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バイ ミー

作者: Mt.danple

 いじめは、こわい。

 それが僕の小学校の思い出だった。きっかけは些細なもので、当時いじめられていた友達がいたんだ。六年になって引っ越して行っちゃった…そう、瑞生くんだっけ。

 いじめられていても、その子はすごくいい子だったし、だからたぶん誰に対しても優しすぎたのを気に食わない人がいたんだ。

 そんなわけだから、僕はいじめられている彼ともよく遊んでいた。どうしてか、誰にもわからないけれど。彼と遊ぶたびに、僕に声を掛ける友達は減った。彼と遊ぶたびに、僕の周りに人は減った。彼と遊ぶたびに、彼へのいじめは酷くなった。彼と遊ぶたびに、僕もいじめられるようになった。

 そして、小学五年生に上がったある日、彼は学校に来なくなった。


〜〜〜〜〜


 7月の晴れた昼下がり。

 中学二年生を迎えた僕達に大詰めの期末テストが待ち受ける最後の勉強期間のうちの一日。クーラーが効いて涼しい図書室。カーテンの隙間から差し込む日差しが机を灼いている。触ると、古くて茶けた円卓は思ったより熱くって思わず手を引いた。


 勉強はつまらないし、課題はとっとと終わらせた方がいいから図書室に来ているのだけれど、どうも日差しと程よく涼しい部屋とで快適すぎて眠くなってしまう。


 「ね、蒼太。当てていい?今めっちゃ眠いでしょ?」


 でも、ここで寝てしまうと彼女にますます得意げな顔をさせる事になってしまうので、眠気を堪えて彼女に余裕の笑顔を返す。


 「まさか、そんなことあるわけ…ふあぁぁぁ…」


 そんな取り繕った余裕は十秒と持たずに、欠伸が言葉を遮った。案の定ますます得意げになった彼女は上機嫌で僕のワークを覗き込み、まだ4ページもあるじゃん!私はもう残り2ページだよ〜。と威張り、ふふんと、猫のように鼻を鳴らしてみせた。

 満面の笑みの彼女を眠いやら何やらで目を細めて見ながらワークのページに目をやったが、文字列は僕の頭をいっそう機能停止させる。この昼休みにできる学力の補填は、次の時間への布石「睡眠」だけみたいだ。


 ニマニマしたままずっと得意げにこちらを見ている彼女の顔面を最後に僕の司会はブラックアウトして、腕と腕の間に伏せた。


 彼女と僕は不思議な縁で結ばれている。可愛らしくて愛嬌のある彼女が何故、僕のような愛想の悪いつまらぬ男と昼休みをともにしているかと言うと、彼女が望む望まぬは抜きにしていくつかの大きな理由があるのだ。

 まず、彼女と僕は小学校一年生からの友人だということ。絡みのある理由としてはこれで十分だと思うが、まだ弱い。

 そして、彼女は僕の小学六年生のときの友人であること。いじめられていた時も、他のクラスにいた彼女は僕に温かく接してくれた。

 そして…


 『キーンコーンカーンコーン』


 「ほら、予鈴鳴ったよ!次移動教室じゃん!教科書は持ってきてるよね、ほら、早く教室行かなきゃ!ここからじゃ間に合わないよ!」


 嗚呼、短き睡眠よ。

 次の時間の教室は、理科室。つまり実験だ。

 ただ、化学室は“ここのすぐ上なので”少し行きづらい。


 「はい、教科書は持ったげる。さ、突き当りのエレベーターまで押して行けー!」


 言われたとおりに僕は車椅子の持ち手を持って、駆け出す。三つ目の理由は、そう。彼女に足がないこと。そしてそれは生まれつきで、小学校から僕が側にいて、彼女を助けてきた。


 彼女と小学校六年生の時でさえ(いじめられていて友達はほとんどいなかったのだが)仲が良かったのも、低学年のころに家が近いことが分かっていた故に、それからも彼女の母の都合が悪い時にたまに一緒に押して帰ることがあった。という理由が大きい。

