真夜中の氷巨人
某日未明の深夜。
静まり返った三洲華大学の構内を満月が照らしている。夜の散歩を楽しんでいた野良猫が突然立ち止まり、激しく威嚇して立ち去った。その先には暗澹たる暗闇が広がるのみである。
窓から月明かりが差し込み、怪しげに揺れた木の影を廊下に投影している。
無人のはずの講義棟A内に動く影があった。その者の靴音が甲高く反響し、余韻が薄闇に溶けていく。
「ううぅ、寒い……寒い……」
その者の体はいくつもの氷の粒に覆われている。まるで冷凍庫から這い出てきたかのようだ。次第に動きが鈍くなり、ついに倒れ込んでしまった。身体はなおも小刻みに震え、胎児のように丸く縮こまっている。冷気は確実にその者を蝕んでいる。
「クトゥルフ……様……どうか我に……今一度の……恩恵を」
唐突に吐き出される邪神の名。しかもそれは【名状しがたきもの】ハスターとは敵対する邪神の名。
「ここがハスター様の膝元だと知っての所業か」
闇を切り裂く声がする。ハスターを崇拝する者らにとって、その名は忌々しい害悪以外の何物でもない。
「あ……ああ……」
凍える者は薄れる意識の中でしかと見た。
突然、ヌッと現れた大きな影が自らに覆いかぶさる光景を――。
それはまるで巨人だ。
背丈にして二メートル弱。二足二腕とヒトの形はとっているものの、剛毛に覆われた全身、幾本に枝分かれした両腕と、明らかにヒトとはかけ離れた特徴を有している。
巨人の足元に霜が広がる。蜘蛛の巣状に床が凍り付き、所々ひび割れを発生させながら進行し、やがてクトゥルフ崇拝者の両脚をとらえる。そこで留まるような慈悲は持ち合わせていないようで、
「が……が……」
冷気が全身に浸透し、くぐもった声すら消える。今や靴の先端から髪の先まで霜に覆われ、急速冷凍された肉塊と化している。
巨人はゆっくりと一歩を踏み出す。歩く度に霜が砕けるバリッという神経を逆撫でするような音が無人の構内に響く。近くの窓は白く染まり、外の景色は全く見えない。
「クトゥルフに伝えたまえ――」
凍り付いた肉塊に近づき、独り言のように続ける。
「いつの日かその醜い触毛を一本残らずむしり取ってやると!」
巨人の名は――イタクァ。
ハスターに仕える大気の神で、カナダの先住民の間では氷雪の夜に森林地帯の奥を徘徊する精霊【ウェンディゴ】として知られている。




