8. 挿話――この章は堂林凛三郎の手記にあらず
一月五日の勤務を終えた蓮見悠人は、細川診療所をあとにした。看護師たちは全員、すでに帰宅しており、出るのは彼が最後であった。
いつもどおり、Nバスが診療所のすぐ前にある細川停留所に、十八時五分にやって来た。乗っている乗客は五人だった。そのうち、最初の一人が次の細川広見停留所で降り、中学生の三人組がぺちゃくちゃと楽しそうにしゃべっていたが、巣原停留所で男女の二人が降りて、桐久保停留所でもう一人の女の子も降りていった。
残った一人の乗客はお婆さんだ。実は、この老婆とは顔見知りである。阿蔵に住んでいる婦人で、阿蔵から見れば逆回転の遠回りとなってしまうこのバスに、よく乗っているからだ。彼が降りる下七首停留所を過ぎれば、Nバスは来た道を引き返して、ふたたび巣原停留所まで戻る。その後、ようやく阿蔵地区へと向かうのだ。
予定時刻の十八時二十二分に、七首部落の下七首停留所で、彼はバスから降りた。降りる時に運転手に「ありがとう」と一言礼をいうのも、毎日の恒例となっている。
自宅へ向かうさびしいのぼり坂を、蓮見悠人は一人切りで歩いていた。この時期ともなれば、もう陽は沈んで夜になっている。電灯もないこの小道は、慣れていなければ通るのを躊躇したくなるほどの漆黒の深い闇に包まれる。しかし、彼にとっては、毎日通うごく当たり前の通勤路に過ぎない。
旧七首村地区で唯一残った診療所に勤務するたった一人の医師、蓮見悠人は、足を滑らさないよう細心の注意を払いながら、誰もいないはずの凍てついた石段を一歩一歩のぼり詰めていった……。