 学校では、僕がいなかったら時々彼女の他の友達が運んでいるのも見るけれど、彼女自身ゆっくりではあるが自分で手で押せるからそれほど多くは見ない。

 そんなうちに僕が運ぶものだ、という皆の共通認識のようなものが中学の学年の間で軽く存在するようになってしまったようだ。


 「さぁ〜突っ走れ!エレベーターはすぐそこじゃあ!」


 当の本人は全く気にしていないようだから良いのだが。



 理科室につくと、チャイムはまだ鳴っていなかったが既に多くの生徒が独特の実験机にちらばってがやがややっていた。

 エレベーターまで行って上の階の同じ道を逆走。こんなふうに遅れそうになるくらいには厄介な配置だが、別に僕は窮屈には感じていなかった。なんなら少しなら幸奈と一緒に授業に遅れてしまってもいいやとまで思っていた。


 先生の幸奈への扱いは寛容だし、それに遅れても彼女は僕を責めないことがわかっているから。


 「おう、ソータ。遅いじゃん。ちゃんと勉強してたか?図書室なんか行って賢ぶっちゃってさ?」

 「うるっせ。リョウに関しては勉強すらしてねえだろ。お前と僕は違うんだよ!」

 「へー?本当かねぇ〜?あとで嫁に聞いちゃおうかなぁ?」

 「嫁じゃないわハゲ!」


 おどけたような亮佑に何も考えずにすらすらっと軽口を叩く。そんな気の置けない友達がいる。小学校とは違う。そして僕はそれを幸せだなぁとはいちいち思わない。でも、間違いなく僕は楽しいのだ。


 「ほーん?嫁じゃあないなら彼女かなぁ?どうなのかなぁ?」

 「16ページ」

 「…は?」

 「今回の数学の課題のページ数だ。お前どうせ碌に範囲表も覗いてないだろ。いつもの二倍だぜ二倍」


 そういうとみるみる額まで青ざめていく野球部の顔面を見て、ほくそ笑みながら僕は頬をノートで扇いだ。理科室に冷房はついていない。熱くってしょうがない。


 いじめる側だってずっといじめられる訳ではなく、僕をいじめ始めた張本人は市立の中学にいってしまった。それにほかの取り巻きも、他の小学校からも人が入ってきて人間関係に慎重になった結果、僕のいじめは終わった。それでも、たまに周囲の目は怖くって、解き放たれた感じはしなかった。

 今、幸奈と一番仲がいいのはきっと僕だ。お調子ものの亮佑なんかにおちょくられることもあるけれど、別に僕は不快じゃなかった。彼女には深く感謝をしているし、悪くなんて思うわけがない。

 理科室の扇風機は悠々と、それでいてのんびりと回っている。熱風がたまに頬を撫でるので、汗はかいていなかったのだが、僕はレーヨンのひんやりとしたハンカチで頬を拭った。

 改めて感謝しているなんて考えたら照れくさかった。



 授業が終わると、少し離れた教室に戻らなければいけない。けっきょくそれで休み時間がほとんどなくなってしまうことに、多くの生徒は否定的だったけれど、何気なくたわいないことを誰にも邪魔されずに友達と話せるこの時間が、僕はまあまあ好きだった。


 「なあ、テスト終わったらカラオケ行かねぇ?俺、部活無いのテスト明けの二日だけなんだ」


 帰り際、唐突にそう言い出したのはサッカー部の輝だった。


 「ああ、たしかに。俺も弱小とはいえ普通にあるしなぁ。まあ、陸部は三日目まで休みだろ?体育館裏が使えなくてグラウンドを俺らが占領してるからって」


 僕は陸上部だ。部活の違う僕らの仲がいいのは、飲み物を入れるクーラーが同じものを共有しているから。なんて理由があるけれど、当然グラウンドも共有しているのでこんなことが起こったりする。


 「カラオケかぁ、しばらく行ってないけど。でもなんで急に?」

 「いや、なんつーか。女子に誘われちゃって…でも二人で行くのもなんか早いじゃん…?だから互いに友達連れてくるって言ったんだけど…」

 「へえ、誰?やるじゃん。テルも」

 「クラスの中浦さん。だから、共通の知り合い。ゆなっちと仲いいらしいし、たぶんゆなっちも連れて来られると思うけど…近所だから大丈夫かね?」


 中浦さんと言ったら、クラスでもおしゃべりでお人好しの女子だったか。幸奈を運んでいるのを何回も見ているし、話したこともある。嫌味のない朗らかな子だったけれど、基本的に内弁慶で身内以外とはあまり喋らない輝を気にしているのは少し意外だった。


