5. 阿蔵の六条家
けたたましいサイレン音とともに、おびただしい台数のパトカーが詰め寄せて、山奥の静かなこの里は、朝っぱらからあわただしくごった返していた。わずかしかいないはずの住民のほとんどが、驚いて家の外へ飛び出しており、そろいもそろってみなが心配そうに視線をあびせかけているのが、高台にたたずむ旧家の巨大屋敷だ。天までそびえるような防風林は、まさに要塞を思わせる。その中から、どす黒いかわら屋根が、葉の落ちた落葉樹の合間にかろうじてかいま見ることができた。最寄りの里道から屋敷まで通ずるのぼり坂があって、いちおう混凝土で舗装されているものの、車一台が通るのがやっとの狭い小道だった。そこをのぼり切った敷地に、数台のパトカーが尻をこちら側へ向けながら、今にも落ちそうな状態で停車しているのだから、それはもう、圧巻の一言に尽きる。
俺はかまわず小道をとぼとぼ進んでいったが、それを見かねた一人の警官がひょこひょこと近寄ってきた。
「ああ、これこれ、そこん君……、こん屋敷に勝手に近づいちゃぁいかんですよ」
しゃべり方のわりに、まだ若くて、いかにも人の良さそうな巡査である。
「あのお――、なんか事件があったのですか?」
俺は単刀直入に質問した。
「ええと……、軽率に口にしちゃぁいかんといわれちょるけんど、六条跡取りのお坊ちゃまが、今朝早ぉに、急に亡くなったそうだに」
不意を打たれた巡査が、もごもごと答えた。
「六条のお坊ちゃん? 六条って、この屋敷の住民の名前か?」
反射的に口にした俺の言葉に、巡査が目を丸くした。
「おい、あんた――、誰だぁ。さては、ここいらん衆じゃねえな?」
獲物をみつけた変色龍のように、巡査がじりじりとにじり寄ってくる。ここで追い返されるようだと事は面倒だと判断した俺は、落ち着き払って内ポケットから切り札を取り出した。
「実は、昨日のことなのですが、わたしはこのような奇妙なメールを受け取りましてね……」
「ううっ……。こ、これは――」
メールがコピーされた用紙を手にした巡査は、驚きのあまり二、三歩後ろへ引き下がって、あやうく尻もちをつきそうになった。想定外の大げさな反応は、まさに田舎もの丸出しといったところだ。
「わたしは私立探偵の堂林と申します。
人には賢い人、愚かな人がいるとはいえ、それぞれひとつやふたつの才能がない人はいない――と、かの吉田松陰先生の名言にもありますように、この事件が万が一殺人ということになれば、わたしの豊富な経験と知識、および犯人からのメールの連絡先となっている諸事情などを考慮しても、少なからず警察にはご助力できると思いますが、いかがでしょう、わたしを捜査の一員に加えてはいただけないでしょうか」
こうなっては多少のはったりもやむを得ない。俺は『私立探偵、堂林凛三郎』と書かれた名刺を一枚、若い巡査に手渡した。名刺には所沢事務所の住所と電話番号も記載されている。話はそれるが、俺は常に二種類の名刺を携帯している。一つは『なんでも屋』という肩書きの名刺で、もう一つは『私立探偵』という肩書きのものだ。本音をいうと、なんでも屋の名刺で万事の要件を済ませたいところだが、なにぶん、なんでも屋という商売を正しく理解しない堅物も世の中には依然としてはびこっている。その筆頭が、警察とかいう連中ことだ。そんな時には、この私立探偵という無難な肩書きの入った名刺が効力を発揮するというわけだ。
「うむぅ、そんなら、ちょこっとだけ、ここで待っとりん。今、主任警部に確認を取ってくるで――」
こうして、ほどなく戻ってきた巡査に連行されながら、俺はどうどう、六条家という豪邸の敷居を突破することに成功した。
まあ、とにもかくにも、すごいお屋敷だ。悔しいけれど、それ以外の形容詞が全く浮かんでこない。玄関をくぐってすぐのところに大部屋があった。もちろん畳の間である。ところがこいつが都会で見慣れた六畳、八畳とかいったそんじょそこらの尋常な広さではない。少なくともその倍の十六畳はあろうかという巨大な部屋だった。さらに奥の襖を開けてみれば、その向こうにもまた畳の小部屋があり、小部屋といっても八畳間であるが、そのまた襖の向こうにもさらに小部屋がと、ひたすらかぎりなく連なっている。ちょうど五回繰り返したであろうか。どうやら屋敷の突き当りまでたどり着けたようで、眼前には、左右に開かれた雪見障子の先に、白茶色のひのき材を敷き詰めた風情ある縁側が横たわっていた。
縁側でひそひそ話をしていた二人のうちの若い方が俺に気付いて、手招きをした。年配の方は、タヌキのように腹が出た小男で、後ろ手を組んでふんぞり返っている。対して、ぺこぺこと頭を下げながら前手を組んでいる若い方は、まるでしっぽを振っているキツネのようなやせ男である。
