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三洲華大学クトゥルフ神話探偵部  作者: 向陽日向
第一章 黄衣の王
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沈んでいく、沈んでいく

 預かった本は前内が所持することになった。

 目を輝かした五歳児に玩具を渡して『遊ばないで』と言ったところで無理なのは百も承知だが、それが意味するところを一番理解しているのも奴だ。浅知恵のみの俺や月山さんが持つよりむしろ安全だろうという判断だ。


 大学最寄り駅で別れる間際、月山さんの念押しに奴は、

『逆に狂気を連れて戻ってくるよ』

 と、珍しく上機嫌に軽口を呼ばし、反対側のホームに降りて行った。三人の中では奴だけが逆方面なのだ。


『大丈夫かしら』

『あいつのことだから、新章を書き下ろしてくるかもな』

 それはそれで興味ある。が、狂気に堕ちるのはゴメンだ。

『狂気に染まってもうち知らないからね!』


 小さく頬を膨らませた月山さんと一緒にホームに向かった。彼女は二駅先で乗り換えるので、いつものように短い会話タイムに全力を投じた。ちなみにその後のイベントに発展する確率は今のところゼロだ。この日も別れ際、手を振って降車する彼女の姿を見送り、次回への闘志を燃やした。


 翌日、講義を終えた俺は図書館に向かった。

 三洲華大学附属図書館は学生ホールの北に建っている。大学には東西南北に四つの門があり、常に多くの学生や教員、業者などが利用している。図書館に直行するのなら北門から入るのが近道だ。

 ちなみに講義が行われる講義棟は全部で三棟あり、キャンパスの左上から右下に斜線を描く位置に建っていて、左上がA、中央がB、右下がCとそれぞれ呼称されている。


 先ほどまで講義棟Aに缶詰めだったので、図書館へはまっすぐ東に移動すれば着く。講義棟Aの南にはサークル棟や広野先生の研究室がある研究棟Aが佇んでいる。

 図書館は有名な建築家が手掛けたらしく、キャンパス内の建物の中で一番革新的なデザインだ。

 一階はカフェのように開放的な間取りで、外からでも読書や勉強をしている学生の姿が見える。前内は『正気の沙汰とは思えない』と常に零し、決して一階には出没しない。奴のテリトリーは二階の隅っこの席だ。


 自動ドアをくぐり、一階受付前に設置されたゲートの端末にカードタイプの学生証をかざすと、ピッと音がしてゲートが開く仕組みだ。

 残念ながら閲覧や貸出は在籍者のみしか出来ないが、一階に併設された軽食屋は一般人も利用可だ。ゲート横の通路が店に繋がっており、食事を終えたらしい年配の夫婦が並んで歩いてくる。

 二階へ行き、奴の指定席に向かうも姿はない。


『珍しいこともあるんだな。今日は真面目に講義か?』

 メッセージアプリでメッセージを送り、調べ物を始めようとしたとき、三階へ向かう階段が見える。

 階段の前には『重要書物取扱いにつき立入禁止』と立て看板がある。


 研究会のメンバーの間では、この先に特別閲覧室があるというもっぱらの噂だ。

 クトゥルフ神話では【魔術書などの多くの書物が米国マサチューセッツ州の架空都市アーカムのミスカトニック大学附属図書館に保管されている】という設定がある。

 中でも禁忌の魔術書【死霊秘法(ネクロノミコン)】の断片は秘めたる魔力を授かろうと盗み出す者が後を絶たないため、特別閲覧室にて厳重に保管されているのだ。


 その入口らしき階段の先は照明が灯っていないため、昼間でも暗い。二階の照明が照らすのはせいぜい踊り場付近までだ。邪な書物の存在が露見した今、暗い深淵がこちらを覗き込んでいる気がして、慌てて視線を逸らした。


 本来の目的――【黄衣の王】の貸出記録について調査することにする。

 今やフィクションと現実を隔てる壁は曖昧になっている。

 両者が混ざり合う奇妙な感覚が全身に満ちている。


 さすがに背表紙を虱潰しに見ていくわけにはいかないので、二階上がって正面にある検索機の世話になることにする。

 キーワード欄にズバリ【黄衣の王】と入力。半信半疑で検索を開始すると、検索中の画面に切り替わる。矢印がグルグル回るおなじみのマークだ。


 ――さすがにあり得ないか。

 検索を止めようと伸ばした人差し指が、空中でピタッと止まる。その前に検索が終了したらしい。瞬きを何度も繰り返し、何度も画面の表示を読んだ。


『キーワード検索結果:該当一件』


「マジかよ……」

 思わず声が出てしまった。


 タイトルは――【黄衣の王――The King in Yellow――】。

 画面には一冊の黄色い本が己の存在を誇示するように、堂々と俺を睨みつけている。

 歪な英語で書かれたタイトルが表紙の上半分に書かれ、下半分に前内が言っていた奇妙なマークが描かれている。


 まるで両手がクエスチョンマークになったヒトを簡略化して描いたように見える。

 クエスチョンマークを左九十度に倒したものと、黒点を基点に反転させたものが両腕を象っている。しかし右側は少し形が崩れ、これ自体が平仮名の『つ』を描いているようだ。黒点の下には歪な黒線が一本引かれている。これがヒトの胴体に見える。


