3話
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「優里ちゃん音止めて」
優里と呼ばれた少女は、僕が踊っていたソロの音楽を止めた。しかも、ボリュームを徐々に下げながらでは無く、ブツリと、無表情で。
とても悪意が込められた音の止め方だ。
優里に指示した女性、僕の師であり母でもある夏目昭子先生は、続けて僕に言う。
長年の舞台メイクのせいで普段も濃い化粧をするのが習慣になった彼女は、怒ると元々きつい顔がさらに怖い。
「あのさ、気持ちの入ってないレッスンなんか何回やっても変わんないし、それなら優里ちゃんとかあんたより有望な子のレッスン見た方が有意義だから。時間の無駄。帰っていいよ」
「…すみませんでし「帰っていいよじゃないわ。帰れ。あんたが自習するスペースも無駄だから。優里ちゃんごめんねー、急だけど次優里ちゃんのヴァリエーションやっちゃおっか」
「すみませんでした。音かけだけでもさせてください」
魔女みたいな先生に頭を下げるのも気が狂いそうなくらい嫌だが、彼女に見捨てられれば僕みたいな才能の欠けらも無いダンサーはあとが無い。
それに、今彼女が怒っているのは完全に僕がレッスン以外に気を取られていた結果だから、謝るしかない。
先生は僕を一瞥すると「邪魔」とだけ言ってパイプ椅子に座る。
「じゃ、優里ちゃんオーロラ3幕のヴァリエーション見せて。金子先生に教えてもらった振り付け通りにやってね」
「はい!」
優里は、先程までの無表情が嘘のように柔らかな笑みを浮かべてポーズをとる。
ふわ、と彼女が優美に腕を動かしたと同時に、ラジカセのスイッチを押した。
僕はタイミングぴったりに音をかけられたことにほっとしながら、また石松のことを考えていた。
さすがに理不尽な怒り方をしてしまった。
石松は僕を気遣い、それでいて束縛しすぎないよう気をつけながら接してくれているのだ。これ以上に深い友情はあるまい。
その『適切な友情からの思いやり』が嫌ならば、僕が石松に言うしかなのだ。『僕が欲しいのは友情じゃない』と。
配慮なんていらない。本当はもっと、煮えたぎるように嫉妬して、僕に、石松以外の人間に触れないように言ってくれれば、よろこんで従う。
結局、僕は今の関係を壊すのが怖いだけなんだ。
明日、朝イチで、『昨日はごめん、どうかしてた』なんて茶化して言ってしまえ。そうしたら、石松は僕を心配しながらも許してくれる。
そして、この気持ちも終わりにしてしまおう。
心の中で決着をつけると幾分晴れやかな気持ちになったので、僕は優里の踊る様子をじっと見つめた。
優里が甘やかなバイオリンの旋律に合わせて美しいポールドブラをする。
170cmの長身に見合う長い腕だけれど、少しも持て余さず、指先まで丁寧に動かしている。ポジションの甘さなんて1ミリもみられない、正確な踊り。
14という年齢の割に大人びた雰囲気も、第3幕の方のオーロラ姫というキャラクターにぴったりだ。
いつもは才能豊かな優里と自分を比べて自嘲する。けれど、今日はとても純粋な気持ちで、優里が綺麗だと思った。
やっぱり、少しナイーブになっているのかもしれないな。
レッスン終わりのレベランスをして、次々と帰る準備をする生徒たち。
普段は自習をする生徒が多数だが、今日は優里と僕、そして先生を除いた全員が更衣室へ去っていった。先生に誰かきつく怒られた日は、大抵レッスン後に問いただされるのだ。皆、それを熟知しているからの行動である。
まあ、優里は先生の格別のお気に入りなので、それにはよらないのだが。
「で、今日はなんであんなに気の抜けた踊りだったの」
厳しい眼差しは先生の現役時代の十八番であった『ミルタ』ように冷徹だ。
普段ならここできちんと理由を言う。
そもそも普段の僕はレッスンに集中しないということがないので、こんな事態になるのも初めてである。
パがなかなか習得出来ずに叱られることはあれど、練習態度が咎められるほどアホでもやる気無しでもない。
しかし『幼なじみの男に恋愛対象に見て貰えないのが悲しくて集中できませんでした』とも言えない。
