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食わず嫌いの治し方

作者: 水村ヨクト

「ピーナッツバター、塗る?」


 ピーナッツバターパンをかじりながら、お父さんは私にピーナッツバターの小瓶を差し出してきた。


「いらない。りんごジャムの方が好きだし」


「そうか」


 私はお父さんの顔を見ることなく、りんごジャムをパンに塗り始めた。

りんごジャムの方が、という言い方はちょっとだけ間違えているかもしれない。だって私はピーナッツバターを食べたことがないから。食べたことのないものとなんて比べようがないんだから、りんごジャムの方が、なんて言い方は多分間違えてる。

 でも、きっとりんごジャムの方が好きだ。五十手前のおじさん(つまり私のお父さん)が好んで食べてるものが、りんごジャムより美味しいわけがないもん。きっとピーナッツバターは私の嫌いな味に違いない。

 と、ピーナッツバターを食べない理由を頭の中で考えながら、私はジャムパンをかじりながらスマホを開いた。


「……やば!遅刻する!」


 スマホ画面には、いつもならとっくに出かけているはずの時間を五分過ぎた時刻が表示されていた。私は急いで鞄を手に取り、パンを咥えて玄関を飛び出した。


「なんで時間教えてくれないのお母さん!」


 なんて文句を垂れながら。

 パンを咥えながら走ってるだなんて、恋愛漫画の女子高生じゃないんだから……なんて考えならが私はいつもの通学路を全速力で走った。いや、女子高生っていうのは合ってるんだけれど。

 途中、イカつい犬に吠えられて心臓が止まりそうになったが、それでもどうにか走り続けた。あの犬、毎朝必ず吠えてくるし、その度に私はバカみたいに驚くしホント嫌い。

 それから、遅刻しそうな朝は必ずすれ違うあいつも嫌いだ。全速力で走ってる私に全く気を遣うこともなく、歩きタバコを吹かしてるクソ野郎。

 ほら。今日だって前から歩いてきた。

 初めてすれ違った時も私は走っていたが、すれ違った時に煙を吸い込んでしまって、死ぬほど咳込んだ覚えがある。許さん。

 それからはあいつとすれ違ったら、その後十メートルくらいは息を止めることにしている。それでも苦しいけど、あの臭い煙を吸い込むよりは何倍もマシだ。

 駅前の顔が嫌いな政治家のポスターの横を走り抜けて、私は何とかいつもの時間の電車に飛び乗ることができた。

 セーっフ……なんて頭の中で呟いて、まずは空いている席を探す。と言っても、この時間に席が一つでも空いていたら奇跡みたいなものだけど。

 案の定空いてる席は見つからず、私は仕方なくドアの横辺りに寄りかかって、自分の前髪をスマホでチェックしたり、友達からのLINEを返したりして時間を潰した。……というかそれから学校まで全く何もないので飛ばしちゃうことにする。ホントに何もない時間だった。まぁ、こういう時間も嫌いじゃないんだけどね。そんなこんなで学校に到着。



「ミカ、ユウ、モモ。おはよ~」


 私がいつも絡んでるメンバーに朝の挨拶をすると、みんなもいつものノリで返事をくれた。


「おはよ~、(りん)。あれ? リップ変えた?」


「あっ分かる~? この間発売されたばっかのやつ」


「あー、あれね。めっちゃいいじゃん!」


 いつもの会話。中身なんて大して無くて、それが楽しくて、心地いい。そんな会話を私はミカ達と楽しんでいると、その会話の流れをぶった切るようにして、浅田(あさだ)真奈美(まなみ)が声を掛けてきた。声を掛けてきた、というより、新しい話を勝手に始めた、という方が正しい表現かもしれない。


「ねぇ皆聞いてよ! この間ウチ倉橋(くらはし)先輩とイイ感じだって話したじゃん? それがね? なんと……」


 予想が付くよ。そんなに笑顔なんだから。


「付き合うことになったの~!」


「え~! おめでとう~!」


 なんて言っちゃって。また彼氏持ちが増えるのか~。しかも倉橋先輩って。

 倉橋恭二(きょうじ)先輩と言えばスポーツ万能、成績も良くて、その上イケメン高身長の最強物件ですよ。真奈美がゲットかぁ。まぁ、驚きはするけど意外じゃないよ。だって、見るからにお似合いだもの。

 私たち二年三組のカースト一位グループのそのまた一位の女。それが浅田真奈美なんだから。彼女がクラスの意見を握ってるって言っても言い過ぎではないと思う。

 まぁそんなこんなで、私たちは担任の先生が来て朝のホームルームを始めるまでの間、恋愛トークに花を咲かせることにした。主に真奈美の惚気話なのだけど、それもそれでちょっと面白いからあり。


「……おはよう……っ」


 私たちは会話を続けた。輪の外側から聞こえてきた気がする声など聞こえていないといった具合で、話が続く。

 声の主は加賀(かが)(しおり)だ。加賀栞は所謂カースト最下位の生徒で、私たちとは無縁の存在。だから暗黙の了解として決まっているのだ。加賀の挨拶は無視しろ、と。

 いや、無視なんて甘いものではなかった。私たちは加賀を、いないものとして扱っているのだ。今もそうだったが、彼女の挨拶など全く無かったかのように会話が盛り上がっている。