 「聞いてみる、というか、多分来てくれると思うけどね」

 「そうか、良かった。あと瀬川さんとかくるらしいね。折角だしコウスケも誘っとこうか?」

 「ああ、そしたらあいつ絶対来るもんな。ふふふ、テルも人が悪い」


 コウスケは野球部の友達だったが、世間話に疎い僕の耳にもコウスケが瀬川さんに片想いしているという話は有名だったから、納得がいった。


 ふと時計を見ると、もうチャイムがなる二分前になっている。僕達は急いで教室に走っていった。廊下は風が抜けて、汗ばんだシャツも涼しげに感じられる。廊下の窓から教室を見ると、幸奈が中浦さんと話しながら帰っているのが見えた。ちょっとだけ、来週が楽しみだった。


〜〜〜〜〜


 「おいおい、遅いぞソータ。テストはどうだったよ?」

 「うーん。ぼちぼち。数学はよくできた」


 集合場所になっているカラオケ近くの広場には、もう幸奈と僕以外の全員が集まっている。


 「遅れてごめんね。こんな暑い中で」


 途中、幸奈が自分で行けると言って聞かなかったので、すこしばかりゆっくり行ったからだ。彼女としても、僕だけに歩かせて自分は座って首にかけている扇風機を回しているのがどうにも心苦しかったのだろう。

 ついたときには集合時間五分遅れ。申し訳無さそうに謝る彼女と、汗を流しているみんなを見てすこしだけ心が傷んだ。


 「まあ、しゃあないよ!そんな前にカラオケさ行ってさっさと涼みに行こ!」


 何も気にしていないように、中浦さんは言う。幸いカラオケは歩いて五分もしなかった。


 「はぁ、やっぱり屋内は涼しいのね。ソフトドリンク、持ってくるけど何がいいかしら?」


 瀬川さんがすっと立ち上がって言った。学級委員もしている彼女はとても気が効く。男子からの人気が高いのはそのせいもあるだろう。


 「私は、オレンジジュース」

 「俺はジンジャエール!」

 「俺コーラ」

 「私はメロンソーダで」

 「じゃあ、僕はラムネ」

 「それなら、俺はブラックコーヒーで」


 明らかに普段飲んでいなさそうなブラックコーヒーを頼んだ孝夫にみんなは瀬川さんに聞こえないように苦笑した。暑い中待って汗だくになったことはみんな忘れてしまったようだった。