 これが全体的に少し右に傾いでいる。昨日見た《沈む谷》の表紙に描かれたマークと似ている気がする。あちらは単にクエスチョンマーク一個が傾いただけだが。


 詳細情報を見ていくと、刊行年も著者名も空欄だ。

 唯一、書籍説明欄に文章があった。が、カミラやカシルダといった名前が登場するだけで意味不明だった。


 肝心の貸出記録は既に貸出し中だ。しかも五年前――。

 何者かがこの書物を借り、《沈む谷》を執筆したらしいことは間違いなさそうだ。

 記録を印刷し、逃げるように図書館を後にした。

 前内からの返答はなく、メッセージアプリも未読のままだった。


  *


「丸瀬くん、私の指見つめて」

 図書館で見つけた【黄衣の王】の貸出記録。

 連絡が取れない前内。

 居ても立っても居られなくなった俺は、すぐに月山さんにヘルプを求めた。今は学ホで一息ついている。目の前に差し出された彼女の白くて綺麗な人差し指を無心で見つめていると、不思議と安心感に包まれる。


「大丈夫そうね」

 指を引っ込める月山さん。今日の彼女は白ブラウスと茶色のロングスカートという格好だ。

「もう、慌てて連絡くるからびっくりしたよ」

「ごめん」


 これには小さく謝ることしか出来ない。月山さんはスマホをしばらく見つめ、

「前内くん、ちっとも出ないね」

 メッセージアプリを開くも依然未読のままだ。


 連絡を入れて既に一時間以上経っている。時刻は十六時十五分。四コマ目も終わり、帰宅する学生のざわめきが屋外から聞こえてくる。学ホ内の購買に立ち寄る学生も数を増してきた。一日の講義は五コマ目まであるが、必修でもなければ取らない学生が多い。


「読んだりしてないよね」

 俯いているせいで、表情は見えない。心情を映すように両の睫毛が小さく震えている。

「ま、まさか。あいつに限ってそんなこと――」

 ない、と結べなかった。

 というより、あいつなら読みかねない。


「前内くんの家行ったことある?」

 不安げな視線を向けた月山さんに頷きを返す。

 確か、逆方面の電車に乗って二十分、そこから歩いて数分のアパートだったような気がする。念願の一人暮らしで読書し放題になったはいいが、下の住人が騒々しいときがあるとボヤいていたことを思い出した。


「行ってみましょう? 何かあったのかもしれないし」

「本に埋もれてないことを祈ろう」

 精一杯の軽口は、購買から響く喧騒に打ち砕かれた。


  *


 大学の最寄り駅から帰宅時とは反対方面の電車に乗り、降りた駅から記憶を頼りに十五分ほど歩き、前内のアパートに到着した。


 年季が入った建物だ。

 外壁は黒ずみ、剝がれている箇所もある。二階建てで、二階の奥が奴の部屋だった気がする。錆にびっしり覆われた階段を上がる。ビュウと生ぬるい風が吹き抜け、鼻の粘膜にこびりつく。

