変わらないもの
アザトース・ハスターを筆頭に、暗黒神話の眷属を【死霊秘法】の断片に封印した日から数週間が経った。
巨大な暗黒神話の邪神が顕現した渦中の三洲華大学ではあるが、驚くほど依然と変わりない景色が広がっている。
顕現当日が阿鼻叫喚の嵐だったことを覚えているのは偶然居合わせた人達くらいだ。
附属図書館を後にすると、薄闇の空に星が煌めいていた。
通りには多くの学生や教員、業者の人達が倒れ呻き声をあげていた。急いで警察に連絡し、救急車が到着して次々に患者を担架に載せていた。幸い、大事に至った患者はいなく大半がその日の内に帰宅することが出来たという。何人かが入院することになったが三日もすれば全員が入院病棟を元気に後にすることが出来た。
テレビのワイドショーはしばらくこの話題で持ち切りだった。
イタクァ事件やクトゥグァ事件でスポットライトを浴びていたこともあり、あれやこれやと推論を重ね合う専門家の姿は滑稽に映った。中にはクトゥルフ神話と関連を疑う解説員がいたが、次週から姿を見せなくなってしまった。
今や噂レベルにまで終息し、邪なものが存在したことを知る由もない学生たちの談笑がキャンパスに響き、テストが近づいた学生ホールではコピー機の取り合い合戦が勃発し、夕方までサークル活動に精を出している。
平凡でつまらない日々が戻ってきたのだ。
クトゥルフ神話研究会にて今回の件をかいつまんで報告するも、ついには冷ややかな視線を向けられる始末だった。『面白い展開だね。本格的に書いてみたらどうだい?』と物書きを勧められたほどだ。
前内はこれでいいと口癖のように呟いている。
イタクァこと横大路教授は相変わらず昏睡状態が続いているという。未だに【夢の国】での取り調べが続いているのだろうか。あの日以来、階段は現れないので【夢の国】へはしばらく行けていない。
忍川助教と杜亜教授は退職扱いとなり、学校から姿を消した。それぞれ故郷に戻れたのだろうか、真相は深い闇に覆われている。杜亜教授の部屋から【黄衣の王】や《沈む谷》はついに発見されなかったという。
当然のことながら、あの日を境に神話世界の眷属を目撃することはなくなった。
試しに残された《沈む谷》を読んでみたが変化は訪れなかった。カルコサに連れていかれることもなかった。さすがに読み返しはせず、積読の一番下に幽閉してある。
広野先生は力が失われた後、全国にいる同胞らと連絡を取ったという。やはり同胞は皆力を失ったらしい。喜ぶ者もいれば、憤る者もいるという。
『色々な人たちがいるのよ。ほんと』
愚痴を漏らしながら、元同胞らへの連絡と講義に相変わらず忙しくしている。
民さんはなんと、三洲華大学に入学するため猛勉強中とのことである。出来ればそのまま狂い切ってほしいものだ。
ちなみにフェリスは騒動の後、行方をくらませてしまった。後日連絡を入れてみると無事帰還できたようで、アミール共々お土産を期待して首を長くしているらしい。最近階段が現れないことを伝えると、根回しをしてくれるという。
今日は講義終わり、青地さんを含めて飲み会をする予定だ。その帰りにでもフェリスたちへのお土産を買うことにしよう。
待ち合わせの最寄り駅へ向かう前に前内と合流する。歩きながら、聞きたいことがあったことを思い出した。
夕日が前内の横顔を照らしていた。
「クトゥルフ神話は創作だって言ったよな?」
「ああ。言ったね」
「どうしてだ?」
今回の事件で俺たちはたくさんの神話生物と遭遇した。
それは明らかに現実での出来事。そう――二次元の存在が三次元に介入したとしか思えない状況だったのだ。
世の中のあらゆることは科学的に説明できる。しかし、中には説明できないこともあるように感じる。それが、今回の神話世界との邂逅だったのではないか。
「見栄だよ」
恥ずかしがる素振りもない。クトゥルフ探偵は堂々とクトゥルフ愛を示した。
