ショータイムは突然に
施錠時間を過ぎ、学生の声が消えた十七時十分。日も傾きかけた三洲華大学は徐々に薄闇に包まれようとしている。
研究棟Aの広野春子の研究室内で、主である春子が来客と向き合っていた。
「何か御用でしょうか? 生憎、手が離せないので後にして頂けると助かるのですけど」
来客は一切表情を変えず、許可もなく一歩室内に踏み込む。その瞬間、春子は言いようのない不安感が込み上げるのを感じた。
蛇人間になってからあまり感じなくなった感覚だ。なおも踏み込む来客に向けて、毅然と言い放つ。
「学生らの重要な実験の最中です。実験結果にも影響しますので、温度変化を伴う移動は慎んでほしいですね」
鋭い視線を向ける春子だが、来客は「ふっふっふ」と不気味な笑みを浮かべるのみ。
「重要な実験か。天井のアレの無断飼育以上に重要な実験があるとは思えないがな」
天井に張り付いたビヤーキーは鋭い声で威嚇する姿勢をより顕著にした。
ビヤーキーから視線を春子に戻し、なおも執拗に迫る。
「ここに二人の女学生がいると思うのだが」
「さあ? 何故そう思われるのですか?」
研究室奥に身を潜めた月山ひかると青地夏美は両肩をビクッと震わせた。
「御託はいい。貴様もろとも氷漬けにしてハスターの前に並べても良いのだぞ?」
招かれざる来客――イタクァは本性を現した。
仮の姿を瞬時に裏返し、背丈が二メートルを超える巨人の姿を曝け出す。
枝分かれした両腕が天井のビヤーキーに絡みつく。首が絞まり、苦悶の悲鳴を上げたビヤーキーが床に落下した衝撃で棚が倒れて、試薬の瓶が粉々に砕け散る。飛散した試薬を浴びそうになる春子だったが、咄嗟に広げられたビヤーキーの翼が盾となり難を逃れる。
もつれ合った拍子にビヤーキーの棘がイタクァの腕に突き刺さるが、たちまち凍り付いて単なる氷柱と化した。
ゾッとするほどの極寒の風が吹き荒れる。研究室は一瞬にして氷河期を体現する冷気の渦に突き落とされた。
「ハスターに歯向かった報いを受けよ!」
イタクァはなおも力を緩めず、ギリギリとビヤーキーの首を絞め続ける。
その時、経験したことのない冷気に研究室奥から「へっくしゅ!」という呑気なクシャミが聞こえた。「ふっ、正直でなによりだ」と奥を見やるイタクァ。
「ここは任せてっ!」
春子は蛇人間となり、ビヤーキーに寄り添って冷気に耐えながら、地球の言語に変換困難な言語系の呪文を唱え始める。
すぐさま鼻を押さえたひかると、彼女の肩を抱く夏美が顔を出す。
「先生!」
裏口に向かう夏美と春子の視線が交差する。
「【夢の国】の感想、しっかり聞いておいてね」
その刹那、ビヤーキーの一際甲高い声が響く。
最後の力を振り絞ったビヤーキーが反撃とばかりにイタクァの両腕を締め上げたのだ。
天井に張り巡らされた霜が一部解け、氷柱が床に向かって伸びる幻想的な空間が演出されている。しかしそれは刹那の空間で、絡まり合うイタクァとビヤーキーにより次々と床に落下している。
「急ごう! ひかるん!」
「でも先生たちが!」
「私たちが氷漬けになったら誰が丸瀬さん達に伝えるの!?」
夏美の言葉に胸を打たれたひかるは凍える足を奮い立たせ、凍てつく空気に支配された研究室を命からがら後にした。裏口から出る間際、緊急避難用シューズが目についたがそれを手に取る余裕は皆無だった。
*
無人と化したキャンパスを走るひかると夏美の姿がある。
研究棟Aを出るとき、玄関の下駄箱に使われていないスリッパがあったので適当に拝借した。靴下一枚でゴツゴツしたアスファルトを走るよりはいくらかマシである。
危機が少し去り、研究室に置いてきてしまったお気に入りのスニーカーを悔やんだ。しかも動きにくいスリッパに加えロングスカートが拍車をかけた。夏美のショートパンツとレギンス姿が羨ましい限りである。
「丸瀬さん達が危ない。狙われたら逃げられないもん」
二人は今もベッドの上――眠った人間を殺めるなど赤子の手をひねるようなものだ。
二人は附属病院に向けて舵を切った。南門に近い研究棟Aから附属病院へ行くには東門に向かうのが一番手っ取り早い。
東門近くの食堂の脇に差し掛かった時、数人の若い男たちに行く手を阻まれた。
どの者も血走った眼をひかるたちに向けている。正気じゃないのは明らかだ。
「お前らがハスター様に歯向かう不届き者の仲間か」
全員フードを被っているので表情は翳って見づらい。
「残念だけど急いでいるの。怪我したくなかったらそこをどいて」
強気な眼差しで集団を睨む夏美は、ひかるを一歩後退させた。まるで姫を守る騎士のようだったが、自分たちより小柄な騎士の姿に集団からドッと高笑いが上がる。
「女の子はママゴトでもしてろっての」
その一言が夏美の闘争心に火を点ける結果になったことを、彼らはまだ知る由もなかった。
「あらそう。そんなか弱い女の子から忠告――」
