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ガス抜き

作者: N(えぬ)

 片瀬は仕事帰りに「BAR VENT」に寄った。このBARは、マスター始め、あまり「好んで会話を弾ませる人」が少ない。静かな古い店だ。

 彼が店に入ると、カウンター席の真ん中辺りに、見たような人の姿があった。岡田という男だった。彼とはもうずいぶん会っていない。恐らく2年は。

 彼とはこの店で、マスターを介して知り合って、時々顔を合わせて軽い話をした覚えがあった。けれどきょうは、久しぶりの再会で気持ちが弾むという感じでは無い。「一人で軽く飲んで。マスターと少しばかりとりとめの無い話でもして帰りたい」そう言う気分の日だった。


 ところが店に入って早々、ドアを開けたときの「カラン~」と言う音にマスターだけで無く岡田も反応して振り返り、片瀬を見つけてしまっていた。

「おお、久しぶりですねぇ」

岡田は声は細めているがいかにも「話し相手が出来た」と言わんばかりで「自分だけ再会を喜んでいる」。

 片瀬は「ああ、失敗」と、こころの中でこの店に寄ったのを悔やんだ。それでも顔だけは「意外」と言う笑いを作ってやった。

 片瀬は岡田にあいさつだけして、間の席を二つ三つ空けて座ろうとしたのだが、なぜか岡田は席を移動して彼の隣に座ってしまった。これに片瀬があまりいい顔をしなかったことにマスターが気づいたようで、目線をくれたが、片瀬は「まあ、いいよ」と目を返してそのままになった。


 岡田というこの男との話は、思い返してもさほどおもしろかった記憶が無い。確か自営業で、輸入雑貨か何か扱う店をやっていると、一方的に話された記憶がある。「そうだそうだ。思い出した。この人は、尋ねなくても、自分の身の回りのことやプライベートを話してくれる人だ」片瀬は、さらに気が重くなった。「一杯だけ飲んで、サッサと帰ろう」そう思った。


 少し話して、岡田も別に片瀬に会いたかったと言うわけでは無いのがわかった。彼は仕事の都合で、むかしと休日やら仕事の終わり時間が変わり、それが片瀬とここで顔を見なくなった原因らしかった。それはなんだか片瀬をホッとさせた。旧交を温めるような関係でも無いが、向こうが勝手にそう思っていないとは限らない。特に酒が入ると突然「友好的になる」人は多い。「これで、すんなり店を出られる」片瀬はそう思った。

「きょうは、バランタインでいいですか?」

 マスターが片瀬に聞く。

「ああ。それで」

 片瀬はもともとそんなに酒を飲むほうでは無い。だから量はいらない。「甘めの香りがいいのがイイ」と言うのがいつもの片瀬の注文で、スモーキーな香りとか、シングルモルトの重厚な味と香りとか、そういうのは願い下げ。特に銘柄の指定は無いのだが、よく出てくるのは果物の香りがするようなブレンドウィスキーや、チョコレートのような香りのブランデーとかだ。彼の好みに合わせて、マスターが選んで出してくれる。飲み方はほぼ、ストレートかロック。それを、香りを楽しみながらほんの少しだけ飲んで考え事をしたり、マスターとだけ話したりする。マスターとは「何の利害も無い」話が出来るから、それがいい。片瀬が仕事の愚痴を言ってもマスターは「そういうことってありますねえ」なんて、適当に吸い込んでポイッと空にでも打ち上げるように返事をする。それでいい。


 片瀬は、きょうは仕事で少し疲れていたし、気持ちもなんだかモヤモヤしていた。中間管理職というのは、そう言うものが多いかも知れない。それで、この店でちょっと何か飲んで話して、安らいで帰りたかったのだ。だが、偶然のいたずらで岡田という、こんな日には不向きな人間と再会してしまった。

 岡田は久しぶりに会った片瀬に、求めなくても近況を報告してくれた。会わない2年の間に2店目の、少しおもむきの異なる輸入雑貨を扱う店をオープンさせたのだという。そのときの苦労話も聞かされた。まあ、それはそれで結構おもしろかったからよかった。「他人の退屈な成功話」は本当に疲れる。愛想笑いをして褒め称えてやらないとイケないからだ。


 岡田は、新しい店を出すのに従業員の教育をどのようにしたかとか、そんな話しもした。ここで片瀬は失敗した。酒が入ったし、岡田の話が思いのほかおもしろかったので、自分の仕事のことを話してしまったのだ。

「僕の部下に一人、難しいのがいましてね。どう教えても、どう導こうとしても、うまくいい方向へ行ってくれないんです」

 片瀬がこういう話をするとき、もしマスターなら「そうですね。人は難しいですよ」とか「そのうちに、ぐるっと回っていい方向で止まるんじゃ無いですか」とか、するりと簡単に受け取って、決して「力を込めた返球」はしてこない。片瀬は、マスターにするようなつもりで、こうポロッと口に出したのが切っ掛けになり、ここから岡田の、

「それはね、やり方が悪いんですよきっと。ボクはね、人材育成には自身があるんです。この2年で本当にいろいろわかりました。僕の話を参考にすれば、きっとその部下も、いい部下に変貌しますよ」という、大演説が始まってしまった。


 片瀬は、「ただ愚痴りたかっただけ」で返事を期待していなかったのが、墓穴を掘って、逆に自分が延々と話を聞く側になってしまった。これにまたマスターが片瀬に目で合図を送ってきたが、やはり片瀬はまた目で断った。

 結局閉店近くまで岡田の人材教育論はつづき、最終的に「久しぶりに会ったし、いっぱい話が出来て、うれしかった。楽しかった。ゴメンね、一人で話して。また会いましょうぉ~」と岡田はかなり酔いながらも謝意は忘れなかった。そこはさすがという気がした。そのうえ、「気持ちいいから、ごちそうさせてくださいよ」と片瀬の分まで会計していった。


 岡田は先に一人で店を出て行った。

 彼の背中を見送って、

「ガス抜きに来たつもりが、されちまった」

 片瀬は苦笑いした。マスターも声は出さないが笑っていた。


 もうほかに客はいない。

 片瀬が席を立って出口の扉に立ったときマスターが声を掛けてきた。

「片瀬さん。あなたがBARをやったら、きっといいマスターになれますよ」

 それは冗談なのか本気なのか。片瀬にはわからなかった。

「そう?じゃあ、脱サラしてBARを開いてみようかな。今度いろいろ教えてよ」

 するとマスターが声を上げて笑った。片瀬は半ば本気で言ったのだが、マスターには冗談に聞こえたのか、それともその本気を笑ったのか。


 マスターのあんな笑い声は、初めて聞いた気がする。片瀬はそう思いながら店の扉を押し開けた。外の空気は新鮮だった。




タイトル「ガス抜き」

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