修道院狂奏曲②
「……どんどん暑くなってないかしら?」
月山さんはついに防寒着を脱ぎ捨てた。額は汗で覆われ、前髪を濡らしている。
獣人の少年は大人しく目を閉じ、まるで眠ったように静かだ。頬の汗を月山さんが時折ハンカチで拭っている。
前内によるとこの辺りに都市があるらしいから、そこの住人かもしれない。寒冷地帯で暮らす住人にとってこの規格外の暑さはしんどいだろう。
石の監獄に囚われてからどのくらいが経っただろうか。
周囲の炎が一層牙を剥いていることは想像に難くない。茹蛸を通り越し、燻製になるのも時間の問題だ。
「……アルジ……アルジ」
少年は譫言を繰り返している。アルジ――主? 彼らの都市の統率者のことだろう。
窓がなく外の炎の様子が見えないのは幸いだが、見えない魔の手で首を絞め上げられる感覚が走る。やがてそれは言いようのない恐怖となって全身を蝕み始めた。
「丸瀬に月山ぁ……こんな所で何しているんだあ? ええ?」
一瞬幻覚かと思った。
「私の歴史文化学をボイコットするとは良い度胸だ。褒美に選ばせてやる。私の炎で焼け死ぬか、ハスターのために命を捧げるか」
入口の石扉を容易に開けて屋内に侵入してきた人物――それは歴史文化学の助教、忍川礼一郎に他ならなかった。
「やはり……お前が、クトゥグァ、だったのか」
口の中がカラカラで、うまく言葉が出ない。
「助教だと思って舐めてやがるな。余計な手間をかけさせた分と教員侮辱罪は重いぞお。退学処分、そして私の炎で消し炭の刑だ。それをハスターにくれてやろう!」
忍川礼一郎の体が徐々に紅蓮の炎に包まれていく。
次の瞬間にはヒトの形は解けるように崩れ、巨大な火の玉となって宙に浮遊した。周囲の空間が陽炎のように揺らめき始める。
クトゥグァが真の姿を顕現させた瞬間だった。
クトゥグァの外見については前内も非常に興味を示していた。その通り名だけが、滲み出るように燦々と輝くのみだったのだ。
クトゥグァ――それ即ち【地上の太陽】である。
本体と思しき火球の周囲に、従者のように寄り添う無数のプラズマ球体が出現する。あれは別名【炎の精】――一説によると知性を帯びた生命体らしい。
「我こそは【外なる神】の従者を屠る炎の王、旧支配者が一……名をクトゥグァ。遥か天空に輝くうお座のフォマルハウトより来たれり」
火球はどんどん膨張していき、やがて十字架を象る。しかし次の瞬間には二つに分裂する。まさに不定形の炎――形なき炎の中は燃え滾る憤怒で満ちている。
「ひれ伏せ。さすれば慈悲なる我が炎で天への門を開けたり。なに、一瞬の我慢だ」
膨張するクトゥグァの周囲を、まるで楽しむかのように無数の火球たちが飛び交う。その内の一体が、すぐ眼前まで迫る!
「きゃあっ!」と叫び態勢を崩した月山さんを咄嗟に抱きとめる。
目を背けるほどの熱波だ。産毛がチリチリと踊り出し、いつ火が上がっても不思議じゃない。
目を覚ました少年は飛び交う火球の群れを呆然と眺めている。半開きの口から涎が糸を引いて床に落ちた。汗が目に入り、一瞬視界がぼやける。
まさにチェックメイト――成す術がない。
「閉鎖空間……太陽……脱出不可……四方は炎……」
既にカルコサに堕ちた以上前回のような逃亡も不可能……広野先生がタイミングよく助けに来ることも望めない……前内から連絡もない……フェリスらは事務作業中だろう。
こんなところで、こんなところでっ!
「我が故郷の味を、ほんの少しだけ分けてやろう。とくと味わうがよい」
クトゥグァはなおも膨張していく。
火球たちが部屋の四隅に陣取った。これにより室温がどんどん上昇していく。肌の上がむず痒い。汗がたちまち気化する。少年が垂らした涎がブクブクと泡立っている。
四隅から距離をとるべく中央へ移動するも、太陽の如き輝きを放つクトゥグァに接近する形となってしまった。前門の太陽、後門の火の球である。
ついに服から黒い煙が上がった。必死に叩いて消化を試みるも、火種はやがて全身に広がり始める。
「そんな! そんなああ! 嫌よ! 嫌あああ!」
月山さんは次第に表情を強張らせ、半狂乱となって自らの体を痛めつけていく。息を吸う度に肺が焼け焦げる。視界に黒点がちらつく。意識が遠くなる。ああ、アツイあつい!