 それでも、それでも加賀は毎朝、私たちに挨拶をしてくるのだ。性懲りもなく、恥じることもなく、飽きることもなく、ただ一言「おはよう」という音を空間に残して、自分の席に向かう。その空間に残った音は、誰の耳にも届かない。

 モサモサの髪の毛に、黒ぶち眼鏡。猫背で、ちょこちょことした歩き方で加賀は自分の席へと座った。私の席の後ろの、彼女の席に。


「ひっ……」


 小さな悲鳴が、加賀の口から零れた気がした。私は真奈美の惚気話を熱心に聞くフリをしながら、加賀の方を横目で見た。

 よく見えなかったが、恐らく、そう、これは私がちょこっとだけ見た光景だから、憶測でしかないのだけれど、彼女の机の引き出しに、土が入れられているようだった。

 いじめ。

 そう表すのがきっと最も適してる。それ以外に言い方があるとすれば何だろう。そう、例えば、憂さ晴らしのサンドバッグ代わり。そんな行為なのだろう。

 さっきも言ったけど、このクラスには暗黙のルールがある。加賀を無視すること。それと、言い忘れていたもう一つ。彼女には憂さ晴らしに何をしてもいい、ということだ。もちろん親や教師に怪しまれない程度のことだが。その程度のことなら、加賀は誰にもチクったりしない。そして、彼女がいじめのようなことをされるのは、決まってクラスの空気が悪い時だ。

 例えば、担任の先生の機嫌が悪かったから。

 例えば、定期テスト直前だったから。

 例えば、クラス内で喧嘩が起きたから。

 例えば、今日は雨が降ったから。

 そんな理由で彼女の机に土が入れられる。彼女の上履きに画びょうが入れられる。彼女の愛読書が水びだしになる。

 それでも彼女は怒らないし、誰にもチクらない。私にはそれが全く理解できない。それが加賀栞という人間なのだ。

 だから、私はそんな彼女が嫌いだった。だって絶対嫌なことをされてるはずなのに、何にも文句を言えないなんて、変だし。何を考えてるか分からないから、気持ち悪い。

 あーもう。加賀栞のことを考えると頭が痛くなりそうだから、やめやめ。今日だって放課後みんなでSNS映えするビュッフェに行く約束なんだから、嫌なことは忘れよう!

 そう頭の中で叫んで、私はその日一日、加賀栞なんて最初からいなかったみたいに、笑って過ごすことにした。

 が、その考えも、一時限目の休み時間に一瞬で打ち砕かれた。学年中で嫌われている、坂本(さかもと)の国語の授業が終わった直後だった。彼女は私に話しかけてきたのだ。……いや、こんな風に意外な感じで語ってるけど、まぁそろそろ来るとは思っていた。だって彼女は毎日私に話しかけてくるのだ。


「……ねえ。あの……今日の戸波(となみ)さん、いつもより可愛い、よね? ……あっごめん……気持ち悪いよね、私なんかが」


 なんて。私のことを褒めてくれるのは嬉しい。嬉しいよ? でも、正直しつこい。嫌いな相手に毎日執拗に声を掛けられるなんて、面倒臭いことこの上ないもの。

 だから私は、その言葉を無視して、今度こそ加賀栞などいない者として、一日を過ごすことにした。最後にもう一度、加賀の方を横目で見たら、何だか不気味に笑っていて、気持ちが悪かった。



翌朝。異変は起きた。

 昨日と同じく私は自分の部屋からリビングに降りて来て、朝食のジャムパンと食べようとしたそのときだった。


「え、お父さん。何食べてるの」


 まず、真っ先にその疑問が浮かび、声に出た。


「何って、パンだけど……」


 お父さんはきょとんとした顔で、私の顔を見た。

 いや、何でそんな顔するの。もっと意地悪な顔とか、自慢げな顔をしてよ。じゃないと、私がおかしいみたいじゃん。だってその、パンに乗せてるの……。


「そうじゃなくて、パンに乗ってるの、何?」


 お父さんは何が何だか分からないといった様子で、戸惑いながらもはっきりと答えた。


「ピーナッツバターだよ? どうした? 凛」


 ピーナッツバター? いや、そんな訳ない。だって、パンにに乗ってるのは、何というか、その、黒い何か……。そう、パンの上の何かを塗りつぶすみたいに、黒いインクのような何かが見えるのだ。

 私は自分の目を疑った。咄嗟に、お父さんのコーヒーカップの真横にいつも置かれているピーナッツバターの小瓶に目を遣った。

 見えない。

 いや、小瓶なのはギリギリ分かるのだが、中身が何なのか、全く分からないように、ラベルが真っ黒く塗りつぶされていた。


「……どういうこと?」


 分からない。目の病気? それとも脳? とにかく、お父さんとお母さんにどれだけこの、黒いインクのことを話しても、何のことを言っているのか分からないといった様子なのだ。


「きっとまだ寝ぼけてるのよ。ほら、また遅刻しちゃうんじゃないの? 学校」


 なんて言われる始末だ。

 でも、黒いインクで見えないのはピーナッツバターだけだし、帰ってきたら案外何事も無くなってるかも……なんて、考えながら、私は渋々家を出た。

 この日も私は走って駅に向かった。いつも通りの通学路を――いや、いつも通りではなかった。いつも通りではなかったのだ。所々が。

 だって、あのイカつい犬。今日も今日とて吠えられたのだけど、その姿を見てやろうと声の方向を向いたら、犬も例のインクで真っ黒く塗りつぶされていて、吠えてなかったら何なのか分からない状態だったのだ。

