6. 名家の未亡人
由緒ある六条家の今の当主は、この房江夫人である。普段から着こなしているのか、鶯色の着物姿が妙にさまになっている。ぱっと見た感じでは三十台半ばに見えなくもないが、実年齢は驚くなかれ、五十三歳ということだ。
彼女は、ここからさらに北上した豊根村三沢地区の出身で、三十三年前に、弱冠二十歳でこの阿蔵の六条家へ嫁いでいる。夫の六条勝之とは、年齢差が十一もあったが、その後、二十二歳で一人息子の道彦を産んで、夫とともに六条家を長年にわたって支えてきた。その夫は五年前に肺炎で死去している。享年五十九歳であった。
六条房江夫人は、絹のハンカチで目元を押さえながら、家政婦に抱きかかえられて、よろよろと部屋の中へ入ってきた。よほど一人息子の死というショックが大きかったようだ。
「この度はご愁傷さまでした。心からお悔やみ申しあげます。お疲れん最中、まことに申し訳ありませんが、ご子息を手んかけた憎き犯人逮捕のために、ぜひとも、奥さまのご協力をお願いしたいんです」
といって、別所警部補が深々と頭を下げた。
「ええ、ええ。喜んで協力をさせていただきますよ。道彦さんをおとしめた犯人を捕らえられるのなら、わたしはどんな苦行でもお受けいたしましょう。
わたしがいうのもなんですが、あの子はぜんぜん手のかからない、とっても良い子でした。あんなに良い子が早々に死んでしまって、そうではない連中がのうのうと生きているなんて、世の中ってつくづく不公平なものですわ」
「不公平ですか?」
「そうですよ。道彦さんが殺されたのに、道彦さんをたぶらかした悪党どもは、悠々自適に生活しているのですからね」
いきなり話が進展してしまい、別所が目を丸くした。
「悪党とねぇ……。誰なんですか、そいつらは?」
「平川と西淵の二人組です。道彦さんをおどかして、さんざん我が家のお金を巻きあげていった極悪人ですわ。ああ、思い出すのも汚らわしい……」
「平川と西淵――。その二人は、ご子息とはどういう関係ですか?」
「同級生です。小中高と、ずっと……」
「なるほどねえ」
別所はなめらかにあいづちを打った。
「ところで、その二人は、今どこに住んでいますか?」
たまらずに俺は口を挟んでしまった。すかさず、タヌキとキツネからの好ましからざる視線が浴びせられる。房江夫人はそれには気付かずに、俺の問いかけに素直に応じた。
「平川猛成――。家は三河大野駅の町中にあります。町といっても、まあここから見ると町かしらということで、所詮はたいしたことありませんけどね。たしか、鳳凰東小学校の近くでしたわ。昔は阿蔵にもちゃんと小学校がありましたのよ。それもなくなってしまって、それに、山の上にひとつだけ残っていた七首小学校も、十年ほど前に閉校になってしまいました。あら、十五年前かしら……? そうそう、道彦さんが五年生になった時だから、あれはもう二十年前になってしまったんだわ。月日が経つのって本当に早いものですねえ。それで、その時に、七首小に通っていた西淵が、鳳凰東小へ編入してきたんですよ。ああ、今にして思えば、それが全ての災厄の始まりでしたわ……」
「ええと、平川が大野に住んどって、西淵は七首に住んどったわけですね」
「そうですわ。今でも同じ場所にいますよ。二人とも」
「そんから、ここいら阿蔵地区に住む児童は、ふもとの鳳凰東小学校まで通っていたと……」
「そうです。Nバスに乗って、そりゃあもう、通うだけでも大変なんですから。阿蔵から直接大野へ行くバスが朝は出ないから、毎朝七時十六分に阿蔵を通るバスに乗って、巣原で一旦バスから降りるんです。それから、七首からやって来たバスに乗って、ようやく大野の町へ着くんですよ。巣原バス停でも十五分も寒い中を待たなきゃいけないし、こんなに早くから家を出ても、学校に着くのは八時過ぎになってしまいます。道彦さんが、ただでさえ学校に行きたくないと駄々をこねてしまうのも、よおく分りますわ。それだけならまだしも、五年生になると、七首小の閉校にともなって、七首に住んでいる悪童、西淵庸平が大野行きのバスに乗って来るようになったんですよ。逢いたくなくてもバスはこれしかないのですから、巣原のバス停からは、道彦さんは西淵にどうしても毎朝顔を合わせなければならなかったのです。西淵に平川――、あの二人はそろいもそろって強靭な体格をした大男なんです。それに対して道彦さんはあのような華奢な子だったし、ああ、どんなに道彦さんがつらかったのか。田舎の生活って、都会の人には想像ができないようなたくさんの恐怖がございましてよ」
「それでご子息は実際にたかられとったわけですね。そん二人組に……」
「西淵こそ悪魔のように恐ろしくて狡猾な男ですわ。そして、平川は凶悪で乱暴な暴力をふるう野蛮人。うちがお金持ちだと知ると、やつらは道彦さんにでれでれと近づいてきたのです。まるでハイエナですわね」
その後も、房江夫人の話は続いたが、おおむねの内容は、平川と西淵への愚痴ばかりであった。
尋問を終えて部屋から出たところで、タヌキがおもむろに俺に問いかけてきた。
「夫人の印象はどうでしたか? 東京から来た探偵さん」
「そうですね。無意味に過保護かなって感じがしました。あんなに親からチヤホヤされると、かえって息子は、素直でなくなってしまうのではないですかねえ」