 「へぇ、中浦さんって歌上手かったんだね!」


 大体全員一曲ずつくらい歌ったころで輝が中浦さんに言った。

 彼女は放送部で、声がきれいで聞き心地が良い。輝も、彼女の歌う少し昔のポップスを柔らかな顔で聞いていた。


 「あはは、ありがとう。次はメジャーな曲にするから一緒に歌わない?」

 「おっけー、何?」


 大部屋に好き勝手に座って、みんな楽しそうにしている。幸奈もすこし引け気味ではあるが、楽しんでいるようだった。


 「おい、リョウ!お前コーラとメロンソーダはまずいだろ!?」

 「いや、結構いけるぞ。コウスケも一口飲むか?」


 灰緑色の液体を自慢げに見せる亮佑にうんざりしていたようだったが、瀬川さんがふふっと笑っているのを見たのか見ていないのか。


 「しゃーねえなぁ。お前の味覚センス!信じてやるよ!」


 そういうなり孝夫は立ち上がった。並々に液体が注がれたコップを受け取り、席に戻ろうとする。


 「あ、私トイレ行ってくるね!」

 その孝夫の動きが幸奈が車椅子の方向を変えるタイミングと、偶然にも一致する。

 その時だった。


 「あっ!やべ」


 カラオケの部屋は、大部屋と言っても机が殆どの面積を占めている。そこで、なみなみ注がれたコップを持って、細い通路を抜ける。

 彼の足元には車椅子のブレーキレバー。死角になっているその棒につまずいて。それだけなら良かった。なみなみに物体Xの注がれたコップは当然物理法則に逆らわない。

 芸術的な角度で中の液体を残しながら孝夫の手を離れたコップは、自然力学に伴う流線形を描いて飛来し、亮佑の頭に激突し、降り掛かった。


 「あっ…」


 灰緑色の液体は彼が出かけるときにいつも好んで着る白Tシャツにくっきりと染みを残していた。

 選曲をしていた輝が慌てて顔を上げる。

 その視線の先は怒り心頭と言った顔をしている亮佑へと向かっていた。


 「お前っ!」

 「ごめん!夏目くん!甲田くん!」


 亮佑がつい声を荒げたのと、幸奈がさっと謝ったのが同時。

 幸奈のほうにみんなが目をやるのがわかった。亮佑はまだ腹を立ててはいるようだったが、びっくりして気まずい顔をした。


 「あ、おお…悪い。ちょっと感情的になってた。トイレで拭いてくる」


 緩やかな動きで立ち上がる亮佑。幸奈がささっと車椅子を引いて道を開けた。

 誰も歌いだそうとしなかった。それどころか、喋りだそうとも誰もしていないようだった。


 「ごめんね…」


 もう一回幸奈が言った。何に対しての謝罪か、車椅子が引っかかったことにだろうか。それなら幸奈はなんにも悪くないじゃないか。そう思えて苦しかった。


 「いや!いいって、いいって。ちょっと牧原さんの場所が悪かったんだって!もうちょっとこっちかこっち寄っといてくれるかな?」

 「あ…うん。分かった。ちょっと私もトイレに行ってくるから、後でそっち行くね」


 幸奈は何も無かったように朗らかに笑って、トイレに立った。


 「いやぁ、大変だなぁ。車椅子って…」


 少しだけ黙り込んだあと、孝夫は一瞬だけちらっと瀬川さんのほうを見て、それから、僕の顔をちょっと見て、ようやく前を向き直って、おどけたようにそう言った。

 それを言った後も、彼は一瞬瀬川さんの顔を見た。そしてやはり、もう一度僕の顔もちらっと見た。


 顔色を伺ってるのかよ。自分がこぼしたのに謝りもせず、このまま幸奈のせいにして収める気かよ。


 そんな彼の他人事な態度に、喉から水分が抜けるような気分がした。


 “謝れよ。大変なのは車椅子じゃなくて、躓いてジュースを被ったリョウだろうが!なんで幸奈が悪い流れにしようとしてるんだよ!”


 「え?おまえ、急にどうしたんだよ!?」

 「ちょ、落ち着いて。如月くん、なんであなたが怒ってるの?」

 

 「あ…いや…」


 渇ききった喉は。普段ならつっかえて止めてくれるはずの言葉をそのまんま流しだしていた。


 皆の視線が僕に向く。カラオケの画面には曲は流れず、ミュージックビデオとそのプレゼンターの高い声。メロンソーダとコーラの爽快にあまったるい匂いが部屋に充満しているだけだった。


 責めるような目線。幸奈が悪かったことにしておけば収まったのに、と言わんばかりの目。

 実際はどうだっただろう。違ったかもしれない。でも、余裕のなくなった僕の目には、彼らの目線はそうとしか映らなかった。


 『おい、なんか文句あんのかよ?』

 『次同じこと言ったら腹蹴ってやっからな』

 『おお、生意気なこと言ってんじゃねえぞ』


 視線が、過去と重なる。「ちがうんだ」そう言いたいのに。見据えられ、咎めるような目を向けられ、周りの皆は見ているだけで、誰も何も言わない。


 そう、圧力。


 小学五年生のあのときと、おんなじ。人生で一番痛い思いをした日。先生が近くにいなかったのが災いで。羽交い締めにされて、思いっきり頬を平手で打たれた。倒れ込んだ床に一部リノリウムの塗装が剥げてるのが見えて、下や上の階からは他の学年の高い笑い声が聞こえて、でも、この階には誰も何も喋らずに僕の行く末を見届けている。

 あのときはどうやって立ち直ったんだったか。思い出せない。確か平手打ちをもろに食らって朦朧とした意識の中で、隣のクラスから声が聞こえて…



 「ごめん、帰ってきた!あれ、誰も歌は入れていないの…?何か…あったのかな?」


 誰も答えない。でも、皆僕から視線を反らし、下を向いた。


 「あれ、夏目くんの席…お金が。千円札が一枚だけ…カラオケの代金…?」


 そこまで見て、どれだけ重い空気がこの場を包んでいたかにようやく気づいた幸奈が口を噤んだ。

 再び、たぶん時間にして五秒ほどの長い沈黙が流れる。


 「ごめん、私、用事があったのを忘れていたの!お先に失礼するわね!」


 ふっと瀬川さんが立ち上がった。


 「あ、お、俺も。ちょっと塾が入ってて…」


 瀬川さんが部屋を出てちょっとあとに、孝夫も逃げるように立ち上がった。

 「なんで事の張本人のお前が帰るんだよ!」そう怒鳴ろうとしたけど。また、ふっと脳内に、虐められている僕を見ている皆に怒鳴り散らすイジメっ子たちの姿が思い返されて、その言葉は飲み込んだ生唾で潤った喉につっかえた。