 それに、歩きタバコクソ野郎も、インクで塗りつぶされていて見えなかったし(煙の臭いが無ければこちらもやはり分からなかった)、顔が嫌いな政治家のポスターも、子供の悪戯みたいに黒く塗りつぶされていた。


「え、え……どうなってるの?」


 なんて独り言を素で吐いてしまう程に、その光景は異様だった。おかしい。学校に着くまでに、駅の構内も、電車の中も全て、所々見えなくなってしまったものがあるのだ。それなのに、周りの人々は普通に過ごしている。何も変なことなど無いかのように。私の目は、頭は、どうなってしまったというのだろうか。……怖い。

 それでも実害はないので、何事もなく学校へ到着してしまった。


「……おはよ」


 私はいつものメンバーにいつもより控えめな挨拶をした。


「おはよ~。どした? なんか元気なさげ?」


 ミカもユウもモモも、いつも通りの挨拶と、心配の言葉を掛けてくれた。それに遅れて、奥で倉橋先輩との惚気話を披露していた真奈美も、挨拶を返してくれた。

 その風景に何の違和感も無かった。黒いインクで見えなくなったものも無かったし、私はやっぱり気のせいだった、寝ぼけていただけだったのだと安心した。だから、私は気を取り直して朝の会話を楽しむことにした。


「……おはよう……っ」


 いつもの、芯の無い声が、また後ろから聞こえた。加賀だ。

 私も皆も、特に気にする様子もなく、彼女の声を聞き流した。のだが。


「え」


 私はつい、声に出していた。ミカ達が私に注目する。


「どうしたん?」


 私は狼狽え、やがて乱れていた目線をミカ達に戻し、答えた。


「う、ううん。何でもない。何だっけ?」


 その後、私たちはいつもの女子トークに花を咲かせていたはずだが、私はその内容を一切覚えていない。

 だって、彼女の……加賀栞の顔が、例のインクで真っ黒に塗りつぶされていたのだから。

 怖くなった。どうやっても、顔を洗ってみても、頬を叩いてみても、彼女の顔は一向に見えることがなかったから。だから、彼女が自分の教科書に落書きをされていたことに気付いた時の表情も、本を読んでいるときの表情も、全く分からなかった。

 そして、その日の二時限目休みに、彼女はいつも通り私に話しかけてきた。


「……戸波さん、今日は、元気ないみたいだけど……何かあったの?」


 私は怖かった。彼女の顔が、まるで暗い穴を覗いてるみたいに永遠に真っ黒だから、吸い込まれそうで、見ていられなかった。いや、普段は顔なんか見ないで無視するのに、今日はつい、見てしまったのだ。加賀の顔がそんなだから。


「……なんで」


 私はつい、そう言ってしまった。そして自分が間違いを犯したことに気付き、私は逃げるように教室から出た。教室からヒソヒソと声が漏れ聞こえた。


「戸波、加賀に返事したぞ」


「うそ……全然関わってるイメージないのに」


「いや、加賀はいつも戸波に話しかけてたけど」


「返事してるところは初めて見たな。でも加賀と関わろうだなんて……戸波、ちょっと変になったか?」


 一字一句合っていたとは思えないけど、多分そんな声が聞こえた気がする。そうだ。クラスの腫れ物である加賀と話すなんて、どうかしてる。

 あああ。おかしい。おかしいよ……何なのこれ……。何がどうなってるの。

 頭を抱え、トイレの個室で、私は少しだけ、泣いた。

 その日一日、私は大人しくしていた。もうあの黒いインクは見たくなかった。しかし、最後の六時限目の坂本の国語の授業で、私はまた、泣きそうになってしまった。

 坂本の顔が、黒いインクで塗りつぶされていたのだ。



 帰りの電車の中、私はスマホを弄るでもなく、まだ新しいリップを塗り直すでもなく、今日起きた出来事について考えることにした。いや、いくら考えても分かることではないと思う。だけど、考えずにはいられなかった。何も分からない状態で、帰り道にまたあの政治家のポスターや、イカつい犬を見るのは嫌だった。

 考えて考えて、頭が痛くなりそうになったそのときだった。


「うるせぇなクソガキども!」


 中年のおじさんが、そう叫んだのだ。

 私は何事かと思って状況を見ると、どうやら男子高校生グループが怒鳴られているようだった。そんなにうるさかっただろうか。私が考え事をしている間、何となく男子高校生たちの会話は聞こえていたが、それはヒソヒソ話で、別にうるさいといったほどではなかったと思う。

 ……あんたの方がよっぽどうるさいっての……。

 自分が少し不快だったからって、最低限のマナーは守っていた高校生たちを怒鳴りつけるだなんて……私はああいう大人が嫌いだ。

 嫌いだ。と認識したまさにその瞬間だっただろう。そのおじさんの顔が、また、黒いインクで塗りつぶされた。いや、また、と言ったけど、塗りつぶされた瞬間は初めてだった。そして、その瞬間を見て、私は気付いた。


「もしかしてこれ、嫌いなものが見えなくなってない……?」


 そうだ。思い返してみれば、ピーナッツバターだって、イカつい犬だって、歩きタバコクソ野郎だって、政治家のポスターだって、国語の坂本だって、加賀栞だって、全部嫌いだった。嫌いの度合いは違えど、みんな同じに嫌いだ。

