地球の息吹
「チェックメイトだと? 笑わせる。たかが人間の貴様らに何が出来る?」
吹き荒れる寒波はまるで剃刀だ。
頬から出血していないことが不思議にすら思える。入院服の隙間から容赦なく冷気が吹き込み、既に全身は硬直している。前内も札を持つ腕が震え、ショートパンツにレギンス姿の青地さん以上に、ロングスカート姿の月山さんには耐え難い冷気だろう。
「前内くん! 本当に平気なの? ただのお札にしか見えないけど!」
月山さんは薄っすらと霜が覆い始めた睫毛をしきりに動かし、前内が持つ札を見る。
「安心して。僕らの手助けをしてくれる……はず」
「さすがにあれはブン投げられないしなあ」と青地さんがガックリして白い息を吐く。
イタクァは壁際で身を寄せ合う俺たちをあざ笑うように、一歩ずつ間合いを詰めてきた。背中が壁に当たり、冷えた水滴が背中を伝う。
若干の躊躇の後、前内は札を掲げ、フェリスから聞いていた文言を唱える。
「偉大なる神の遣いニャルラトテップに仕える従者よ、その十四番目の力を我に与えたまえ。我が声に応えたまえ」
言い終えた瞬間、病室に亀裂が走るような音が響いた。はじめは張った氷が割れる音かと思ったら、見事に予想は裏切られた。
それは迫りくるイタクァと俺たちの間の空間が割れる音だった。
亀裂は徐々に広がり、隙間を縫って流れ込んでくるものがあった。
冷気とは別物の、ひどく禍々しい空気だ。
異次元から滴り落ちて地面を抉り、この世界の存在そのものを根底から覆さんとする、それは刺々しい悪意に満ちている。
別れ際のフェリスのセリフが脳内をグルグル駆け巡る。
『絶体絶命のときに使え。いいか、絶体絶命のときだぞ? ニャルラ様も十四番目は使いたがらないんだ』
その理由を問うと、フェリスはまるでヒソヒソ話をするように小声で続けた。
『十四番目はニャルラ様というより、アザトース総帥の従者なんだ』
今、空間の割れ目から顔を覗かせたものがある。
それは見たことがあった。小学生の時、大変お世話になった。
それは縦笛の先端だ。
それを掴む腕も同時に空間から零れ出る。それはクルクルと縦笛に巻き付いている。吸盤が見え隠れするそれは蛸の腕に似ている。
やがて亀裂が一気に広がり、縦笛が完全にこちらの世界へ躍り出た。しかも二本ある。どちらにもタコを思わせる長い腕が絡みついている。
持ち主の全身も、間もなく亀裂から零れ落ちるように姿を現した。
タコのような頭には一切目や鼻などの付属物はなく、縦笛の吹き口は頭にめり込んでいる。八本を優に超える数の脚が床にビッチリ張り付き、痙攣するように上体を起こす。ギュピイィ、ギュピイィというか細い鳴き声が鼓膜を撫でる。
現れたニャルラトテップの十四番目の従者にして【外なる神】の総帥アザトースの従者は、自らの正面で仁王立ちするイタクァを敵と察したのか、縦笛の先端を向ける。
直後、二本の笛から不気味な音が奏でられる。
混沌の彼方に突き落とされたような浮遊感が生存本能をかき乱し、狂った音色が脳内回路を根こそぎ焼き尽くす。視界の端で黒点がちらつき始めた。
「グヌゥ……アザトースの手先か。なんと下劣なものよなあ」
頬に水滴が当たり見上げると、天井の霜はどんどん解けていた。沸騰するエネルギーの片鱗が空間から流れ込んでいるのだ。
それは言わば――アザトースの息吹。
全ての宇宙の支配者にして全次元の彼方に君臨する魔王アザトースのそれは一部分――ほんの一部分の顕現に過ぎないというのに。
「もう僕らに出来ることなんかない」
垂れ落ちる水滴で前髪を濡らした前内は力なく腰から崩れ落ちる。
「フェリスに後で文句を言わないとなあ。これほどの存在を押し付けるなんて」
イタクァとアザトース従者は互いに絡まり合うようにして床に倒れている。
イタクァの冷気が従者の脚を氷漬けにするも、沸騰する息吹がみるみる内に溶かし、魔笛の音色と共鳴してイタクァの枝分かれした両腕の数本を千切り取っていく。攫われた数本の腕は割れ目の彼方に吸い込まれる。
あの先に一体何がいるんだろう。
広がり切った空間の切れ目が徐々に小さくなる。それに合わせて魔笛の音色もヒートアップしていく。
アザトースの息吹が最後の嵐を巻き起こす。沸騰する竜巻が爆ぜる。
空間が塞がる間際、絡まり合っていたアザトース従者が引き込まれた。それはやや不格好で、まるで親に手を引かれた子供のように見えた気がした。
直後、亀裂は完全に閉じた。気まぐれな沸騰は唐突に終焉を迎えた。
「見て前内くん! お札が……」
青地さんと手を握り合い、全身を濡らしながら月山さんは札を見つめる。隣の青地さんも頬に張り付いた髪を払い、目を丸くしている。
札の『14』に赤線が斜めに走っていた。
「イタクァは……!?」
全員の視線が床に横たわるイタクァに注がれる。両腕の所々は千切れ、全身の切り傷から鮮血が流れ、赤い水溜りが出来ている。
「…………グゥゥ」
俺たちの期待は見事に外れ、ビクンと身動きしたかと思うとゆっくり上体を起こす。ぎらついた視線に射抜かれ、命の灯が吹き消されたような感覚が全身を麻痺させた。
「ここまでの愚弄……主には悪いが、この手で葬り去らねば気が済まぬっ!」
覚束ない足取りでこちらへの進行を再開する。
もはやこれまで――アザトースの従者をもってしてもイタクァを止められなかったのだ。自分の非力さを呪うことしか出来ないまま、どこか他人事のように唖然としていた。
「…………ガハッ!?」
行進が不意に止まった。
これが噂に聞く走馬灯か――しかしイタクァは跪き、右腕を押さえている。血に塗れた黒い皮膚に大きな歯型が浮かんでいた。まるで獰猛な獣に噛みつかれた跡みたいだ。アザトースの従者だろうか……。
「いやニジュウ、アザトースの従者に牙はなかったはずだよ」
じゃあ一体――思考の渦をかき消すようにイタクァが叫ぶ。
「おのれビヤーキーか! ハスターの眷属たる我を食らうとは何たる冒涜!」
ビヤーキー?