 二人減った。続行は難しそうだった。


 「…ごめんね。もうお開きにしよっか」


 幸奈が言う。当事者でもない幸奈が言うまで誰も言わなかった。

 それから、あとの輝と中浦さんは、ごめんね。とだけ。さも、心の底から本当に悪いと思っているように、しんみりとした口調で言って、945円ずつをしっかり勘定しておいて帰った。


 果たして、この皆が帰っていった五分のあいだに幸奈が帰らなかったのは彼女が誠実だったからか。誘われた遊びは最後まで遊びきるのが誘われたものの使命だと責任を持っていたからか。

 違う。彼女は「逃げられなかった」のだ。車椅子がー足が悪いことを原因に一人罪をなすりつけられた形で。歩いて自分だけ、悪い空気から抜け出せない。望んでもいない不自由な足のせいで、彼女は最後まで気まずい思いをしなければならなかったのだ。


 「えっと…折角だしもう一曲ずつくらい歌ってく?それとも…帰る…かな?」


 幸奈がこちらを見て微笑みかける。臆病な内心、崩れそうな体を受け止められた気がした。


 ぽつりと、涙が出た。帰るか否か。そんな最後の選択肢すら彼女に言わせて、自分はただトラウマにずっと怯えたままで。

 情けなくて、悔しくて。そんな気持ちがぽとりと落ちて、ジーンズに染みを作った。


 「あ、えっ…その。大丈夫?私は大丈夫だよ!何も気にしてないし!」


 そうやって強がられせてしまうのも、机の上に無造作に置かれた小銭の塊も。なにもかもが自分の不甲斐なさが原因みたいな気がして。

 ああ、情けない。喉は渇ききっている。堪えて鼻に流れた涙以外に僕の言葉を遮るものは無かった。炭酸の抜けた甘ったるいラムネを、僕はないまぜになって濁った感情と一緒に豪快に飲み干して見せた。


 「大丈夫…大丈夫!もうちょっとだけ、歌っていこうか」


 ふわっと明るく笑う幸奈に少しだけ救われて。僕はひたすらに明るい曲を歌って、幸奈も同じバンドのラブソングを歌って、帰ることにした。


 車椅子を押していった帰り道に気がついたのは、多くの人が車椅子のほうに目を向けているのがわかった。意識する、してしまう視線。自分に向いた物ではない。車椅子が物珍しくって見ているだけなんだ。そう思っていても、視線は僕の背にある体の芯のようなものにまとわりついて取れないような気がした。


 「…った?カラオケは。…って、ねえ。聞いてる?」


 後ろを向き直ってこちらを見る幸奈の目を見つめた。会話を、することにした。


 「うん、久し振りに歌えたから良かったよ。皆が帰っちゃったのは残念だったけどね」


 そういった僕に、幸奈は少し怪訝な顔をしてから、まるで安心させるように笑って見せた。



 翌日も、その翌日も、視線は僕をついて離れない。亮佑からも「ごめん、前の誕生日にさ、死んじゃったばあちゃんがくれたやつなんだ。Tシャツ。それ汚されてさ。しかも、あいつ、こぼした瞬間瀬川さんのほうちらっと見たんだよ。こっち向いて謝るのが誠意だろ…ゆなっちがフォローしてくれたから良かったけど。彼女には悪いことしたな。ソータもごめん」というラインをもらって以来口を聞いていないし、輝も孝夫ともきまずいまんまだった。


 「ねえ、明日、部活のあと駅前のクレープ食べに行きたいんだけどついてきてくれない?」


 そんなときの幸奈の誘いは僕を少し元気づけた。ひとりじゃないって思わせてくれた。彼女はきっと、僕が一人でいたら助けてくれるんだな、と確証も無く思ってみたりもした。


「気になってたんだ。クレープ屋。屋台だけど美味しいって」


 まだ周りの人の視線は気になっていたけど、はにかんで言う彼女に僕はちょっと安心した。クリームが甘く口の中で解ける。生地ももちもちしていて、甘さがしつこくなるのを防いでいた。