 ……だとしたら、もしかしたら、これは私のとって都合のいいことなんじゃないか? いや、なんて素晴らしいんだろう。嫌いなものを見なくて済む。視界から嫌いなものが消えてなくなるなんて、そんなに素晴らしいことはないのではないか。

 嫌いなものなんて、見ただけでイライラするし、楽しい気持ちが台無しになるんだから、いっそ見えなくなった方がマシだ。今までタチの悪い病気か何かだと思っていたけど、きっとこれは神様がくれた私へのご褒美かもしれない。毎日頑張ってるもん。こんなに頑張ってるんだから、嫌なものは見なくていいよね。

 そう考えるようにしたら、とっても気が楽になった。駅を出てすぐに見える嫌な顔の政治家ポスターも、イカつい犬も、見えないだけでこんなに気分が楽だなんて思ってもみなかった。嫌なら見なけりゃいい。全くその通りだよ。

 私は家まで、スキップしながら帰った。



 あれから、多分二、三日経った。もう嫌いなものが見えないというのにも慣れてきたし、それに特に不便はなかった。だって嫌いなものとは関わらないようにしてるし、それが見えなくったって全然困らない。

 ……たった一人を除いて。

 加賀栞。彼女はやっぱり毎日話しかけてくる。私がこの間、一度だけ彼女に反応してしまったことなどさっぱり無かったことになったみたいに、クラスの皆は無関心だったけど、それが逆に気味が悪い気もした。

 でも、顔が見えなくなっただけで、私の加賀に対する態度は何も変わらない。無視。シカト。スルー。素通り。私の世界に加賀はいない。

 そう自分に言い聞かせ、そして、そうした。

 今日も今日とて、加賀は昼休みに私に声を掛けてきた。私はそれを無視して、いつものメンバーで学食へと出かけた。


「ねえ」


 廊下を歩いていると、突然声を掛けられた。誰かと思って振り返ると、声の主は真奈美と付き合っている、倉橋先輩だった。


「倉橋先輩? あー、えっと、真奈美なら先、行っちゃいましたけど」


 私は学食の方向を振り返りながら、そう言った。振り返った時に、私が声を掛けられたことに気付かず先へ行ってしまったミカ達の姿がチラリと見えた。


「いやその、違うんだよ。今はその、戸波に用があって。あー、いや、戸波じゃなくてもいいんだけど。あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」


「? 何ですか?」


 頭を掻きながら言う倉橋先輩は、なんだか少し可愛かった。


「真奈美のことで相談したいことがあって……ほら、真奈美とよく一緒にいる、戸波達なら何か良いアドバイスとかくれるかな……と」


「あー、そういうことですか! 全然いいですよ。何ですか?」


「えっと、真奈美、来月誕生日だろ? プレゼント、何がいいかなって。あー、長くなっちゃうから、LINE、教えてくんない? 後でゆっくり相談させて」


 なんてやり取りをして、私と倉橋先輩はLINEを交換することになった。



 その夜。私はお風呂から上がり、その日一日にやることを全て終えてくつろいでいると、倉橋先輩からLINEのメッセージが届いていることに気が付いた。


倉橋先輩:LINE交換してくれてありがとう。それで、昼間言ってた相談なんだけど……今大丈夫?


 二分前。これは今すぐ返せばスムーズに会話できるな。と、考えて私はすぐにレスポンスした。


凛:大丈夫ですよ~笑 で、何でしたっけ?


倉橋先輩:さんきゅ笑 えっと、真奈美の誕生日プレゼントのことなんだけど、俺、実はあんま女の子にプレゼントとかしたことなくて、何あげればいいのかわかんなくて……笑


凛:あー、そういうことですか笑 先輩も意外とウブなところあるんですね笑


倉橋先輩:うるせぇ笑 で、戸波ならあいつが欲しそうなもんとか分かるかなー、と


凛:うーん、そうですねぇ……「何が欲しい!」とかは最近聞いてないですけど、真奈美なら、アクセサリー系だったら喜ぶと思いますよ! あの子そういうの好きなんで!


倉橋先輩:アクセサリーかぁ。いいな。あ、でもそういうの売ってる店とか全然知らね……


凛:私いいお店知ってますよ! 駅前に女子向けの可愛いアクセサリーショップができたんです! そことかどうです?


倉橋先輩:へぇ。流石、情報が早いんだな。んでも、男一人でそういうところに入るのはちょっとなぁ……


倉橋先輩:そうだ


倉橋先輩:戸波、一緒に買い物付き合ってくんね?


 心臓が飛び跳ねた。いや、そりゃ男の人と出かけたことが無いわけじゃないけど、倉橋先輩みたいなイケメンに誘われるなんて初めてだし、何より友達の彼氏と一緒に買い物なんてしていいのか、正直迷った。

 ……どうしよう。でも倉橋先輩困ってるし……。うん、まぁ、彼女へのプレゼントを選んであげるだけだし……いいのかな。

 私は少々考えて、返事を送った。


凛:いいですよ~ 週末にでも行きます?


倉橋先輩:分かった。じゃあ土曜日の午前九時に駅前な!


凛:え、朝からですか?


倉橋先輩:いや、プレゼント選ぶの時間かかっちゃいそうな気がして笑 もっと遅い方が良かった?


凛:いえ、全然大丈夫です! それじゃあその日時間で!


