プロローグ
ただ一つ、ただ一つ。
ほしいものがあった。
――――その日は、とても月が綺麗だった。
天高くより、冴え冴えと地上に降り注ぐその光は、黄金と言うよりも銀に近く。今宵の月はまた風情が違うなと、ついつい見惚れてしまった。
それが、まさか命取りになるなんて思いもせずに。
ほんの数秒後のことだった。
いつものアルバイトの帰り道。
街灯が少ない上に薄暗い人気の無い道を、首が痛くなりそうな程に空ばかり見上げて歩いていた私は、足元に全く気を配っておらず、何故かそこにあった拳大の大きさの石に蹴躓き、慌てて体勢を整えようとした所で足を滑らせて――後ろ向きにひっくり返った揚句、頭を強かにコンクリートの地面に打ち付けた。
味わったこともない程の、凄まじい衝撃がした。
そして瞬間的に、生き物としての本能故か、わかってしまった。
ああ、これは打ち所が悪いな、と。
まさか、そんな格好悪い死に方をするだなんて思ってもみなかったけれど、あっという間に私の意識は遠退き、慣れ親しんだ肉体とさよならすることになったのだった。
せめてアスファルトだったら、もう少し違う結果になっていたのだろうか。己の間抜けさを呪う間も無く、意識の喪失は訪れた。
――……光が見える。
――誰かの泣き声が、する。
誰……?
それは、とても綺麗な淡い七色の光を背負った、幼い子どもだった。
子ども…?
ぱっと見でも愛らしいだろうと推測される、小さな顔を真っ赤に泣き腫らし、今にも零れ落ちそうな大きな瞳にたくさん涙を溜めて。
大泣きしているように見えるのに、その泣き声は肉声としては時折しゃくりあげる程度だった。
……直後、聴こえていたのは肉声ではなく心の泣き声だと、そんなものを聴けるような特殊能力など持ち合わせていなかったのに、すんなりと納得することが出来た。
声にならない「聲」は、とてもとても悲しそうな泣き声。
長い青銀の髪に紫色の瞳をした、とても可愛らしい子どもだというのに、何がそんなに悲しいのか、嘆き悲しむといった表現が似合うような、ぼろぼろと涙を零す様があまりにも痛ましくて、気付けば声を掛けていた。
『どうしたの?』
「……!」
突然掛けられた声に驚き、びくり、と子どもは肩を震わせてこちらを見た。
『何がそんなに悲しいの?』
「…おじいさまが、おかくれになってしまったんだ」
随分とまあ、難しい言葉を使う子どもだった。
服装もあまり見たことがないものだが、手が込んでいることは一目でわかる仕立ての良いものだし、所謂やんごとなき家の子どもなのだろうとは思ったが、相手が泣いている子どもであることに変わりはなく。
思わず目線を合わせるようにして、宥めるように相槌を打っていた。
この時、お祖父さんが亡くなったことを嘆くその子が、初対面の自分にすんなりと回答をくれたことは通常ありえないことだったのだと、後に私は聞くことになる。
子どもは、自分にとって私がどんな存在であるのか、当初自覚はないままに、本能的に感じ取っていたのだろうと。
『…そう、それはとても寂しくて、悲しいことだね』
「だからわたしがあとをつがなくてはならないんだ。……なのに、どうしてもひつようなものがみつからない」
すん、と子どもは鼻を啜った。
その拍子にまた、ひとつ透明な滴が転がり落ちる。
「さがしても、さがしても……みつからないんだ。みつからないってことは…っぼくじゃ、だめなんだ…!」
どうやら背伸びをして一人称を「私」にしているらしい子どもは、話している内に己の呼び名が変わってきた。
一旦は少し治まっていた嗚咽が復活する。
あまりにも悲しい咽び声が切なく思えて、思わずその温もりを抱きしめていた。
驚いたように子どもが目を見張る。
実は私も驚いた。死んだんじゃなかったっけ。
てっきり幽霊になってこんな光景を見ているのかと思っていた。
「え…?」
『よしよし、悲しかったね。辛かったね。…もっと泣いていいんだよ。あのね、一度は涙を流しつくさないと、悲しみは安定しないの。涙は、心の痛みを抱きしめ和らげてくれるものなんだから、流してしまいなさい。そして、一頻り泣いたら、今度は笑って。――そうしたらきっと、幸福が近付いてくる目印になるから』
「……うそだ…」
『嘘かどうか、試してみないとわからないでしょう?』
「…そんなことで、みつかるわけない…っ」
駄々を捏ねるように子どもは頭を横に振る。
それでも、どうしてか抱擁を解いたりはせず、寧ろしがみ付くようにしてきた。
「うそ…だ……っく、う、うあああああん!!」
嘘だ嘘だと言いながらも、子どもは派手に泣きだした。
この場合、私が泣かせたのだろうが、他に誰も見ていなくてよかった。
幼子を泣かせている所なんて悪印象でしかないだろう。ただ、小さい子が声を殺して泣くなんて許せるはずもない。
子どもは感情を発散させることで小さな体にストレスを溜めないようにし、情緒の発達を促すのだから。
激しく泣く子どもを抱きながら、ぽんぽんとその背を叩いてあやす。
見知らぬ子どもだというのに、縋るように掴んでくる小さな掌を、ひどく愛おしく感じた。
――――この時の私はまだ知らなかった。そこが、見たこともない場所であることを。
そして、自分の置かれることになる状況を。
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主人公いきなり死んでてすみません。