「――あの子、やるじゃない」
そのとき、背後から声が響いた。窓の向こうに見知った顔が浮かんでいる。
「あっ! 広野先生!」
霜が解けて視界が開けた窓越しに広野先生が立っていた。いつも結っている髪は下ろされ、白衣には赤と薄い黒の斑点が散りばめられている。
急いで月山さんが霜塗れのロックを外す。夜風が吹き込み、現実の香りで肺が満たされた。
「女性をそんなにジロジロ見ていると嫌われるわよ?」
「す、すみません。つい――」
慌てて視線を逸らし、広野先生の研究室での出来事をかいつまんで聞いた。
「そんなことが……」
連絡がもう少し遅かったら全員氷漬けになっていただろう。前内はイタクァが苦しむ理由を問う。
「あの子の牙には毒があるの。獲物を徐々に弱らせる遅効性の毒がね」
「そういえば……」
カルコサから俺たちを助けてくれた後、そう語っていたことを思い出す。前内と月山さんは意識を失っていたから、聞いたのは俺だけだったが。
「オーケー! それなら今しかない! 青地さん、いけるかい?」
青地さんは不安が残る表情ながら力強く頷いた。事情を把握した広野先生が窓から室内に入る。
「そういうことならサポートするわ。夏美ちゃん、やってごらんなさい」
「は、はいっ! 先生!」
弱ったイタクァを俺と前内、月山さんで押さえつける。
毒が回っているとはいえ余力は凄まじく、せいぜい五分が限界といったところ。青地さんは広野先生に補助してもらいながら、一動作ごとの確認を怠らず、先程まで俺と前内に使われていた麻酔薬の点滴をイタクァの腕に注射した。
「……グゥ、お、おの、れ……」
抵抗を続けていたイタクァから力が徐々に抜けていくのを全身で感じた。
アザトースの従者との死闘で傷ついた体にビヤーキーの毒が回り、最後は一般的な麻酔薬の力の前に、ついにひれ伏した。
完全に抵抗がなくなったことを確認し、ようやく長い息を吐き出す。
「こいつは【夢の国】に行ったのか?」
「恐らくね。あとのことはフェリスらに任せよう。温かいココアでも飲みたい気分だね」
病室入口の氷の壁が解け、看護師や警察の人がなだれ込んできたときには、イタクァは横大路教授の姿に戻っていた。
*
先程までの出来事を説明するも全く聞き入れてくれなかった。
唯一の希望は、部屋を覗いた看護師が『この世のものとは思えない巨人を見た』と証言してくれたことだった。しかし疑念を晴らすにはいくらか力不足で、俺たちはそのまま連行され、個別で事情聴取される羽目になった。
終わったのは二十二時を過ぎた頃だった。
俺の正面に座った捜査官にありのままを話したが『それは神話世界の話だろう?』の一点張りだった。信じられないだろうがそれが事実なのだ。記録担当者もパソコンから顔を背け、こちらを睨む有様だった。
横大路教授の犯行であることも当然立証できる筈もなく、本人の意識が戻るのを待つしかないとのこと。いつ戻るかはフェリスら次第だろうが。
中でも青地さんはこっぴどく絞られたという。いくら医学部生とはいえ、無断で麻酔薬を使用することは許されていない。『突然暴れ出して、仕方なく……』と苦し紛れながらも事実を話し、広野先生が指示したと証言したことで、厳重注意で済んだとのこと。
広野先生は監督責任を問われ、学内での立場や今後に悪影響が出ることは避けられないとのことだったが、お得意の魔術で上手くやり過ごしたらしい。先生曰く『こういう展開には慣れているから』とのこと。蛇人間なりの処世術があるらしい。
事情聴取の終盤、慌てた様子で警察官が部屋に入ってきて、捜査官に耳打ちした。どうやらキャンパス内から新たな死体が見つかったらしい。恐らく俺と前内が目撃したあの十字架の死体だ。関連を問われ、首を振り続けた。
自宅に帰ったのは二十三時過ぎだった。シャワーを浴びて適当に腹を満たし、床につくと再び【夢の国】への階段が目の前に現れた。コツを掴んだらしい。
「奇遇だねニジュウ、君もか」
示し合わせたように姿を現した前内と歩を進め、【炎の神殿】に辿り着いた時、二人の神官と話すフェリスを見つける。
「オマエら! お手柄だぜ!」