 時間かかっちゃいそう、だなんて、可愛いなぁもう! まぁ彼女への初めてのプレゼントならそうなのかな。甘酸っぱいよお!

 なんて悶えながら、私はその日、眠りに就いた。



 週末になるまで、やはり嫌いなものは見えないままで、加賀栞は毎日私に話しかけてきて、つまり特に変わり映えの無い日々だった。一週間近くも経てば嫌いなものが見えないという状況にもほぼ完全に慣れてきて、私はそれに疑問を覚えなくなった。

 そして、土曜日。

 その日はまぁ滞りなく、先輩と無事合流して、真奈美へのプレゼント選びを真剣に、それはそれは真剣に行なった。途中、二人で昼食をファミレスで食べて、午後も先輩はプレゼント候補を悩み続けた。

 結局その日、プレゼントを決める事ができなかった。夕焼けの下、私と倉橋先輩は駅前のベンチでスタバのコーヒーを飲みながら帰りの電車を待った。


「先輩、こだわりが凄いんですね」


「そりゃ、彼女への初めてのプレゼントだぞ? 真剣に選ばなきゃ」


「……真面目ですね。流石、モテる男は違うなぁ」


 私は笑いながら先輩の顔を見た。そこには先輩の真面目な顔があった。


「先輩?」


「やっぱ、来週もプレゼント選び手伝ってくれないか? 今度は他の店にも行ってみてさ。戸波がいる方が心強いし」


 そんなこと、言われたら。

 調子に乗ってしまう。


「いいですよ! 任せてください! あ~、真奈美きっと喜ぶだろうな~。こんなに真剣に選んでくれたプレゼントなんて」


「俺がプレゼント選ぶのにこんな時間かかってるなんて、あいつには言うなよ?」


「えー、どうしよっかな~」


 私たちは吹き出して笑い合い、程なくして別れた。

 結局それから、真奈美の誕生日の直前の週末まで、ほぼ毎週、私と倉橋先輩はプレゼント選びに出かけた。流石に長いとは思ったが、それだけ真面目な人なんだと思って、別におかしいとも思わなかった。

 それと最近、私のこの目について一つ、気付いたことがあった。

 それは、一回嫌いになって見えなくなったものは、その後嫌いじゃなくなっても見えることはないということだった。

 ある日、嫌いだったブロッコリーを友達に無理やり食べさせられたことがあった。ブロッコリーは小さい頃に一度食べたきり嫌いで、今もインクで真っ黒く塗りつぶされていた。しかし、いざ食べてみると、特に不味いとは感じなかったのだ。

 あ、私、ブロッコリー別に嫌いじゃないんだな。と思って、再びブロッコリーを見た。そして、黒く塗りつぶされたままのそれを見て、私は驚いた。だって、嫌いじゃなくなったら見えるようになるんだとばかり思っていたのだから。

 でもまぁ、一度嫌いになったものを再び好きになることなんて、そうそうないだろうし、いいか。

 私は、楽観的だった。楽観的すぎていた、かもしれない。



 事件は突然起こった。いや、これは事件なのか。分からないけど、とにかくそれは突然起こったのだ。

 真奈美の誕生日の次の日だった。


「凛。あんた……自分が何したか分かってる?」


 私が朝、クラスの教室に入ってきてまず、ミカに言われた言葉だ。


「え、何?」


 そのままだ。え、何? 私は何が何だか分からなかった。ミカが鬼の形相で私を睨む。そして、ユウとモモもその後ろで同じような顔でこっちを見ていた。その間で、真奈美が泣いている。そして、私は背筋が凍った。もしかして……。


