の脅威は無いだろうと高を括っていたのは間違いだったと猛省する。
かと言って、今更過去の自分に戻れやしないし、約束も無かったことにはできない。
あの約束の前に戻ったとしても、彼女には、あれほど可愛らしい子どものお願いを断われる自信は微塵も無かった。
しかしとて、いくら肉体的な危険は無くても、ある意味一番の精神的苦痛に遭わされるとは予想もしていなかったのだ。
――時は少し遡り。
お昼を終えたシュリュセルに手を引かれ、どこに行くかと思えば、異様な程に広い中庭に出た。
人払いを済ませてあるようで、いつもはどこにいてもちらほら見える城の働き手達は一人もいない。
低い木々や芝生、小さな池まである綺麗なそこは、所々に花が植えられており、巨大な公園のようにも見える。日向ぼっこに丁度よさそうだなと千希は思っていたのだが。
丁度庭の真ん中辺りに立つと、シュリュセルは徐に千希の右手を両手で握りしめて、目を閉じた。
ぎゅうっと握りしめられた手に、真剣そうなシュリュセルの表情。
一体どうしたのかと怪訝に思っていた所、いきなり――眩い青銀の光が目に直撃した。
『うっ……!』
何だか目が痛い気がする。多分気のせいだけれど、とにかく眩しかった。
慌てて背けた目を戻した頃には、光は納まっていたけれど、手に触れていたシュリュセルがいない。
「カズキ! カズキ!」
興奮したような嬉しげな声。
いつもより若干エコーが掛かって聞こえるその子どもの声に、はて、と首を巡らせて――千希は目を見張った。
そこには、ファンタジーで定番と言える西洋竜、ドラゴンが一匹、長い尾を揺らしながら佇んでいたのだ。
輝く青銀の鱗に覆われた優美な体躯、背中の被膜は透明な青。柔らかい紫の瞳は瞳孔が縦だか、あまり恐ろしくは感じなかった。
大きさは、大型犬よりもやや大きく、馬と同じくらいか少し小さい程度。
見惚れる程に綺麗ではあったけれど、その竜は尻尾をゆらゆら、翼をぱたぱた動かして、目をきらきらと輝かせていた。
……まるで、やんちゃな子犬のように。
「どうだ? ぼくはかっこいいか!?」
『……シュリュセル…?』
一人称がまた「僕」になってますよ、なんて軽口も叩けない。
ぽかんと見ている彼女の呟きに、青銀の竜はこくこくと首を縦に振った。
『うん…かっこいいよ…』
見た目は、とも言えずにそれだけ口にすると、シュリュセルは余計に喜んで、ぱたぱた翼を動かしていた。
それによって、局地的に強いそよ風のようなものが生まれる。
「おめでとうございますシュリュセル様。ご立派です。――ですが、少し落ち着いてください。あまり翼を動かされますと花が散って、庭師が怒ります」
エクエスが風で乱れた髪を退けながら言った。
あ、そうか、としゅんとしたシュリュセルは、尻尾や翼を動かすのをやめる。
「他国の竜王にも劣らぬ程の美しさに感服致しました。きっと上手にできますよ」
「そうか? うん、エクエスがいうならまちがいないな! がんばるぞ!」
主人に深々と頭を下げるエクエスの言葉に、シュリュセルは何かとてもやる気が漲ったようだった。
外見はとても格好の良い竜なのに、動作などがいちいち可愛くて、ああシュリュセルだなあなんて納得してしまう。
突然人の姿ではなくなったことには驚いたけれど、元々竜だと言われていたから新鮮な感じがするだけだ。怖いとは全く思わない。
お伽噺や二次元の世界でしか知らない本物の竜が目の前にいる。
そのことにいたく感動してはいるのだけれど、緊張感はまるでなかった。
ふと、竜体のシュリュセルの喉元で、何かがきらりと光った。
光を反射したそれは、あの菱形の石。
あの辺りは竜の逆鱗とか言われる位置ではなかっただろうか。そこに、『審判の石』と呼ばれていたものが同化している。
洋服が破れたわけでもないので、竜になる時は装具品もそのまま体の一部になるようだ。別に、体に洋服の模様や色などは全く見えないけれど。
あの『審判の石』とは、竜王になる竜が生まれた時、竜樹が生み出すものらしい。その竜に最も相応しい色を纏って出来るその石は、マナが固まって出来るそうである。
片割れである巫女にだけ反応を示す、不思議な石。
シュリュセルが頭をこちらに向けると、石が淡く光った。
「さあ、カズキ、れんしゅうしよう!」
………何を?
何だか嫌な予感がする、と思っていたら、近づいてきたシュリュセルが屈み、長い首を使って、器用に千希の体をその背中に乗せた。
『……え?』
強烈な浮遊感。
思わず悲鳴が喉から迸った。
『うひゃあああああああ!!』
確かに幽霊になりました。ぷかぷか浮いているように移動するのにも、壁を突き抜けるのにも大分慣れました。
けれど、空を飛びたいと思ったことはないのです。
何故ならば私は、飛行機が大の苦手で建物の屋上も苦手。
高所恐怖症なのですから――。
ベランダなどは下さえ見たり身を乗り出さなければ平気なのに。
あんまり高い所は駄目で、飛行機のあの浮遊感が受け付けない感じだったわけで。
肉体があってもなくても、怖いものは怖い。
精神が昇天するかと思ったその体験は数時間に及び、ごめんねごめんねと謝って、物凄く寂しそうな顔をしたシュリュセルに胸は痛んだけれど、それ以降は御断りすることにした。
王の印を得てはじめて、竜は自分の意思で竜体になることができるらしく、その日は初めてのシュリュセルの竜化、飛行だったそうだ。雛が飛ぶ練習をするのと同じで練習が必要だから、千希に付き合ってほしかったらしいのだが、そればかりは無理だった。
彼女はその経験を経て、お願いの中身はよく聞いて頷かなければと学んだのだった。