湖底にて蠢く旧支配者
クトゥルフ神話を題材にしたミステリーです。
十五万字程度の長い作品になりますが、少しずつ掲載していきたいと思います。
原作がもつ悍ましさとミステリーのカタルシスが味わえれば感無量です!
どうぞお楽しみください。
震える手を抑えながらペンを走らせている。
文字はうねり狂い、まるで俺をあざ笑っているかのようだ。今でこそジャケットの胸ポケットに差しておいたペンを握り、コンビニでスナック菓子を買った時のレシートを裏返して震える文字を書けるようになったが、ここに導かれた直後はそれすら叶わなかった。
古い寂れた都市だ。
建物は規則正しく屹立しているが、どれも外壁は崩れ、内装があらわになり今にも崩れそうなものもある。大きな岩を積み重ねた独特の造りの建物からは仄かな明かりが漏れ、住民のものらしき低いくぐもった声が風に運ばれてくる。
一陣の強い風が頬を薙いだ。まるで剃刀で切られたような感覚が走るが出血はなく、ただじっとりとした汗が張り付くのみである。
風の行方を追うように多くの人々の姿がある。全員、同年代な気がする。どうやら俺と同じ三洲華大学の学生が多いのかもしれない。
同じ講義を受けている見知った顔をいくつか見つけたのだ。
視力が悪いのか、いつも目を細めて板書している地味な見た目の男や、講義室の後ろの席でいつも騒いでいる奴ら、最前列に陣取りボイスレコーダーを置いている奴などだ。
そこで、何故この地に導かれたのか疑問に思った。
しかしどんなに頭を捻っても解答は導けなかった。
ただ、向かうべき場所がある……その衝動に従って自然と足が動くのみである。
薄暗い都市に仄かな光が差し込む。光の出所を探すように視線を上げると、頭上では月が瞬いている。
大きな月だ。まるで天を覆うようにと形容したのは俺だけではあるまい。
次の瞬間奇妙なことに、月は掌に収まるほどに小さくなり、一際天に向かってせり出している尖塔の手前を我が物顔で横切ったのだ。
その余りにも奇天烈な光景に、とうとう――ああ、ついにペンを落としてしまった。拾わねば……ヒロワ……。
――そのまま進みたまえ。
近くから聞こえたのか、頭の中でしたのか、もはやわからない。
行進していた大勢の学生たちが足を止めている。地味な奴も、騒がしい奴らも、ボイスレコーダーマンも何故止まっている? 早く進め……そのまま……。
その時、ヌラリと現れ出でたものがある。
尖塔に迫る勢いで伸びたそれは、幾粒もの水飛沫をばらまき、周囲に一瞬にして雨を降らした。たちまち全身水だるまと化すが、神々しいまでのその姿に思わず口が半開きになっていた。そこからぬめり気のある粘着質な水が侵入し、やがて胃の内側に巣くう。
学生たちの合間を縫った先、巨大な水面が見える。
大きな湖だ。
水面は暗く、濁っているように見える。時折、ピチャピチャと水が跳ねる音が響く。それは魚のようだが、何度目かの音を最後にピタリと音は止んだ。ゆっくりと波紋が広がっていく。胃の奥が、呼応するようにドクンと脈打った。
――《沈む谷》に抱かれた選ばれし三洲華大学の者たちよ。
ああ、また聞こえた。
――今宵、その血肉は牡牛座のアルデバランへと奉納されるのだ。光栄に思いたまえ。
《沈む谷》――そうだ。あの本だ。あの本さえ読まなければ……いや、読めたからこそ俺はここにコレタノデハナイカ? 違う! 俺はただ、勧められただけで……それで――。
――すべては【名状しがたきもの】のために。
胃の中で小さな暗黒が芽吹く感覚がした。