将門の首
平安時代中期、京の都は春先の穏やかな陽気に包まれていた。数日前、関東の地で起きた激しい反乱が遠い昔の出来事のように感じられた。ずいぶんと遠くまで来てしまったようだ。
喜兵衛は水際に突き出た石の一つに腰を下ろした。鴨川の細い水流が明るい日差しに揺れている。京の厳しい寒さもようやく和らぎ、七条河原の枯野にも少しずつ草の色が戻ってきた。近くで時々、雉が鳴く。都の喧騒から離れたこの場所は静かだった。
この河原の一角に場違いなものが置かれている。王宮で見分された後、この河原に晒されて2日目、この不気味な生首は今にもしゃべり出しそうな、苦悶の表情を浮かべている。目は見開いたままで、川下の方を見つめていた。
「だいぶ、見物人も減ったな。今日は朝方、三人ほど立ちよって、それっきりだ。」
声の方を振り向くと与吉が隣の石に腰を下ろして、短い脚をぶらぶらさせていた。西に傾き始めた日差しを受けて顔が赤く染まっていた。
「まだ、任務は続いているぞ。さぼるなよ。」
「なあ、俺たちがいる意味あんのか?だれがこんな不気味なもの、盗むんだよ。」
「なかには悪戯する奴だっているだろう。将門公は俺たち坂東武者にとっちゃあ、英雄だが、京の人々からすれば、帝に逆らった逆賊ってことになっている。だからこそ、もぎ取った首を庶民の前に晒すとか、前代未聞の辱めを受けているわけだ。わざわざ、関東から京まで運んでな。」
「そうだな。おかげで首も腐り始めている。からだに匂いが付いちまったよ。」
「腐るのを防いで見栄えを保つのも、俺たちの仕事だろう。ハエを追い払ったり、塩を塗り込んだりしてさ。」
「でも、もう限界だな。確か、明日の夜までだったよな、この晒し首。」
「お前なぁ、そんな言い方やめろよ。こうやって、お亡くなりになった後も将門公のために尽くす機会が与えられたんだ。ありがたいだろう。俺たちは畑に出ていたがために、都から平貞盛と藤原秀郷が攻めてきた時に、将門公に加勢できなかった。罪悪感はねーのか?」
「ないと言えば嘘だ。でも、それは奴らの作戦だった。仕方ねーよ。温厚な将門公は農事の季節に俺たちを村に返した。奴らはそこに付け込んで攻めてきやがった。卑怯くせーえ。奴らが憎いよ。」
関東八か国を平定し、新帝を名乗った平将門公が、都から攻めてきた平貞盛と藤原秀郷の軍勢を迎え撃ったのは2カ月ほど前のことだ。都からの軍勢は大軍だった。一方、将門公のほうは農民兵たちを田畑に帰していたこともあって、兵力はいっそう少なかった。いくら百戦錬磨の将門公といえども、さすがに多勢に無勢だった。額に矢を受けて倒れた将門公は首を斬られた。
坂東では誰もが将門公を崇拝していた。喜兵衛もその一人だった。律令制度が崩壊し、武士の力が増していった平安中期。腐敗した都の貴族社会に失望し、民衆のため、坂東に独立国を築こうと権力に立ち向かった風雲児。好き勝手に農民から税を巻き上げる国司や配下の役人たちから何度も守ってくれた。将門公は血筋からすれば、貴族になってもおかしくなかった。だが、上に媚びたりはしなかった。それどころか、腐敗した政治に熱く怒っていた。だから、貴族社会を渡っていくような器用さを持ち合わせていない。そんなところもまた喜兵衛は好きだった。
将門公の首が京都に運ばれることが決まった時、喜兵衛は見張り役を志願した。将門公に最後まで尽くしたい、と願い出た。敵将もその忠義を悪く思わなかったか、要望は通った。
村の仲間の与吉にも、京の都を見物できる、お金をもらって旅ができる、と言って、付き添いを頼んだ。しかし、朝夕、首の見張りから離れることができず、彼は不機嫌のようだ。
その時だった。唸るような低い声が聞こえた。
「オマエタチ オレ ノ クビ カラ メ ヲ ハナスナ」
喜兵衛は首の方を振り向いて、思わず声を上げた。
「将門公! お許しを! 」
すぐさま、与吉の笑い声が聞こえた。
「また、お前かぁ。勘弁してくれよ。」
与吉はモノマネの名人だ。腹話術というものでいつも村人を楽しませていた。冷静に考えれば、生首が口を開くはずはないのだが、あまりに声が似ているので反射的に反応してしまった。