 「美味しいな。これ、甘いものは好きだけどクレープはまだ食べたことなかったから」

 「良かった。いいよね!たまにはこういうのも」


 綿毛のように軽く、ふわりと笑う。


 「なんか、蒼太。悩んでるよね。多分」


 彼女の勘はよく当たる。きっと長いこと一緒にいるからだろうか。でも、悩んでいることをはっきりと言い当てられてしまったのが、嬉しくて気恥ずかしくて。それに悩んでいる内容も彼女に心配をかけそうなものだったから。


 「なんでもないよ」


 とだけ。釈然としないような顔をした幸奈は、いたずらっぽく微笑んだ。


 「そっか、私は蒼太、好きな人でもいるのかなぁ…?そしたら一緒にいられる時間も減るなぁ。残念だなぁ。って思ったんだけどね」

 「うるさい、ほら、帰るよ」


 彼女は妙に嬉しそうだった。頬を少しだけ紅に染めて。僕も、少しだけ嬉しかった。他の人の前ではもっと誠実に、真面目に振る舞う彼女が僕の前だとこんな悪戯をしてくれることが。


 「まあまあ、あそこの広場にべンチがあるじゃん。とりあえず一息つこうよ」


 言われるがまま、人が集う広場に足を運ぶ。気は進まなかったけど、彼女といると心地がいいので足はそちらへ向けた。


「こうやってさ、蒼太はどこにでもついてきてくれるよね。今までも」


 確認するように、甘えるように彼女が言った。


 「私ね、あまり遊びに行くとかないからさ。嬉しかったんだ。誘われて。あんな感じになっちゃたけど、しっかり行き帰りと送ってくれてさ。それも嬉しかった」


 そのまま、彼女は続ける。


 「蒼太だけなんだ。こうやってそばにいてくれるの。ほかの子は遊びに行くときとかさ、私は行きづらくって。蒼太だけなの」


 そうやって、二回も彼女は僕の名前を呼んだ。

 夕風が気持ちいい夏の街の一角。クレープ屋の屋台の駅のちょっと先。人通りが良くて、木の周りにある丸ベンチが特徴の広場で。一文字一文字、言葉を絞り出すように。でもはっきりと、彼女は僕に言った。


 「私ね、好きだよ。蒼太のこと」


 そのときだった。

 人通りのよい広場。そこでの告白。

 通りかかっていた、みんなの視線が、こちらに、こちらに。こちらに、こちらに。こちらに、向い、た。


 向いた。


 向いた視線は、笑っていた。

 ぶわっと鳥肌立ち、立ち上がった。

 不思議そうにこちらを見る幸奈は、もう視界には入っていなかった。告白されたとか、周囲の目なんて気にしていたら男が廃るなんて昔父に言われたことだとか、どうでも良かった。

 こわい、こわい、逃げないと。ここから。この視線から。


 「ちょ!どうし、蒼太!」


 逃げ出したら余計に注目が集まるなんて考える余裕は無かった。半分過呼吸だった。靴紐を踏んでつまずいた。さっき学校から来た道を、走った。走った。

 家の扉を乱暴に開けて、部屋に転がり込んで、布団を被った。


 僕に向く視線が無くなった。そう思ったのと、幸奈を残したまんまだったことに気づいたのが、同時だった。


〜〜〜〜〜


 「ごめん。熱ある」


 生まれて初めて、いじめられていたときも使ったことはなかった仮病を使った。

 あれから、家から外には出られなかった。幸奈がどうしたとか、考えたくなかった。車椅子で一人で、皆の視線に晒されながら。なんて、それでも考えざるを得なかった。


 「蒼太はどこにでもついてきてくれるよね。今までも」


 彼女の言葉を思い出した。

 彼女はカラオケで最後まで取り残されてしまったことを思い出した。

 彼女が“逃げられない”という事実を、深く認識し直したことを思い出した。


 彼女が“追いかけられない”という事実に、気が付いた。


 「あぁ…最低だ」


 最低だ。最低だった。

 いじめられていたときに仲良くしてくれたのは、彼女だけだった。目を見て安心できるのは、彼女だけだった。心のそこから幸せだって思ったのは、図書館で二人で勉強しているときだった。