中でも少年が深刻だ。
全身の大半を覆っている体毛から黒煙が小さく上がっている。火の回りが早過ぎる。半狂乱する月山さんは既に壊れたおもちゃに成り果てているので、自分の火種そっちのけで少年の消火に当たる。ついにボヤが背中を焼き激痛が走り、たまらずのたうち回る。
「――アルジ……アル……ジ」
少年の声は次第に弱くなる。
視界の大半が黒く塗りつぶされた。辛うじて残る中心付近に、なおも肥大化するクトゥグァが見えた。最期くらい、好きな光景を見せてほしいものだ。
――隠し味、わかったぜ。
彼女のクッキーの隠し味。
味音痴な俺でもわかった。
――君の、
「……ンンンンん?」
その時、肥大化していたクトゥグァの動きが止まった。
狭まった視界が、グラリと動いた。ついに痙攣か――その矢先、再び動いた。三度目の振動で、体ではなく、建物が揺れていることに気づいた。
天井から降ってきた細かな石の破片が、頬を打った。
*
耳を劈く獣の鳴き声がした。
どこかで聞いた声――思考はそこで途切れた。
「闖入者か」
轟音がして、修道院が大きく揺れた。
まるで修道院を何かが強引に揺さぶっているようだ。
「面白い。しかし我が炎を如何にして?」
修道院の周囲は炎の海だ。修道院を揺らすものはこれを突破したというのか?
クトゥグァの疑問に答えるように、轟音が累乗された。
それはまるで殴打音! 殴打! 殴打! 石造りの修道院を巨大ななにかが殴りつけているのだ!
そして――ああ、壁に……! 大きなヒビがミミズのように走っていくではないか!
薄れゆく意識を覚醒させるように、なおも殴打音は絶え間なく響く。それは半狂乱のおもちゃと化した月山さんの動きすら止めるほどだった。
「ねえ――あれ、なんなの?」
ヒビは一部穴となり僅かな隙間から外の冷気が入り込む。クトゥグァの炎を侵食する。その間隙に、確かに見た! 見てしまった!
ギラギラと輝く牙が並ぶ、巨大な口を!
開かれた口の先、喉奥の深淵から伸びる醜悪なピンク色に塗れた蛞蝓状の舌を!
その先端が獲物を欲しがるように、グパアとはしたなく四方に開かれるさまを!
そしてついに、か弱い石の壁は無残にも崩壊した。
冷気が一気に流れ込み、急激な温度変化に今度こそ体が言うことを聞かず、細かく痙攣する。舞い上がる土煙がしばし、舞台を隠す。
そこにいた。
悍ましい、ナニカが。
「――ア……アルジ! アルジ!」
冷気を受けて意識を取り戻した少年が、歓喜の声を上げる。
「おのれ! ムーン・ビーストか!」
クトゥグァは吹きつける冷気に対抗するように、一層大きく燃え上がった。
悍ましいもの――名はムーン・ビーストというらしい――はそんなクトゥグァを威圧するかの如く大きな雄叫びを上げた。忌まわしい逆鱗に呼応するように吹雪が吹き込み、クトゥグァの存在そのものを揺るがす。
それはまるで腕が長い二本脚で立つ蟇蛙のようだ。
浮き出た緑色の血管が走る両足の鉤爪が、雪が解けて露わになった地面に杭のように突き刺さっている。血管は全身に巡り、緑色の蜘蛛の巣が張り付いているようだ。
両足のすぐ横に、長い二本の腕が地面を握りしめている。
丸太のように太い上腕と前腕を繋ぐ関節は、異様なまでに括れている。皮膚を押し上げる筋肉繊維がピクピクと痙攣を繰り返している。
先程垣間見た舌が覗く口を含め、悍ましい顔全体が像を結んだ。若干の視界のちらつきは残っているが、もはや誤差範囲でしかない。その姿は誤魔化しようがない。
見てしまった! 見てしまった!
舌が、あの蛞蝓のようなピンク色の舌が! 本来なら鼻があるべき所に! 無数にその身を蠢かしている光景を!
まるでお遊戯会のときに歌ったチューリップの花だ。何故かって?
美人な先生の伴奏で歌わなかったか? その時どうやって花をつくった?
それ以外にどう形容すればいい? まさに両手で作るチューリップの花そのものではないか! 十指を手当たり次第に蠢かせろ! それだ! まさにそれだ!
十本、いやそれ以上の鼻が、いや舌か? 互いに絡まるようにして真っ直ぐ、クトゥグァを見つめている。中には舌のようにさらに花開かせ、粘着質なトロリとした液体を漏らしているものもある。
「月の裏側から何しに来たというのか! 我をハスターの同盟クトゥグァであると知っての所業か!」
クトゥグァの炎が再び迫り、鎮火していた服に再び橙色が揺らめいた時だった。
「テリトリー ケガシタ ドレイ シヌ ユルサナイ!」
身を竦ませる雄叫びをバックに、無数の蛭たちが一斉に花開く。それは口にすることも憚られるような淫靡な花びらだ。極寒の冷気が称えるように吹き荒れる。
「アルジ! アルジ!」
頭をかき乱す轟音の中、少年だけがなおも歓喜のコールを上げている。
両者の喧嘩が幕を上げた瞬間だった。