「悪い、悪い・・そういえば、知ってるか? 昨日、鹿島玄明っていうお侍っぽい人が見物に来て話を聞いたんだけどさ、藤原純友って海賊が瀬戸内で反乱を起こしてるんだとさ。純友って人、もともとは貴族なんだって。でも、父が亡くなったため、出世の道が途絶えてしまい、伊予の国司にされた。それで、瀬戸内で海賊退治なんてしてたんだって。その海賊たちの話を聞けば、都の腐敗政治が原因で貧困生活を強いられ、生きるために仕方なく賊をやっているってことだった。それで、彼らを束ねて中央に対して反乱を起こしてるってわけ。海賊大将軍だな。なんだか、将門公と同じ雰囲気を感じねーか? 」
「西でそんなことが起こってたのか。」
「しかもさ、純友って人、将門公が京で仕事していた時に知り合った友人でさ、おそらく申し合わせて、東と西で同時に反旗を翻したんじゃないかって。」
「へぇーっ。もっと詳しく聞いてみたいな。玄明って人また来ないかな。」
興味深い話だったが、これ以上、油を売るわけにはいかない。喜兵衛は立ち上がって、生首の方へ向かった。
山際に日が沈み、あたりは闇に包まれていった。喜兵衛が松明に火をかざしていると、与平が口を開いた。
「ところで、喜兵衛、下総からずっと担いできた、その籠。何が入ってんだ。数日の旅でそんな荷物必要ねーだろう。」
「ああ、これな。言ってなかったな。見せてやるよ。」
喜兵衛は籠のふたを開けて中を見せた。底の方で十二羽ほどの鳥がひしめき合っていた。
「鳩じゃないか。持ってきたのか?」
喜兵衛の村で流行している遊びがあった。村の誰かが飼っていた鳩をいらなくなったので捨てようとしたが、どんなに遠くに放ってきても、まっすぐ元の巣に戻ってくるというのだ。そのうち、鳩に手紙や軽い荷物をくくりつけて、運ばせるようになった。馬よりも早く伝達できる。まだ世に広まっていないが、画期的な発明だった。
「実はな、隠してわけじゃないんだが、将門公の首の見張りを志願したのにはもう一つ理由があったんだ。桔梗姫に頼まれたんだよ。」
「桔梗姫って、将門公のことを密告した女のことか。」
「姫は騙されたんだ。裏切るつもりなんてなかった。二人は相思相愛だったんだ。だから姫も罪の意識に苦しんでいた。それで首だけになった将門公を最後まで見届けておくれ、って頼まれてな。この鳩たちも都の様子を逐次知らせるのに使ってほしいって。」
「なるほどな。それでもう鳩を使ったのか?」
「一羽だけな。王宮で首実検があって、ここに晒された最初の日に、ありのままを手紙に書いて伝えた。でもさすがに十三羽も必要ないだろう。」
「まあ、あの姫も天然なところがあるからな。そこがまた親しみやすくていいんだが。ところで、京と下総といったら、最長記録じゃねんえーか?」
「いや。一昨年だったか、出雲大社に参拝に行った権六が下手な絵をかいて、送ってきたな。あれが最長だ。実績はある。」
夜も更けてきた。ここから朝までは見張る方と寝る方を一時ごとに交換する。喜兵衛は最初に眠る方を選んだ。
東の山際が微かに白みを浴びてきた。与吉が近くの草むらの上に藁を敷いて寝ているのが見える。ずいぶんと遠くまで来てしまったものだ。喜兵衛は都が初めてだった。さすがは政の中心地。見るものすべてが珍しかった。美しく整備された街並みと人々の賑わい、各地から集まる産物、雅に着飾る女たち。しかし、何を見ても気持ちは晴れなかった。罪の意識がいっそう引き立つような心地さえした。国府たちの横暴から、あれだけ守ってもらったのに、その恩を返せなかった。俺たちをかばって起こしたあの戦いにも参加できなかった。首の見張りなんて気休めにもならない。このまま下総に戻ってしまって良いのだろうか。すると喜兵衛はある計画を思いついた。
「そりゃあ、いい! やっちまおうぜ!」
与吉は喜兵衛の計画に賛同した。
「だがな、しくじったら、ただじゃすまねーぞ。」
「おまえだって覚悟を決めてるんだろう。将門公の怖さを思い知らせてやろうぜ。それにあの純友って人にとっても励みになるだろうし。」
「よし、昼までに準備しよう。日が沈んでから役人が首を引き取りに来る。その時に決行だ。」