 彼女から逃げるというのは、逃げる僕を追うことのできない彼女と関わりを断つということ。車椅子を受け入れて足代わりともなっていた彼女を取り残す。見捨てる。彼女が僕に、何があってもしなかったことだった。


 「学校に。謝りに…行かないと…」


 それでも、足は動かない。頭をよぎるのは、僕らに向かって一瞬で差し込んだ無数の視線。いじめっ子の行動を、ただなにもせず「観察して」いるだけの視線の集まり。見られる、それだけなのに、体が強ばって動かない。

 情けなくて、情けなくて、


 「うわぁぁぁぁぁ!」


 悲劇の少年気取りか。そんなんだからお前はいじめられたんだろう?

 心の中のもう一人の自分が言う。


 「くそぉぉぉぉぉ!」


 そうやって泣いて、自分の無力を正当化するつもりか?あのときから何も変わらない、成長もしないな。


 そうやって、自分を責めて、責めて。机を蹴って、椅子を倒して、布団を思いっきり殴りつけた。

 赤ん坊のように地面をのたうち回って、泣き叫んだ。

 そのとき、一枚の手紙を見つけた。


 『桐生瑞生』


 手紙の宛名に、そう書いてあった。六年生になるそのときにもらったものだったか。当時は彼が引っ越してしまうことが辛くって、悲しくって、手をつけることなく一年を終えたあのときの。


 手紙を開けると、ノートの切れ端にきれいな字で文が書かれていた。


 『蒼太くん、本当にごめんなさい。僕は来年から南小の校区内に引っ越します。お母さんと何回も相談して決めたんだけど、結局きみには言えなかった。本当にごめんね。君は、とても優しい。いや、そんな簡単じゃなくって、まるで金太郎みたいに、勇気はあって気は優しいし、どんな人にもその優しさを崩さなかった』


 「違う」

 誰にとも無く言った。手紙はまだまだ続いている。


 『だから、これまでの二三ヶ月、そして、これからの一年。たくさん傷つくことがある、それかもうあったと思う。幸奈ちゃんは元気かな?いっつも君と一緒にいたね。で、だから君は一人じゃなかった。幸奈ちゃんも君のおかげで一人じゃなかった。それって、すごいことだと思う』


 責められている気がした。いや、暖かく叱られているような。辛くて涙が出たけれど、僕は幸奈がとの思い出と感謝を胸に刻みつけた。手紙はまだ続いている。


 『僕は聞いたよ。僕がいなくなってから君が羽交い締めされて平手打ちされたってこと。でもね、どうか気に病まないでほしい。ってのも難しいかもしれないけれど、もし、いじめっ子以外の中に君がいたら、君は間違いなくいじめられてる子を助けてた。僕がそうだったしね。それに、もしクラス全員が君だったらいじめなんてそもそも起こらないんだから。何が言いたいかっていうとね、君は間違ったことをしない人だ。めったにね。で、間違ったことをしても、それを間違ったなってすぐに自分で分かれる人だ。自分で自分を守っていて欲しいんだ。きっと、苦しいと思う。僕は逃げ出したから、君も逃げ出してもいいかもしれない。でも、君は幸奈ちゃんを助けているし、幸奈ちゃんも君を助けている。幸奈ちゃんなら、なにがあっても君を見捨てないよ。君が平手打ちされたときにみんなに呼び掛けて、それでも皆が反応しないからって一人で先生を呼びに行った幸奈ちゃんならね』


 そこで僕は跳ね起きた。

 誰もが見ているだけの人混みの中に、一人背を向けて車輪を手で回して回して、先生を呼びに行く人がいた。頬を殴られて、まぶたが半分くらい降りて、もう意識も朦朧だったけれども確かにその人がいた事を思い出した。

 疑う理由もない。車椅子、幸奈だったんだ。


 突然、自分がもっと許せなくなった。でも、泣き寝入りする気にはならなかった。視線の恐怖に、ほんの少しだけ。その自分への怒りが勝った。いてもたってもいられなくなって、僕はパジャマを脱ぎ捨てて私服に着替えた。放課後のチャイムがなってから五分経っている時間だと時計から分かった。


 行こう。幸奈に会える。


 怖かった。怖かった。でも、そんなのどうでもよかった。僕は強い。それで、優しい。それでいて、昨日の夕方間違ったことをしてしまった。今からそれを帳消しにしてもらわなければならない。

 勇気はあって気は優しい。そう思っていた彼に報いねばならないじゃないか!