「同感です。まあ、こん二人の不良のうちのどっちかが犯人であってくれれば、手間が省けてありがたいんですけどなあ。はははっ。それではついでに、下女にも会っておきましょうか」
六条家の家政婦、笠圭子は、小太りの中年女性で、普段着の黒い着物の上に割烹着を羽織って、頭には髪留めの白手拭いを巻いていた。
「警察の方の尋問なんて、どきどきしてしまいますわ。まさか、わたくしが犯人だなんてお疑いがかかっているのでしょうか?」
「いえ、その点はご心配なさらずに。我々は現場にいる人の全てから情報を得るために、順番にお話をうかがっているだけなのですから。
最初に現場を発見されたんが、たしか、笠さんだったそうですね」
例のごとく、別所はにこにこ顔で話をうながした。
「はい、離れを覗いてみたら、坊ちゃんが、それはまあ、残酷なお姿で……。わたくしは心の臓が止まってしまうかと思いましたわ」
「時刻はいつ頃でしたか?」
「七時前ですわ。正確には、六時半くらいだったかしら?」
「そん時の状況を説明してください」
「それはもう、とても寒い早朝で、雪こそ降ってはいなかったけれど、地面には真っ白な雪が積もっていましたわ。きっと、昨晩に降ったのでしょうね。
朝ごはんの仕度をしていたわたくしは、薪が無くなりかけていることに気付きましたの。それで、離れにならまだあるかなと思って、薪を取りに離れまで歩いてきました。ついでに、道彦坊ちゃんもお呼びして来ればよいですからね」
「道彦さんが離れにいらっしゃることは、あなたはご存じだったわけですか?」
「いいえ。でも、どうせ離れにいるんです。そんなの決まってます。道彦坊ちゃんは母屋より離れの方がお好きでしたからね。理由はよく分かりませんが、落ち着くそうですよ、離れの方が。
それに、今朝、母屋のお部屋には、道彦坊ちゃんのお姿はありませんでしたからね。こんな時は、いつも離れにいるんですよ」
「なるほど。そして、離れまでやって来て、笠さんはどうされました?」
「戸を開けて中へ入りましたわ。それから薪を見つけて、それを持ち出してから、ふと土間に目を向けた時……。ああ、恐ろしい。うつ伏せている道彦坊ちゃんの頭が、血で真っ赤になっていて、わたくし、大急ぎで奥さまをお呼びいたしました」
「その時に、坊ちゃんに手を触れたりしましたか?」
「いえ、そんな怖いこと……。
それから、奥さまといっしょに、もう一度離れまでやって来て、今度は外から中を覗いてみました。ちょうど戸は開けたままにしておりましたからね。でも、その時の奥さまのご様子といったら、もう失神される寸前でしたのよ。わたくしが抱きかかえて、どうにか母屋まで連れて行って、それから警察へは、電話いたしました。その時の時刻は、もう七時頃だったように思います。
警察がやって来るまでの時間が長かったこと。それはもう、女が二人しかいないのですからねえ。万が一、犯人が屋敷内に隠れ潜んでいようものなら……」
「そいつはさぞ大変でしたね」
別所警部補がねぎらう横から、俺が割り込んだ。
「あのう、あなたが道彦さんを発見された時に、離れにほかの人はいませんでしたか?」
「えっ、その時にまだ犯人が離れにいた、ということですか?」
家政婦はポカンとしていた。
「それは断言できませんが、いたとしてもおかしくないんで、いちおう訊ねてみたのです。入口付近に残された足跡はご覧になりましたか? 離れには道彦氏の足跡といっしょにもう一人の足跡も残っていたのです」
「いえ、そこまではわたくしは見ませんでしたけど。なにしろ、動顛していましたので……。まずかったでしょうか?」
「はははっ。いや、大丈夫ですよ。誰でもそのような光景を見られたら、少なからず冷静ではいられなくなっちまいますからなあ」
すかさず、別所がなだめると、笠はほっとした表情を見せた。
「実を申しますと、ここだけの話――、六条家にはもう昔の力はなくなってしまい、お金の工面も苦しいんですよ。多い時には八人もいた奉公人も、現在はわたくしのただ一人。お給金だってほんの雀の涙です。なにしろ道彦坊ちゃんは働かずにぶらぶらしているだけだし、奥さまだって見栄もあるので、庶民のように汗水たらしてまで仕事をしようとはなさいませんからね。旦那さまがお亡くなりになってしまうと、もう後は崩れ落ちるばかり。たくさん所持している近辺の山々をちょっとずつ売りながら、生活費にあてているのが現状です」
「ご主人が……、そのお、先代の旦那さんがお亡くなりになったんは、いつのことですか?」
「五年前ですわ。大黒柱がお亡くなりになったのに、道彦坊ちゃんはあいかわらず引き籠もっているばかりだし」
「道彦さんはお仕事には就いてなかったんですね。奥さまのお話によると、お友達にもさぞかし恵まれていなかったそうですな。平川と西淵という二人連れですが、なんでも坊ちゃんがお金持ちということで、金品をいろいろたかられて困っておった、とうかがっておりますが」
別所はさりげなく断定した。
「奥さまがそうおっしゃったのですか?」
「はい。先ほどのお話ん中では、そのように……」
家政婦の笠圭子は、大きくフーっとため息をつくと、別所警部補をいったんにらみ返してから、少し間をおいて、静かに口を開いた。
「道彦坊ちゃんはね――、とんでもない不良でしたわ……」