「真奈美、誕生日に倉橋先輩にフラれたんだって」


 ……。

 …………まさか、そんな。


「理由が、『他に好きな人ができた』って。そんで真奈美が泣きながら問いただしたら」


 ……やめて。私はそんなんじゃなくて……ただ、真奈美と倉橋先輩の為に……。


「凛。あんたの名前が出てきたって」


 ミカがそう言った瞬間、真奈美の泣く声が大きくなった。

 私にそんな気はない。好かれようとしたんじゃない。ただ、純粋に人助けをしようと……。


「え、何? どうしたの?」


 クラスの騒がしい男子が、ミカ達に問う。


「凛が真奈美から倉橋先輩を奪ったの」


 そんな言い方しないでよ……。

 私は自分の主張を訴えたかったが、咄嗟に声が出なかった。


「マジかよ! あ、そういや俺、何回か駅前で戸波と倉橋先輩が一緒にいたの見たな。珍しい組み合わせだと思ったけど、そういうことかぁ~」


 男子はそう言うと、男子同士の内輪へと戻って行った。


「何それ。最低じゃん」


 ユウが吐き捨て、モモが「ね」と同調する。

 沈黙が流れた。私の反論を待っているのか。それとも別の何かの間なのか。


「……おはよう……っ」


 なんてタイミングだ。

 加賀栞。沈黙の中、何も知らない加賀は私たちに小さい声でいつも通りの挨拶をした。もちろん皆スルー。でも、私は少しだけ、助かった。と思った。

 間が持った。そして少しだけ冷静になれたような気もした。これで少しは弁解が……。


「なんで! なんであんたなの!」


 真奈美が、私の弁解の隙をここぞとばかりに奪うみたいに、泣き果てたガラガラの声で叫んだ。


「せめて、どこの馬の骨かも分からないような泥棒猫の方がまだよかった! なんでよりによって、友達だったあんたなの……」


 私は「だった」と言ったのを聞き逃さなかった。もうこの子の中では私は友達じゃないんだな。と思った。……それだって、私に弁解をさせて欲しい。


「違うの! 私はそんなつもりじゃなくてただ、先輩に相談を受けて」


 私はやっとの思いで叫んだ。


「言い訳なんてどうでもいい! 後からならどうとでも言えるじゃん! 結果私から先輩を奪ったことに変わりない!」


 真奈美は私の二倍の声を張り上げ、叫んだ。

 私は目の奥に込み上げてくる熱いものを抑えながら、周りを見渡した。

 そこには、私を軽蔑する目が、そこら中に見えた。

 こんな、こんな場所にはいられない。耐えられない。

 私は勢いよく教室から飛び出した。その際、加賀栞を目で捉えたが、顔が真っ黒く塗りつぶされているので、どんな表情をしていたかは分からなかった。

 私はトイレの洗面台の前で泣いた。目から大粒の涙が止まらなくて、延々嗚咽した。

 嫌いだ。あんな奴ら。人の話もろくに聞かないで悪者扱いして。私の善意なんか知らないで。嫌いだ。嫌い。嫌い。嫌い嫌い嫌い。


「皆嫌いだ」


 涙に濡れた両手を私は強く握りしめた。

 その日、私は教室に戻ることなく、そのまま家に帰った。



いくら不貞腐れてても、嫌だなぁと思ってても、やはり成績のことを思うと学校には行かざるを得なかった。

 別にクラスメートにどう思われたって、構いはしない。そう強がって、私は学校へ出かけた。通学路に嫌いなものが増えた気がする。いつもより、黒く塗りつぶされたものが多かった。

 教室に着くなり、私は驚いた。真っ黒い顔が何十人も、こちらに向いたからだ。そして、その顔(と認識ももはやできないが、体の位置的に顔)たちは、すぐさま通常モードへと戻った。

 この空気は知っている。そうだ。皆や私が、加賀栞にやっていることだ。

 無視。

 スルー。

 シカト。

 素通り。

 そういう類いの、所謂、いじめ。

 その矛先が私に向くだなんて、ついこの間まで思いもしなかった。しかし向いてしまった。私が不注意なばっかりに? 違う。倉橋先輩の妄想癖が激しいばっかりに。そして、真奈美たちの思いやりが足りないばっかりに。

 友情なんて最初から無かったんだな。

 なんて考えながら、私は私の席へと向かった。

 ――こんなに典型的ないじめも、まだあるんだなぁ。

 私の机の上には、花瓶が置かれていた。そして、その下敷きとなっている机の天板には、次のような落書きが、書き殴られていた。

 尻軽女。

 ビッチ。

 サイテー。

 ドロボー猫。

 人格破綻者。

 ガイジ。

 キチガイ。

 クソ野郎。

 恥知らず。帰れ。

 消えろ。

 死ね。死ね。死ね。死ね。

 その他、口にするのも憚られるような悪口の数々に、私は吐き気を催して、トイレへと駆け込んだ。

 『死ね』なんて、言われたことが無いわけじゃない。でも、冗談だから平気だったのだ。笑っていられたのだ。それが一歩冗談という範疇から外れた途端に、文字通り、言葉のナイフと成る。『死ね』の一言で、人の心は実際に死ぬ。

 それでも、私は無駄にプライドだけ高くて、「傷ついた」なんて言えなかった。「助けて」なんて言えなかった。また、加賀栞にこれまで散々同じようなことをやってきた手前、私は自分の境遇を誰に言うこともできないだろう。

 教室に戻ると、私の存在なんて初めから無かったかのように、クラスメートたちは朝の会話を楽しんでいた。そんな中、私がトイレで嘔吐している間に登校してきたであろう加賀栞の姿が、目に映った。

 いや、もはや誰が誰だか分からない状況だったのだけど、加賀栞だけは、はっきりと分かった。自分の席を、必死になって拭いていたからだ。その姿は惨めで、見ていられないような雰囲気はまさに加賀のそれだ。

 加賀も私と同じように机に落書きをされたのだろう。小汚い雑巾で、ゴシゴシと机を拭いている。そこに私が近づくと、「……おはよう……っ」と、いつもの調子で挨拶をしてきた。そして私は気が付いた。

 彼女が拭いていたのは、彼女の机ではなく、私の机だったといことに。

 加賀の席は私の真後ろだっので、私は見間違えていたのだ。いや、確かに加賀の机にも落書きはされていたが、それをそっちのけで、加賀は私の机を拭いていたのだ。


「なんで……」


 私の問いに、加賀は控えめに、でもはっきりと答えた。


「……だって、戸波さん、嫌でしょ? こういうの」


 そりゃそうだよ……。でも、あんただって……。

 ああくそ。訳わかんない。私は加賀が分からないよ……。

 だから私は加賀の言葉に答えることもなく、「自分でやる」と言って、加賀から雑巾を奪った。そして、加賀の雑巾がなくなってしまったことに気付いて、新しい雑巾を掃除用具入れから取り出し、加賀に渡した。

 私たちは朝のホームルームが始まるまで、並んで机を拭いた。

 加賀はどんな顔をしていたのだろう。少しだけ、気になった。



 それから、まぁ分かりやすく言えば、私に話しかけてくる人間は、加賀栞だけになった。倉橋先輩も、最初は声を掛けて来たけど、私の陥ってる状況を察してからは、寄ってこなくなった。

