1話
人は、何かを得るために、同時に何かを失わなければならないと言う。
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「…なあ、蓉!」
頭上で突然ボリュームアップした高い声に、僕はポナピー星へと飛ばしていた意識を1年B組教室の真ん中で騒ぐ男子たちの会話に戻す。
「ま~たお前はどっか意識飛ばしてたんだろ、ほんとにしょうがねぇやつだなぁ。そんで、蓉。お前は誰よ」
「誰って、お前の言う通り、蓉だけど」
「違うっつーの。お前最初から聞いてなかったのかよ。クラスで1番の美女っつったら誰よって話してたじゃん」
下世話な内容をクラスのど真ん中で、しかも大声で話す同輩・翔介は、ある意味では尊敬に値するほどの度胸を備えた男である。
しかしそれを発揮する場は今ではないことは確かだ。少なくとも僕は彼を敬いは摺れど真似をしようとは思わない。
なぜなら、僕はまだクラスの女子全員から白い目を向けられてもかまわないと言えるほどに達観していないからだ。
よって、僕は逃げることにした。
「あんまりそういうこと考えたことないからわかんないや」
周りの女子たちが「ほら、やっぱり蓉くんは違うよねぇ!」なんてキャッキャしているのを確認し、自分が彼女らの期待通りの回答をしたことに安堵した僕は、持っていた文庫本を取り出して読み始める。
しかし、その本は僕が読みかけのページを開く前に手元を離れた。翔介が奪い取ったのだ。
「何すんの」
「何すんのじゃねぇよぉ。普通人と話してる時に堂々と読書しはじめる馬鹿がいるかよ。考えたことねぇなら今考えればいいじゃん」
翔介の言うことは全くもって正論である。人と話している時に別のことをしてはいけません、やったことが無いことにも挑戦しましょう、なんていうのは小学校の小さい子が言われることだ。
ただ、考えない方がいいこともあるというものだ。人生には有耶無耶にしてしまった方がいいことのほうがハッキリさせるべきことよりも多くあるに違いない。
いや、そもそも、そんな小難しいことではないのだ。今考えるべきは、クラス1の美女ではなく、クラスの大半の女子から軽蔑されずに済む方法であるというだけだ。
「…翔介。お前はそんなんだからモテないんだぞ」
もう1人、僕の席の前で談笑を興じる男子たちの中に僕と同様な思考をする人間がいた。
縁なし眼鏡が良く似合う、色男。まだ15の少年に合う表現では無いが、それがこの石松にはしっくりくるから相当な艶っぽさである。
ワイシャツをキッチリと第1ボタンまでとめているにもかかわらず匂い立つ色気は、彼に取り巻く数々の色めいた噂に更なる確証を持たせる。
最近の噂では、彼はついに隣のクラスの女教師を食ってしまったということになっている。
「ひゃあ、やっぱり学校1のイケメンは女子ウケが気になるんですね?そういえば、とうとうタカハシセンセーを召し上がったとの噂ですが、そこのところホントなんですか?!」
「あっそれ俺も知りたい、どーやったんだよ」
「ど、どうやったって、何をだよ」
「「ナニを」」
翔介を筆頭に数人いた男子たちは全員石松のほうに興味津々なようで、「やめろっ…」と訴える石松を寄って集って拘束し、根掘り葉掘り聴き始めた。
やっと彼らの注意から離れることが出来た僕は、 翔介が無造作に隣の机に置いた本を取り戻して読む。
乱暴な扱いをされた「高慢と偏見」は、古びたカバーが折れてしまっていた。
「ねえ」
何とかカバーを元に戻そうと僕が挌闘していると、丁度先程翔介が僕の本を置いた机に座る少女から声をかけられた。
ああ、断りもなく他人の机に本を置き、さらに謝りもせずにそれを引き戻すなんて。失念していた。
「あ、ごめん。勝手に本置いたりして」
「ううん、それはいいんだけど、ほんとに、本当にそれは気にしていなくて……男子もそういうの読むんだね」
好奇心で瞳を煌めかせた彼女は、その気持ちを無理やり押さえつけるように、やや掠れた声で尋ねた。
「わたし、そういう小説って男子は興味ないんだと思ってた。ね、若草物語なんかも読んだことあるの?」
こちらが見ていて痛々しいくらいに必死な目をして、しかしあくまでひっそりとした口調はそのままで、梨川さんは僕に話しかける。
「まあ。若草物語も読んだことあるかな」
「そうなの?!わたしは5回は読んだ。やっぱり、西野くんも、『ジョー』が好き?」
「いや。僕はジョーよりは『ベス』が好きかな。やっぱり、ってことは梨川さんはジョーが好きなの?」
「ううんまさか!わたしもジョーよりベス派!若草物語が好きな女子って大半がジョー派で、若草女子イコールジョー派みたいな感じだから。わたしはジョーが唯一嫌いなキャラだし。うー、やっぱり、ベスだよねぇっ」
もしも彼女の言う通り『若草女子イコールジョー派』という図式が成り立つならば、彼女は全世界の若草物語ファンを敵に回したことになるが、それは突っ込まないでおいた。
というか、『若草女子』という種類の女子、ましてや『ジョー派』『ベス派』などという派閥があるなんて知らなかった。
早口で呟きながら頬をゆるめてた梨川さんは、急にハッとした表情になる。
「ごめんっ、熱くなっちゃって。本当に、ごめん。なんだ、若草女子って…よもぎ団子マニアとか…?」
なるほど、若草女子なるものは梨川さんの脳内で生み出された分類らしい。それよりも、よもぎ団子マニアの方が気になるのだが。
「…ううん、気にしないで」
僕は、普段と様子の異なる梨川さんが、もっと詳しくいえば梨川さんの『よもぎ団子マニア』という発言が気になって仕方なかったけれど、とりあえず読書に戻ることにした。
すっかり元の楚々とした様子を取り戻した梨川さんも、僕とは別のイラストカバーに包まれた『高慢と偏見』を読んでいた。