 部屋の前に立つが、人気はない。扉の横に小さい窓があるが、暗闇が張り付くばかりだ。

 ノックをするも、当然のように返事はない。


「留守かしら?」

 月山さんは反射的にノブを掴む。

「あら?」

 するとノブは抵抗なく回り、扉が手前に向かってゆっくり開いた。部屋の奥は暗闇に覆われ、人気がない室内で冷蔵庫の稼働音が不気味に響くのみである。


 ドアを半分ほど開け、恐る恐る呼びかける。

「前内! いるか?」

 返事はない。

「月山さんは無理しなくても」

 気遣ったつもりだが、月山さんは逆に頬を膨らませる。


「一人でいるほうが怖いよ」

 頼もしい一言に鼓舞され、明かりを点けて部屋に入る。


 部屋はワンルームで、台所を抜けた先にリビング兼寝室があるのみだ。

 敷かれたままの布団に乱れはない。壁際に置かれた本棚にはぎっちり本が並んでいる。


「ね、ねえ……あれ」

 月山さんがデスクを見つめたまま硬直した。

 ベランダ横に小さなデスクがあり、本が平積みにされている。デスク中央、一冊の黄色い本が表紙を上にして置かれている。


 タイトルは――《沈む谷――The Sinking in Valley――》。


「これから読もうとしたのかしら」

 不吉なピースの数々が目まぐるしいスピードでカチカチと嵌り合い、底知れぬ深淵を具現化していく。

「あるいは……もう旅立った後かも」

「読んじゃったってこと!?」


 目を背けようにも、状況証拠はその事実を示しているとしか思えない。

 月山さんは何を思ったのか、《沈む谷》を取り上げる。より間近に表紙が迫り、眩暈に似た浮遊感に包まれ、視界の端で光点がいくつか舞った。

 裏返して何も描かれていない裏表紙を確認した後、彼女はおもむろにページを捲る。


「まずいって!」

「何かヒントがあるかも!」

 ヒートアップする彼女を宥め、スマホを取り出す。この本が【黄衣の王】をモチーフにしているのであれば、クトゥルフ神話の中にヒントがあると考えたのだ。


 研究会メンバーがまとめたサイトに早速ヒントを見つけた。

 どうやら【黄衣の王】を読み切ると異界にあるとされる古代都市【カルコサ】に誘われるという。この土地に【ハリ湖】という湖があり、湖底に旧支配者(グレートオールドワン)が潜んでいるらしい。


 その名を読み、背筋に戦慄が走る。

()()()()だと?」

「それ……確か大いなるクトゥルフと敵対する旧支配者(グレートオールドワン)の?」


 なんてこった。

 前内が言っていた反対とは、このことを言っていたのだ。


 旧支配者(グレートオールドワン)筆頭の【大いなるクトゥルフ】、それと敵対する真逆の存在こそ【ハスター】に他ならない。クトゥルフでなく、ハスターが現実に魔の手を伸ばしているのだ!


「じゃあ、前内くんも……?」

「奴ならやりかねないよ」

 本を受け取った時のキラキラした表情を思い出す。その恐ろしさを誰よりも知っていた奴が、逆に魅入られてしまったんだ。


 狂気の塊を手にした月山さんは、あろうことかさらにページを捲りだした。

 まさに狂気に駆られた行動としか思えない。


「読も!」

 彼女の両目が力強く胸を射抜く。その熱情が、仄かに全身に広がる。

「連れ戻さないとな!」


 読むしかない。それしか奴を追う手立てがないのだ。

 目次を過ぎ、いよいよ本編に差し掛かろうとしている。

 はっきり言ってノープランだ。まさに、狂気の沙汰としか思えない。


「先のことは、その時に考えよ!」

 少しぎこちないが、天真爛漫な笑顔が返ってきて少し安心する。

 何か使えるものはないかと手元の通学用カバンを漁った時、カバンの底で転がっている蜂蜜酒入りの褐色瓶と石笛を見つけて取り出す。広野先生からもらったお守りだ。

 縋るような気持ちで、急いでポケットにしまう。


「いい? 丸瀬くん?」

「いつでも」

 月山さんの細い指がページを捲り、第一章が始まった。


 互いに読み物には慣れているので、軽快なペースで読み進める。

 第一章が終わり、第二章が始まって数十ページ進んだとき。


 背後に気配を感じた。

 月山さんは全く気が付いていないらしく、どんどんページを捲っていく。


「いい?」

「う、うん」


 指に力がこもっているようで紙に爪の跡がくっきり残る。「いい?」と一言。「うん」と返事。ページを捲る。「いい?」「うん」「いい?」「うん」「イイ?」「ウン」


 ああ、もうダメだ。気になって気になって気になってキニナッテ――。


 振り返るとそこに、黄衣の王がいた。


 のっぺりと背が高く、カラフルな色をあしらったボロ雑巾を大切そうにその身に纏い、天井近くから俺と月山さんを見下ろしている。

 所々虫食いのように穴が空いた翼が背中から生えている。顔には蒼白の仮面がかかっているので、表情は見えない。


『カシルダは走り去ったか。己の尻尾を追っているともしらずに』


 カシルダとは、第一章にも出てきた女性の名――いや、カミラはハリ湖にボートを浮かべ愛人と詩を詠んだのだ。間違いないよな、カミラ?


「いい? うん。いい? うん。いい? うんいいうんいいうんいいいいイイイイ」


 だから言っただろ、カミラはボートを浮かべるべきではなかったのだ。ボートは沈没を暗示している。よってカシルダは火山に身を投げたことでマントルに達したのだ。カミラも上空へ筆を投げるべきだったのだ。セントラルドグマとなり、二人が三人にさえなれればこの不可抗力も宇宙の塵に等しくなり、愛され、淀み、これ真理なり。


『イエス・キリストは神だったのか』


 蒼白の仮面が、じっとこちらを見つめている。

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