夏美はヘアゴムで髪を結い、長袖のレディースの裾をまくり上げる。両足に引っ掛けたスリッパを脱ぎ散らかし、準備運動のように軽くその場でジャンプする。靴下の下に砂利が入り込むも、表情を変えずに両手を前に構える。
「人を見かけで判断すると痛い目みるよ」
夏美に促され、さらに一歩後退するひかる。
夏美が柔道部に所属していることは知っていたけど、実際に取り組みをしている姿を見るのは初めてだ。読書サークルでの知的な印象とは一転、まるでハンターのように次の出方を窺う彼女のギャップに、言いようのない安心感が満ちていく。
「てめえなんざ、イタクァ様の手を煩わせる必要もねえ!」
崇拝者の一人がファイティングポーズからいきなり右拳を突き出した。
しかしそれは思い切り空を切る。難なく初撃を躱した夏美は姿勢を低く保って懐に飛び込み、迷わず相手の服の裾と胸倉を掴む。結果、拳を突き出してから数秒後にはそれなりの体格を誇っていた相手は情けなく地面に倒れ、醜態を曝すことになった。
「か弱そうな女の子にブン投げられた気分はどう?」と夏美。「もう終わり? ウォーミングアップにもならないよ」
「てめえ! ナメやがって!」
怒りに我を忘れた崇拝者らが夏美との間合いを一歩ずつ詰め始める。
*
広野春子の研究室はさながら嵐が通り過ぎたような有様である。
壁にかかった時計は十七時二十分で時を刻むのを止めていた。
棚は倒れ、試薬で濡れた参考書や書類は凍り付き、実験器具やガラス片が床に散乱している。氷柱は床からも生え、まるで氷の花が咲き誇っているように見える。
幻想的にも見える景色の中で、巨大な鳥のような化物が倒れていた。
広野が使役していたビヤーキーである。
長い首は途中で九十度近くに捻じ曲がり、背中から零れたらしい棘がボロボロの翼に突き刺さっている。だらしなく空いた口から覗く牙に、ヒトのものと思しき血液が付着している。左胸に鋭利な氷柱が突き刺さり、流れ出た薄紫色の血液は既に凍り付いている。
イタクァは元の『来客』の姿に戻り、右腕に残るビヤーキーの牙の跡を見つめ、チッと舌打ちをした。
まさか死に損ないの種族である蛇人間がいるとは誤算だった。そうと知れていれば小癪な魔術対策が出来たかもしれないのに。
男二人を捕らえたとき、走り去った靴音は一人分だったので正確にはもう一方の女は無関係なのだが、もはやどうでもいい。
それにしても、奴らの連れの女――確か月山といったか――が突然講義に現れ、出席印のことを尋ねてきたときは驚いた。もしかすると正体にも気づいているかもしれないが、下僕たちがそろそろ捕らえている頃だろう。口を塞ぐことなど造作もない。
ビヤーキーを葬った今、逃亡した春子の戦力を大きく削いだと確信したイタクァはターゲットを【夢の国】に連行した丸瀬丸雄と前内光生にシフトした。
元々はあちらで生贄に捧げるつもりで捕らえ、ついでに逃げた者をおびき出す餌に使えればと思っていた。ちょうどあちらでも手を焼いていたところだ。エサとしての役目を終えた今、一刻も早くハスターへの供物にせねば気が済まぬ。
イタクァは憤怒の炎で滾っていた。
全ては【名状しがたきもの】にして【黄衣の王】、ハスターのために。
*
「見て! これ」
ハスター崇拝者らの襲撃に思った以上に時間を取られ、月山ひかると青地夏美が附属病院へ足を踏み入れたのは、十八時近くのことだった。
附属病院に足を踏み入れたひかると夏美は、静まり返った廊下に点々と残る霜の足跡を見た。
「きっと丸瀬さんたちの病床へ向かったんだわ!」
既に日は傾き、窓の外は漆黒の闇に覆われている。近隣から猫や犬たちの鳴き声が響く。まるで何かを警戒するような強張った声音だ。
先程の夏美の動きがひかるの脳裏でリプレイする。
機敏さと大胆さが同居した研ぎ澄まされた動きだった。知っている技は背負い投げしかなかった。時折肘鉄を食らわせていたが、これについて夏美は『邪道もたまにはいいかも』と一切悪びれる様子がなかった。
春子の研究室で目撃したイタクァの正体。ひかるは未だに信じられないでいる。
――まさかあの人が犯人だったなんて。
入院病棟のナーススステーションには人気がなく、パソコンモニターが粛々と点灯し続けている。薄暗い廊下にスリッパの呑気な音のみが響く。
病室へ入ろうとしたとき、中から男性同士の話し声が聞こえた。
「ほう? 私がイタクァだと? 何を根拠にそのような戯言を」
病室では意識を取り戻した丸瀬丸雄と前内光生が入院服姿で一人の男と向かい合っていた。顔を覗かせたひかると夏美の姿を認め、前内は「やあ」と手を振った。丸瀬もそれに倣う。元気そうな二人の姿にひかるはようやく胸のつっかえが取れた気がして、涙を堪えるのに必死だった。
「見物客も揃ったことですし、早速始めましょうか。現実世界と【夢の国】を跨いだ連続凍死事件の真相解明をね」
前内が静かに口を開き、室内は凍り付いたように静まり返った。