陽気な声を漏らし、勢いよくジャンプしたフェリスとハイタッチする。
フェリスによるとイタクァこと横大路教授は警護部隊に身柄を確保されたという。
「ニャルラ様も一安心だ。チキュウにいる化身様にもよろしく伝えニャイとな!」
どうやら地球にもニャルラトテップはいるらしい。果たしてどんな人だろうか。
「それならちょうどいい。お札の感想も伝えないとね」
「マジか! 本当に使ったのか!?」
「危うく死にかけたけどな」
「オマエら度胸あんな! 見直したぜ。あれはニャルラ様がアザトース総帥から預かった従者で『借りつくりたくないんだよね』って仰るからボクが持っていたんだ」
【外なる神】たちも色々大変みたいだ。
横大路教授は今後みっちり絞られるらしい。フェリス曰く「あいつらの取り調べは拷問並に長いからな」とのこと。現実に戻れるのはかなり先になりそうだ。
しばらく雑談をしてから階段を引き返した。別れ際、今度こそ観光しに来ると伝えると「チキュウのお土産よろしくな!」とちゃっかりチップを要求するフェリスだった。
「迷える子羊たちよ。【夢の国】はいつでもあなた方を歓迎します」
「がっはは! 寝すぎには要注意だぞっ!」
二人の神官、ナシュトとカマン=ターの姿が周囲を囲む炎により、陽炎のように揺らめいた。
*
「前内くん、これ……」
昨日の出来事が嘘だったかのような快晴の下、食堂へ向かう道中で月山さんは前内のジャケットを取り出す。綺麗に畳まれ、アイロンがけされているようだ。
「すごく暖かかったよ」
照れくさそうに受け取る前内。すぐに長袖の上から羽織る。
「ほんとだ。あったかいね」
俺も何か預けておけば良かったと、今更悔いる。
「丸瀬くんも本当に無事で良かった」
「生きているのが不思議な感じだよ」
神話世界と二度も遭遇し、よく生きていられたものだ。
大きく深呼吸をする。冷たい風が内側を満たしたくさんの酸素が全身へ運ばれていく。
これが全てなんだ。邪神がいようが次元を超えた存在がいようが関係ない。ヒトに与えられた穢されることのない刹那を思う力だ。
「そういえば【夢の国】ってどんなところ?」
興味津々な月山さんに話して聞かせた。
荘厳な建物が並ぶセレファイスの光景を想像するように、彼女は目を閉じて聞き入っていた。フェリスについて「ひょうきんな猫ちゃんなのね」とくすりと笑った。
こちらに帰還するとき【深き眠りの門】が開かなかったときは驚いた。慌てた様子で駆け付けたフェリスに現実世界で恐らく眠らされていることを伝え、知り合いのスペニャリストに応援を頼み、何とかこじ開けることに成功したのだ。
スペニャリストによると、現実で深く眠れば眠るほど帰還しにくくなるとのこと。強制的に眠らされていたのでその苦労が飛躍的に跳ね上がったのだ。
「青地さんの歓迎会も兼ねて、今度一緒に行こう」
「わあいいわね。なつみんも猫好きなの。猫の町に行ってみたいなあ」
風に靡いた黒髪から、仄かな香りが漂う。アザトースの息吹以上の嵐が内側で巻き起こるも、鼓動はさらにヒートアップしていく。
食堂近くで、こちらに駆けてくる青地さんの姿があった。疲労の色はなく、いつも以上の屈託のない笑みを浮かべ駆けてくる。
「【夢の国】観光の前にお疲れ様会しないとね!」
「いいね!」
久しぶりに飲みたい気分だ。
「い、いいけど、これって、もしかして合コ――」
戸惑う前内に月山さんが笑みを浮かべる。
「細かいこと気にしない気にしない! なつみ~ん!」
月山さんと青地さんは手を握り合い、談笑を始める。
可愛いらしい二人をぼうっと眺める前内の肩を叩く。
「青地さん、可愛いよな」
「なななっ!?」
顔を真っ赤にした前内ホームズが、慌てて視線を彷徨わす。勢い余ってずり落ちそうになった眼鏡を押さえる。
「ほら二人とも! 行こう! 席なくなっちゃうよ」
月山さんと青地さんの背中が離れていく。
「ニジュウ、君も人のこと言えないじゃないか」
「う、うるせえ! アイロンがけしてもらいやがって!」
火照った体は、イタクァの冷気をもってしても冷めそうになかった。