首の警護を与吉に任せ、喜兵衛は街に出て、縄と墨を入手してくると、作業に取り掛かった。見物人はほとんどいなかったので、人目を気にせず、作業できた。
まずは鳩と縄に墨を塗り付けて真っ黒に染めた。それぞれの縄の一端を鳩の足首にもう一端を生首の髪に結びつけた。そのまま鳩たちを籠に戻して蓋をし、高い木が一本立っている茂みの陰に隠した。
首台もその近くに異動させ、その上に首を置いた。生首の髪に結ばれた縄が正面から死角になるように角度を調整した。
首台の場所を移した理由を聞かれたら、日差しが強くて腐食が激しかったから、とでも言えばいい。
相変わらず目を見開いたままの将門公の閉じた唇に木の枝を差し込んで、歯をむき出しにした。鬼の形相になった。
役人の杉原が生首を引き取りに来たのは山際に日が隠れた後だった。七条川原には闇が下りようとしていた。あの気味の悪い生首を見るのが憂鬱だった。さっさと桶に入れて、明日の朝には埋めてしまおう。
揺れる松明の炎に照らされた生首が杉原を迎えた。
「おい、東国の下衆野郎。ちゃんと見張ってたんだろうな。首をもっとよく照らせ。」
「承知しました。」
与吉は頭を下げると、松明を生首に近づけた。
苦悶の表情に圧倒され、杉原は生首から目を背けた。憎しみを込めてこちらを睨みつける生首。長く見ていられるものではない。その時だった、唸るような低い声が響き渡った。
「オレ ノ ドウタイ ヲ モッテコイ モウ イッセン マジエヨウゾ」
杉原は思わず生首と目があってしまった。身の毛がよだった。
与吉が倒れ込んで、生首の前に跪いた。
「将門公、胴体は坂東でござる! お許しくだされ!」
「おい、正気か?なんで首がしゃべってるんだよ・・・」
そして再び、今度はもっとはっきりとした声が響いた。
「ドウタイ ハ ドコダ モウ イッセン マジエヨウゾ」
「しゃ、しゃべったああー-あ!」
杉原は後ずさると、警護に連れてきた侍の後ろに隠れた。脇から首の方を覗き見て、震える声で懇願した。
「ゆ、許してくれ、俺は関係ないんだよ!」
将門公の髪の毛がゆっくりと逆立っていく。
「ウラミ ハラサズ オクモノカ」
生首は浮き上がると、月のない暗い夜空に舞い上がり、東の方向に消えていった。
杉原と護衛の侍が腰を抜かして逃げ帰るのを見届けると、喜兵衛は籠をかついで木の陰から出た。
籠の中は念のため残しておいた一羽の鳩だけなので軽い。与吉のもとに近寄って話しかけた。
「ご苦労だったな。」
「そっちもな。あの首は姫のもとに帰るのだろうか?」
与吉は暗い夜空を見上げている。
「さあ、どうだろうな。」
男が一人近づいてきた。
「なかなか面白いものを見せてもらったぞ。」
「そなたは、あの時の・・・鹿島玄明殿か! よく来てくだされた。」
将門公の首は翌日の夕暮れまで空を飛び続けた。腐食が進んでいたのだろう、縄に結ばれた髪の毛が頭皮からはがれ、首は下総に届く前に落下した。落下地点(現在の東京都千代田区大手町)には首塚が建てられた。
「あっちに行け、カラスどもがあああ!」
ノギの声を聞きつけて、桔梗姫は庭に駆け付けた。
「何事か?」
黒い鳥たちが庭を歩いている。色は違えど、見覚えのある鳥たちだった。
「これは私の鳩だ。手荒な真似をするな!」
鳩の足には縄が結ばれ、縄のもう一端には髪の毛のようなものが結ばれている。
「これは・・・将門様・・・・」
桔梗姫は髪の毛を寄せ集めて、和紙に包んだ。頬に押し当てて、青い空を見上げた。
「将門様が戻ってこられたのですね。」
頬を涙が伝った。
それから三日後、桔梗姫のもとに手紙を携えた最後の一羽が戻ってきた。
姫へ
姫のもとに戻ることができず、申し訳ありません。
我々は瀬戸内で挙兵なされた藤原純友様の戦線に加わることに致しました。
姫はご存じかもしれませんが、純友様は将門公の朋友です。
我々は将門公のもとで果たせなかった無念を晴らす場所を見つけたのです。
この西国の地に身を投げる所存でおります。
腐敗した貴族社会を正して、我々武士が世を治める時代はそう遠くないはずです。
新しい世を切り開いた英雄として、将門公の名は後世に語り継がれることでしょう。
喜兵衛より