 最初は鬱陶しいと思っていた加賀にも、もう慣れてきて、黙ってるのも結構しんどいから、話の受け答えくらいはするようになった。今更こいつと絡んでても、クラスでの立場なんかもう変わりようもないだろうし。

 そして、まぁ当たり前のように、私と加賀への陰湿ないじめは続いた。

 私は学校では強がって、平気なフリをしていたけど、毎晩泣いた。泣き疲れるまで泣いて、やっと眠れるのだ。そんな夜が続いた。

 もう人に興味がなくなってきてしまって、全員の顔が真っ黒に塗り潰されているのも相まって、本当に誰が誰だか分からなくなってきた。まぁ、声を聞けば分かるのだが、私に話しかけてくる人なんていないから、やっぱり分からない。

 放課後、私は何となく教室に居残っていた。

 加賀栞もまた、居残って読書をしていた。


「……戸波さん。いきなりでごめんなんだけど……なんで戸波さんも、私と同じみたいに、その、無視されるようになったの?」


 そう、加賀は突然口を開いた。

 そんなことを聞いてくるのは初めてだった。加賀からももちろん初めてだったが、そもそも誰にも聞かれなかったことだ。

 だから私は、何となく事のあらましを加賀へ話した。


「そんな、酷い……最悪だったね、それじゃあ……」


 ……共感してくれた?

 今まで、誰一人として、私の話など聞く耳も持ってくれなかったのに。

 私の口が次に発する言葉は、あまりに自然に流れ出た。


「私も聞きたい。なんで、私と関わろうとするの。私だってみんなと一緒にあんたの事、いじめてたし、無視だってしたよ。それでも話しかけてくるなんて、辛いだけでしょ」


「……辛くなんかない」


 加賀は俯きながら言った。真っ黒く塗り潰された頭部が、前に傾いた。


「嘘。辛いはずだよ。私だって経験したんだから」


「……ごめん。ちょっと強がっちゃった。……確かに、傷ついた――とまでは言わないけど、痛くなかったわけじゃないよ」


 そうに決まってる。あんな仕打ちをされて、無視されて、心が痛くないわけがない。それなのに、どうして……。


「それでも、戸波さんと仲良くなりたかったの」


「え?」


「戸波さんは私の憧れで、あんなに綺麗に笑う人がいるんだなって、それだけで私、救われた」


 加賀は照れ臭そうな声で話を続ける。


「私、戸波さんと出会うまで、自殺願望があったの」


 私は『自殺』という言葉を聞いて、ビクッとした。これまで自分たちが散々『死ね』と言ってきた相手が、そんな発言をしたのだから。でも、無理もない。冗談でも、嘘でもない『死ね』という言葉を浴び続けていれば、きっと本当に死にたくなるだろう。


「でもね、覚えてないかもしれないけど――一年前、私が廊下で戸波さんとすれ違った時、私、転びそうになったの。そのとき、戸波さんが支えてくれて、笑顔で『大丈夫?』って言ってくれたんだよ」


 私が加賀を知らない、加賀の境遇も知らない時期だ。


「その太陽みたいな笑顔と『大丈夫?』に私は救われたの。その笑顔で、私は前を向けたの。理由を言えって言われても、上手く言えないけど……その、光をくれた」


「光……」


「だからこのクラスで戸波さんが私をみんなと同じようにいじめるのは、周りに流されてしまってるだけで、本当はいい人のはずなんだ。悪いのは周りなんだって信じてた」


 そんなことない。私は本気で加賀を嫌ってたし、いい人なんかじゃない。勘違いだ。


「そしたら、ほら、この通り。話してみたらやっぱりいい人」


 やめてくれ。そんな、私は綺麗な人間じゃない。


「……いい人なんかじゃないよ。私、性格も悪いし、友達を困らせてばかりだし、嫌いなものだらけだし……あんたの事だって……嫌いだった」


「……そっか」


 加賀はまた、項垂れる。黒いインクが前に傾く。


「でも、『だった』ってことは、今は嫌いじゃないんでしょ? 私のことが嫌いじゃない人なんて、少なくともクラスにいない。それだけで嬉しい。……ねぇ、戸波さん。私と、友達になって」


 嫌いじゃない……そうか。私は加賀が嫌いじゃないんだ。

 話してみて初めて気づいた。加賀はそんなに変な奴じゃない。自分に正直で、自分を信じられるだけのただの女の子だ。私は何でこんないい人を嫌っていたんだ。馬鹿か。


「……わかった。友達」


 友達になる権利があるのかは正直疑問だったけど、それでも、今となってはたった一人の友達となり得る人だ。簡単に手放す方が辛い。


「あ、ごめん。そろそろ時間。私、帰るね」


 加賀は時計を見て、焦ったように言うと、そそくさと鞄を持って教室から出て行った。一人教室に残された私の心は、すっきりと晴れ渡って――

 いなかった。

 加賀の顔はインクで塗りつぶされたままだ。私が、加賀のことをよく知らないまま否定したばっかりに、私は唯一の友達である加賀の顔を二度と見ることができなくなってしまった。