 通学路は人通りがいい。炎天下の日差しの中、何人もの人が汗だくで走っていく僕を見た。かまわない。


 走った。走った。


 車椅子、幸奈だ!


 「ごめん!幸奈!昨日はあんなことを!」

 「うわっ蒼太!大丈夫!?風邪とかじゃないの?」

 「もう大丈夫」


 もう大丈夫だった。

 商店街の前を通りかかった。通行人は皆僕を見た。もう、僕が何をするべきか、僕はわかっていた。


 「幸奈が、好き」


 彼女の手を取って、一言。そう言った。

 街は炎天下で、通りかかる人々はアスファルトから舞い上がる蜃気楼越しに僕達を見る。

 彼女の手は、どうしようもなく暖かくって、ちょっと強く握ったら壊れてしまいそうだった。

 それでも、僕はその手を強く強く、握りしめた。


 「いいわねぇ、青春って」

 「私にもあんな頃があったかしら」

 「おねえちゃん、きれいだね。でも泣いてるよ。もう大きいのに」

 「そう?ひまちゃんも、あんなふうに手握られたら、嬉しくて泣いちゃうんじゃない?」


 温かい、温かい眼差しが僕らを包み込む。もうそれは怖いものじゃなかった。

 守るべきは、大きな恐怖に怯える自分じゃなくて、もっともっとちっぽけな勇気や、恋心とか。忘れちゃいけないものなんだ。


 いじめは、こわい。

 どんなに前に終わったものでも、自分の行動や考えまでも変えてしまうことがある。自分の中で大切にしなきゃいけないものでさえ、見失ってしまうことがある。

 怖くて仕方がない。それくらい、人を歪めてしまう。

 だけど、それは立ち向かうことができる。きっと、思っているほどいじめられている人は一人じゃない。家族がいる。先生がいる。その人たちに助けられたら、きっと、怖いけれども頑張ろうという気持ちになれる。

 教えてなんてもらえないけれど、必ず僕らはひとりじゃない。そして、自分を守ってくれる人と、弱い自分なんて。どちらが守るべきか言うまでもない。

 そのための勇気を。

 そばにいる人を。

 そして、弱い自分にさよならを。


〜〜〜〜〜


 「おい、蒼太。次何歌うよ?」

 「それより孝夫、これ飲んでみねぇ?コーラとコーヒー混ぜたんだけど」

 「お前!ほんっとやめてくれ!ほんと悪かったと思ってる!反省してる!この通りだって!」

 「じゃあ、お詫びの印に飲んで見る気は無い?」

 「あああああやめてぇぇぇ」


 そんな様子を、瀬川さん、中浦さん、そして幸奈が笑って見ている。


 「そういや、前休んでから蒼太、ちゃんと人の目見るようになったな!なんかすごい変わった感じするわ」

 「あ、それ思った。目綺麗だからね。もっと人の目見たほうがいいって思ってたのに」

 「なるほど、さてはなんかあったな?蒼太ぁ?」


 にやにやと幸奈と僕を見比べる二人に苦笑する。


 「さあね?」



 Bye me.自分にさよならを。

 For by me.自分のそばにいる人のため。


 クーラーの聞いたカラオケボックスで、アイスクリームをかじりながら幸奈と歌った。


 夏休みはすぐそこだった。

全国推定3、4人の方はお久しぶりです。久しく作品がかけず、誠に申し訳ありません…(´;ω; `)

また、はじめましての方ははじめまして!

お久しぶりの方も、はじめましての方も、ぜひこれからもよろしくお願いします!


さて、今回は青春モノ。リハビリ作品ということもあって、推敲こそしたものの書き込みが浅いと思われます。

また、なろうらしからぬ作風であると自覚しているため、お叱りもどんどんください。参考になるどころか、作者はドMなので喜びます。

軽い気持ちで感想をお寄せください。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

また会いましょう!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 十代の感受性の強さがよく表現されていて、自分もあの当時に戻ったかのような感覚におちいりました。 いじめを題材にしておりますが、重苦しくなく、さらりと読めてしまいましたが、心にできた傷の深…
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