狂気の地で夢を見る①
「おいニジュウ、また【夢の国】へ行く気かい?」
頭の中でやかましい声が響くと同時に、ゴツゴツした感触を全身に感じ、惰眠を貪る気持ちで寝返りを打った。
「痛っ!」
堅いもので腰をどつかれたような痛みが走り飛び起きる。
「良かった! もう! 心配したんだぞ!」
視界の中心で、両手を合わせた月山さんが笑みを浮かべていた。お洒落なロゴ入りのTシャツには泥が付着し、頬に砂利がついていた。
「寝相の悪さは相変わらずみたいだね」
眼鏡の汚れを服の裾で拭き取った前内は続ける。
「まあ、お手柄に免じて詰問は控えておくけどさ」
「お手柄?」
その時、周囲を取り囲む炎の群れを思い出して咄嗟に身構えた。しかし周囲に炎は見当たらない。消防が鎮火させたのだろうか。それにしても燃えカスすら無いのは妙である。
周囲の光景にも違和感を覚える。
地面がいつの間にか砂利道になっているし、木が炭化した臭いも一切なく、代わりに生臭さが漂っている。木々が燃え尽きたのは当然として石造りの建物は崩壊を免れている。というより、森林園にあんな建物あっただろうか。
「なあ? 火事はいつ収まったんだ?」
それにしても、何故火事場の中心で倒れていたんだ?
「火事は心配いらないよニジュウ」と前内。「僕らは助かったんだ」
「どうやって――」
「これだよ。ニジュウがこれを持ってきていなかったら今頃僕らは黒焦げだったね」
前内が差し出したのは――なんと《沈む谷》だった。
それを呼び水に、火事場での最後のやり取りが蘇り、改めて戦慄が駆け巡る。
「…………マジ?」
無言で頷く二人の背後で、歪んだ月が朽ちた尖塔の前を平然と横切った。
俺たちは身に迫る炎の群れから逃げることと引き換えに、再び狂気の淵に落ちた。
実習で使う荷物に埋もれていた狂気の書《沈む谷》を咄嗟に読み、再び狂気に身を委ねたのだ。
まさか二度も訪問することになるとは思わなかった。
狂気の都市であり、ハスターが眠るハリ湖が広がる古代都市カルコサは静かに夜の闇に溶け込んでいる。
目覚めたのは裏路地の一角だ。
冷たい石造りの建物が左右に冷え冷えしく屹立している。崩壊した壁の隙間を冷ややかな風が通り抜け、どこからともなく亡者の呻き声が忍び寄る。
「とにかく移動しよう。ここにいたら鼻が曲がりそうだ」
裏路地を抜けたとき、数人の若い男女とすれ違った。みんな俯き、虚ろな表情でトボトボと歩き去っていく。その先に――暗黒を湛えた湖が大きく口を開けているに違いない。
集団に憐憫の眼差しを向けた月山さんの肩に触れる。小刻みに震えていた。
「絶対助けよう。けれど今は……」
「うん。わかってる。ありがと」
月山さんの瞳から涙が零れ、ジロジロ見るのも悪いと思い視線を前内に移す。
「絶賛増刷中なのかもね」
《沈む谷》事件後、回収できたのはごく一部だ。今もこうして狂気に追い込まれる犠牲者が後を絶たないのだ。自然と握り拳に力がこもる。
「俺たちはどうして大丈夫なのかな?」
「さあね。蜂蜜酒を口にしたから免疫がついたのかも」
【夢の国】と行き来もしたのだ。神話世界に対する免疫がついているのかもしれない。
「それならまたビヤーキーに助けてもらえないかな? 呪文は前内くんがマスターしているし」
月山さんの問いに前内は首を振る。
「残念ながら厳しいかな。ビヤーキーは本来ハスターの従属種族だからね。広野先生のビヤーキーが特別だったんだ。もう死んじゃったし、仮に新たなビヤーキーを使役したとしても蜂蜜酒がないから、運ばれた途端に宇宙の塵になるのがオチだね」
「蜂蜜酒、作れないのかなぁ」