 私はトイレへ向かった。手洗い場の鏡の前で、自分の顔を凝視する。

 私は何て馬鹿で最低な人間なんだろう。

 人を見た目と、周りの評価だけで決めつけ、心を痛め付け、そして無視した。最悪だ。いくら懺悔したって許されない。

 そんなことを理解しながらも彼女の友達になってしまったことも、許せない。


「私は私が、大嫌いだ」


 そう呟いた瞬間だった。

 鏡に映る私の顔が、みるみる内に真っ黒いインクで塗りつぶされていく。バツ印を描くように、ぐりぐりと、汚く、塗り固められる。


「あ、ああ……そんな……」


 そして、ついに私は私の顔を認識できなくなった。涙が頬を伝っているのが分かるので、多分酷い顔をしているはずだ。

 怖かった。他人の顔が見えなくなっても、ここまでの恐怖は無かったと思う。

 酷い。何なんだ。何なんだ。そもそも何で私の目はおかしくなってしまったんだ。私が悪いのか。それだってこんな仕打ちはないだろう。

 私は見えなくなった自分の顔をまさぐりながら声にならない声を叫ぶ。

なんで私がこんな目に。あああ、頭がおかしくなりそうだ。なんで私なんだ。皆も同じじゃないのか。人を第一印象だけで判断してる奴らばっかりじゃないか。なんで。

 嫌だ。嫌いだ。嫌いだ嫌いだ嫌いだ。

 全部この世界が悪いんだ。

 こんなくそったれな世界、大嫌いだ。



 黒。

 視界一面、黒になった。

 何も見えない。何も無い。

 ……あー、そっか。世界も嫌いになっちゃったから。

 どうなってんだろ。私はどこにいるんだろ。一応、トイレにいるのかな。

 なんて呑気に考えていられたのも一瞬で、ぞわりと恐怖が足元から込み上げてきた。何も無い、暗闇。きっと見えないだけで世界はそこにあるはずだ。つまり、私は全盲になってしまったということなのか。この先、ずっとこの暗闇の中を生きろというのか。そんなの、あんまりだ。私が悪かった。もう何のせいにもしない。逃げない。だからどうか。


「戸波さん?」


 声が。

 加賀の声が聞こえた。

 幻聴かと思ったが、それは確かに加賀の声だった。


「忘れ物ついでに寄ったんだけど……どうしたの? 何してるの?」


 私は必死に真っ黒い視界の中、加賀の体を探し、捉えた。加賀に縋りつき、それはそれは不格好に、惨めに、泣き叫んだ。


「ごめんなさい! もう人を見た目で判断しない! 噂だけで決めつけない! もう誰にも、いじめも、無視も、しない! 誰のせいにも、世界にせいにもしないから! だから、ねぇ! 許して! 加賀! ごめん! ごめんなさい! 栞」


 そこで意識が途切れた。

 ただただ困惑する加賀栞の声が、頭の中に響き、そして気付いたら、どこかのベッドの上にいた。



 見たことのない真っ白い天井。

 点滴を打たれていることに気付いた。


「……ここは?」


 疑問が口から零れ出た。それに答えるように、横から声が聞こえる。


「病院。戸波さん、大丈夫?」


 その声に反応して、私はそっちの方に顔を向けた。

 そこには、一か月半ぶりに見る加賀の顔があった。


「あ、れ?」


 見える。加賀の顔が。見えるのだ。黒いインクも無い。はっきりと、彼女の顔がそこにある。


「私? 私は、戸波さんが心配で、毎日お見舞いに来てるの。戸波さん、トイレで突然倒れて、それから五日間も眠りっぱなしだったんだよ?」


 私の反応を、自分がなぜここにいるのか、という疑問だと勘違いした加賀は、私にそう教えてくれた。


「……五日も……」


 私は言葉を失った。様々なことに。倒れてしまったこと。五日も眠っていたこと。加賀の顔が見えること。

 そして、急に気になりだした。


「鏡、ある?」


 私の突拍子もないその問いに、加賀は不思議そうな表情を浮かべながら、手鏡を渡してくれた。

 その二つ折りの手鏡を、私は恐る恐る開く。

 そこには。

 そこには、私の顔が映っていた。黒く塗りつぶされていることなどない、やつれた顔の私が。

 目から大粒の涙が零れた。何かがプツっと切れてしまったみたいに溢れ出し、止まらなかった。


「ど、どうしたの戸波さん」


 加賀が大袈裟に心配するものだから、私は泣きながら笑った。

 それにつられて、加賀も笑ったのだった。



 数日後。私は無事、退院することができた。

 あの日。目を覚ましたあの日から、もう嫌いなものが見えなくなる、という摩訶不思議な現象はなくなった。

 数日ぶりに家に帰るとき、嫌いだった政治家のポスターや、イカつい犬を見かけた。改めてみると、何だかこいつらも悪くないな、なんて思った。

 学校では相変わらず無視され続けていた。

 一週間以上の休みも、メンタルが病んで不登校になった、なんて噂が流れていたらしい。でも、噂は噂。友達はほぼいなくなったが、そんな噂に惑わされない人と仲良くできれば、それでいい。

私は加賀と、友達になった。



 朝、私はいつも通り食卓でパンを食べていた。少し遅れて、お父さんが食卓に着く。


「あれ? お前ピーナッツバター、嫌いじゃなかったか?」


 お父さんは私が食べているパンに乗っているものを見て、意外そうな顔をして言った。

 私はそれに笑顔で返した。


「食わず嫌いは、もうやめたの」



毎月投稿の二月分です。

基本的に毎月末に短編小説を投稿します。

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