答えあぐねて黙っている僕に、先生は業を煮やして詰め寄る。
「なに、言えないの?あんたは自分の失態を弁明することも出来ない馬鹿なの?」
「…バレエ以外のことに、気を取られてしまって」
ボソリと呟いた僕の言葉に、先生は目を丸くした。
「え、待って。あたしあんたが卑屈なのは元からだけどついにそれをレッスンにまで持ち込み始めたのかと思った、っていうか、この、インフルエンザになって40度の高熱出しても、父親が蒸発しても顔色ひとつ変えないでレッスンするあんたが、バレエ以外のことに気取られて?」
「…そうです」
イエスの返事だけすると、先生は急に眉間のシワを和らげ、ぱっと明るい表情をした。
「…そう、そうなのね。ついに。あのどうしようもないバレエバカが!恋をしたのね!!」
「ちょっと待て、話が飛躍しすぎ」
僕はレッスン中は常に敬語を心がけているのに、つい素で返してしまった。
「なんで、急に恋とか言い出したんですか」
内心を言い当てられてヒヤリとしたものの、冷静になって問いただす。
「だってそれいがいにかんがえられないでしょう?!あんたは小さい頃から妙に器用で、悩むことなんか1個もないじゃない、バレエ以外で!」
「いや、悩みくらいありますよ…思春期ですし」
「じゃあ、何が原因なのよ!」
「…べ、んきょう?」
「はい、嘘。あんた一切勉強しないくせに学年一位以外取ったことないでしょ。受験前日も22:00までレッスンしてた大馬鹿野郎のくせに!はい、けってーい!とうとううちの息子が恋煩い!」
年甲斐もなく興奮する彼女には、レッスン中の厳格さなど少しも残っていない。こうなったらもう彼女は次のレッスンが始まるまでこの調子だろう。
芸術家らしく、感情の起伏が激しい人なのだ。
そんなよく分からない親子の問答をしている間も、優里は無表情で完璧なアティチュードの練習をしていた。
思ったよりも説教は早く幕を閉じたのでまだ自習をする時間がある。すこぶる機嫌のいい先生が、中途半端に終わってしまった僕のヴァリエーションを見てくれることになった。
優里が踊るオーロラ姫と対をなすキャラクター・デジレ王子。勇壮かつ流麗な音楽は正しく王子。
テクニックが難しいのは勿論だが、細かな一つ一つのパを丁寧に行いながらも、一連の動きが滑らかでなければいけない。だからといって修羅場をくぐりぬけた王子の精悍さが無くなってしまってもダメ。
正統派王子たる端正な踊りは、キャラクテールを演じるよりずっと手強い。
ひと通り注意をして、直して、また1曲通して踊る、という工程を続けていると、ヴァリエーション自体は1分程度の短さであるのに、既に1時間が経過していた。
時計の針が示すは22:54。21:30がレッスン終了時間で、自習ができるのは23:00まで。そろそろスタジオを閉める時間だ。
優里はスタジオに併設された僕の家に居候しているから問題ないけれど、夜遅くなれば危ないのには違いないので、いつも一緒に帰る。
ずっとスタジオの隅で新しいポアントを慣らす作業をしていた優里も、荷物をまとめて更衣室へ向かおうとしていた。
僕も同様に、先生にレベランスをして、スタジオを去ろうとすると、先生に呼び止められた。
「蓉、優里。大事な話があるから。ちょっと待ちなさい」
「「はい」」
返事は被ったけれど、僕らはお互いにお互いを無視する関係なので、『うふふ、被ったわね♡』なんて甘いやり取りも『はっ?被せてんじゃねぇよ!!』とツンツントゲドゲすることも無い。
「あたしは2人を今度の全国バレコンに出場させようと思っているの、分かってるわよね?」
「はい、だから私たちは新しいヴァリエーションを練習し始めたんですよね」
優里がそう言って肯定すると、先生は満足気に頷いて、さらに続ける。
「そうなの、最初は蓉と優里でパ・ド・ドゥ部門に出させようと思ってたの。年齢的にも1回本格的にグランパ・ド・ドゥやらせてみようと思ってたし。でもね、今日のお互いの踊りを見て決めたわ」
先生はそこで言葉を1度きり、僕と優里を交互に見た。
「優里はソロ、蓉は別の教室の子と組ませます!」