「普通のお酒じゃないしね。確か【セラエノ断章】に記述があるらしいけど、僕らには理解できない手法だよ。麦芽酒作るのとはワケが違う」
「そっかぁ。残念」
何だか脱出のためというより、蜂蜜酒そのものに未練があるらしい月山さんだった。
「今度作ってみよっかな。特製蜂蜜酒!」
「何杯でも試飲できそうだ」
そのためにも、まずはこの地から脱出する方法を見つけなくてはならない。
続々とやってくる狂気に堕ちた人々の波に逆らうように、湖とは反対方向へ移動する。
休憩がてら、打ち捨てられた石造りの残骸に転がり込んだ。
元々は家だったらしいが、住民の姿はない。囲炉裏らしき場所で黒く変色した物体が複数個転がっていて、ジャンケンで負けた前内が顔をしかめながら外へ蹴とばした。
部屋の隅に割れた皿の破片が散らばり、近くの床に黒い染みが付着している。そこから遠い位置に陣取り、そのまま腰を下ろした。
「この地に住んでいた人がいるなんてね」
壁に空いた穴から念仏のような声が絶え間なく流れ込んでくる。
前内は靴の先端をティッシュで拭き、そのまま部屋内の物色を始めた。人の手が離れてかなり経つようで、役に立ちそうなものは発見できなかった。
「ダメ……意味不明な記号ばっかり」
スマホを確認した月山さんは小さく首を振る。日付はおろか、時間の表示さえ象形文字を溶かしたような不気味な記号に置き換わってしまっていた。
前回訪れた時もこの地は夜だった。
ひょっとすると昼夜という概念そのものが欠落しているのかもしれない。まるで名状しがたい暗黒に支配された地球を暗示しているようだ。
「交代で仮眠でも取ろうか?」
話し合いの結果、はじめに月山さんと前内で休んでもらうことにした。
「じゃあニジュウ、お言葉に甘えて」
「ちょっと休んだらすぐ代わるから」
「ごゆっくり。【夢の国】へ行けたらフェリスによろしくな」
「あっはは。面白いねニジュウ。会えたら伝えておくよ」
「フェリスちゃんなら脱出方法知ってるかもね」
冗談を言い終えた後、しばらくして二人の寝息が聞こえてきた。
こんな時、自分でも忘れていたアイテムがあるかもしれないと、煤を払って荷物入れの手提げを開ける。
実習でまとめたノートや参考書、件の黄色い本、使用済みのフェリスの札、蜂蜜酒が入っていた空っぽの褐色瓶、鳴らない石笛……。はぁと溜息をつき、静かに手提げを脇に置いた。
ハリ湖から滲み出る旧支配者の気配がゆっくりと忍び寄ってくる感覚がして、両肩がブルッと震えた。
*
前内光生と月山ひかるは【深き眠りの門】の前に立っている。
「冗談って、言ってみるもんだね」
興奮で我を忘れている前内の横で、ひかるは今後のプランを練り始めた。
「とにかく、フェリスちゃんに会おう」
ひかるが【夢の国】を訪れるのはこれが二回目である。
【深き眠りの門】は個人単位で存在する。これにより常人でも【夢の国】を訪れることは可能だが、その確率は宝くじ一等が連続十回当選するよりも低い確率だ。しかし丸瀬丸雄らはフェリスに頼み、特別にひかると夏美の門を開いてもらったのだ。これはフェリスの知り合いであるスペニャリストの功績だ。ちなみにこの行いが上司にバレた彼は始末書と缶詰返納の刑を食らった。
「前々回のように眠らされているわけじゃないし、寝床も最悪だから一時間ってところかな」
前内は枕が変わると眠れない性質だ。彼が実習旅行で枕を持参していたことを思い出したひかるはくすりと笑う。
「うちの方が長居できそう!」
「羨ましい限りだよ」
「無神経だって思ってるでしょ?」
「滅相もございませんとも」
頬を膨らませたひかるは、【深き眠りの門】へと向かう前内の背中を追った。