「僕にとってラヴクラフトは偉大な作家だ。もし杜亜教授の言葉が正しいのなら、彼はありのままを書いたに過ぎないことになるだろう? それじゃあ、ただのノンフィクション作家じゃないか。そうじゃない。彼の偉業は、壮大なる宇宙を舞台にした得体が知れない存在たちの饗宴を創作した点にこそあるんだ」
奴の言葉はどんな推理よりも力強かった。
「だから杜亜教授の言葉は許せなかった。でも確かに、僕らは実体を持った存在として神話世界の生物たちと対峙してしまった。その点ではノンフィクションに違いない」
けどね、と前内。
「つまらないじゃないか」
「え?」
「創作の中の得体が知れない存在を空想するからこそ、楽しみがあるんだろう? 僕はいつまでも神話世界の探究者でいたかった。小説という文字の羅列だけで宇宙的恐怖を表現した世界を、いつまでも空想の存在として探究していたかった。それこそロマンだ。僕はロマンチストでいたいんだ。特にクトゥルフ神話は徐々に現実を侵食する恐怖がたまらないんだ。でも現実になってほしくない。それは二次元で充分なんだ。というより、既に次元の壁を超越しているよ。そう思わないかニジュウ?」
クトゥルフ探偵はいつもの不敵な笑みを浮かべて言った。
「まあ、これからも頼むよワトソンくん」
「やる気満々じゃねえか、クトゥルフホームズさんよ」
駅前に差し掛かり、こちらに手を振る月山さんと青地さんがいた。今日の月山さんもかわいい。
「いいのかいニジュウ? あまり待たせるのは良くないんじゃないか?」
「うぐっ」
たまらず反撃を見舞う。
「お前の方こそ急いだほうがいいぞ。青地さん狙ってるやつ多いらしいからな」
「なっ! そ、そうなのか?」
このヤマは今までの事件同様、一筋縄ではいかないようだ。
気を取り直したように改まる前内。
「ここで問題」
久しぶりの前内ドリルである。こんなときに、と思ったが黙り込む。
「今回、ハスターの復活を阻止したわけだけど、神話世界中でハスターの妻として名が挙がっている別名【千匹の仔を孕みし森の黒山羊】と呼ばれる存在は?」
俺はすかさず答えた。
「【シュブ=ニグラス】」
「正解。もう僕の補習はいらないかな?」
「お前にしてはサービス問題だったな」
「はっはは、流石にお見通しか」
これはたまたま知っていただけだ。他にもまだまだ知らないことがたくさんある。
「今後も教えてくれよな、クトゥルフ探偵の名に懸けて」
「それ、僕が言うセリフじゃないか」
いつだって俺たちは探究者だ。広いクトゥルフ神話の世界を探索し尽くすことなど誰も望んでいないのだから。
「たまにはサービス問題も頼むな」
「いいのかい? 月山さんとの補習の時間がなくなるよ?」
「うぐっ。それなら青地さんにもメンバーに入ってもらおう。それでどうだ?」
「わかっているじゃないか、さすが僕のワトソンだ」
前内ドリルの連続不正解記録を何とかストップして、二人に向かって手を振り返した。
それを祝うように、風に乗ってどこかから猫の鳴き声が聞こえた。
その日は夜遅くまで楽しみ、帰宅したのは日付が変わる間際だった。
シャワーを浴び床に就いて数分、ふと目を開けると階段が見えた。
階段を降りているとき、背後から男女の話し声がしたので戻ってみると、
「やあ、また会ったねニジュウ」
【夢の国】へ向かう踊り場で、上下スウェット姿の前内が手を振った。
「ああぁ! 丸瀬くんだ! うちのチューハイ頼んでおいてくれる? 濃い目で!」
ピンク色の寝間着姿の月山さんは夢の中でも酔いつぶれているようだ。
「ひかるんってば、もう!」
薄青色のパジャマ姿の青地さんはそんな彼女の肩を抱く。しまいには青地さんの肩に顔を埋める始末だ。今だけはずっと夢の中にいたいと思った。
冷えた体が仄かに温かくなる。ほんのりと広がる温もりに身を預けながら、月山さんの酔いがある程度醒めるのを待って、階段を降りることにした。
その最中、お土産を買うのを見事に忘れたことに気付いた。
フェリスたちが爪を立てる様子が脳裏に浮かぶ。
こうなったらお土産を渡すまで何回でも訪問してやることにしよう。