「堂林さんですね。新郷署に勤務する千田巡査部長です。そして、こちらに見えるお方が、豊橋署からわざわざお越しになられた、別所警部補です」
キツネがさっと右手を差し出すと、タヌキは俺にいちべつをくれて満足げに軽くうなずいた。
「そして、このわたくしめが、堀ノ内巡査であります。弱冠二十六歳。独身。こっからすぐ近くの大野駐在所に勤務しちょります」
誰も訊いてないのに、後ろに立っていた先ほどの巡査が、敬礼をしながら、自己紹介をした。
「私立探偵の堂林凛三郎です。今回は勝手なお願いをお聞き入れくださり、まことに感謝しております」
と挨拶をしかけた時、俺のスマホが鳴った。
「ちょっと失礼」
慌てた俺は、別所警部補に頭を下げると、小走りに部屋の隅へ行って、電話に応じる。発信元は所沢の事務所だった。
「凛三郎だ。リーサか?」
「はーい、リーサです。リンザブロウさん。たった今、愛知県警豊橋署のベップとかいう警部補から、事務所にお電話がありましたです」
電話応接ができるほどにまで高性能な集音器と人工知能を有するリーサではあるが、人の名前の把握はどうも苦手らしい。いわんや、電話を通して相手が発した言葉を聞き取ってのことであるから、正確に認識できなくても致し方ない。
「ベッショ警部補だ――。ベッショ」
「ベッショ……?」
「そうだ、ベッショ。漢字は、区別するの『別』に、場所の『所』だよ」
俺はリーサの間違いを訂正してやった。
「ベツトコロと書いてベッショと読むのですね。……。リーサ、認識しました」
「それで、その別所警部補が、電話でなんといっていたんだ?」
「はーい、警部補さんは、まず最初にここが本当に堂林探偵事務所なのかどうかを訊ねてから、リンザブロウさんという人物が本当に実在するのかどうかを、リーサに訊ねてきました」
「それでお前が俺のことを警部補に伝えてくれたというわけか。そうか、リーサ、グッド・ジョブだったな」
「はーい、どうも致しまして。お安いご用でーす」
「それじゃあ、また必要があったら連絡する」
俺はリーサとの通信を切ると、再び別所警部補たちのところへ戻った。
「さっそくわたしの事務所へ連絡をされたみたいですね」
俺はさりげなく切り出した。もちろんたっぷりと皮肉を込めた発言であるのだが。
「ああ、先ほどあなたがここへいらっしゃる間に、電話で確認をさせていただきましたところ、お若い奥さんが応じられましたよ」
と、別所はすまし顔だ。まさにこいつはタヌキだ。
奥さん……? 最近のリーサは、みずからを妻と語って電話に出ているのか。購入したばかりの頃は『妹』と名のり、次は『娘』と称して応対していたみたいだが、ついに『妻』と名のるまでになってしまったのか……。畜生――。そういえば、半年前のメインテナンスの返納時に、技術者の雨宮が、奴とは学生時代からの腐れ縁だが、なにやらあやしげ含み笑いをしていた。きっとその時に、いらぬプログラミングがほどこされてしまったのだろう。またもや苦情ネタが一つ増えてしまった……。
「さしつかえなければ、事件の概要をご説明いただけませんか?」
俺は別所警部補に訊ねてみた。
「ああ、もちろんですよ。じゃあ、千田――。東京からやって来た私立探偵さんに詳細を教えてやってくれ」
タヌキに命じられたキツネは、いくぶん面倒くさそうな仕草を見せたが、淡々と事件の説明を始めた。
「事件が起こったのは今朝、十二月二十八日の未明です。殺された被害者は、この阿蔵屋敷の跡取り息子である、六条道彦、三十歳です。妻子はおらず一人身です」
「あの、さっそく質問よろしいですか? 阿蔵屋敷って、この家のことですか? そのお――、『阿蔵』というのは、たしかこの地区の名前だった気がしたので……」
「そうです。こん辺りでは代々、部落を代表する庄屋さんちの屋号を、部落名で呼ぶことにしちょります。んだから、巣原地区の竹内家のことは『巣原』、七首地区の蓮見家のことは『七首』と、みなぁ呼んどりますです。はい」
と、後ろで控えていた堀ノ内巡査が、我慢できなくなって割り込んできた。
「えへん。それから、殺人現場ですが――」
千田巡査部長は、堀ノ内にひとにらみ利かせてから、再び事件の説明に話を戻した。
「現場はこの屋敷の離れになっている陶工房です。工房の建物の中で、被害者は轆轤の上に顔をうつぶせにしたままで死んでいたそうです」
「家の中に陶工房?」
「そうです。もともとこん地区では陶器産業がようさん行われとったし、六条家っちゃぁ、そりゃあ、なにぶんでっけぇお屋敷ですからねえ。工房の一つや二つ持っとっても、ちいとも不思議じゃありませんって。
まあ、もっとも最近はぁ、陶器産業もすっかりすたれちまって、こと先代がお亡くなりになっちまった後は、阿蔵屋敷の工房は、全く使われちょらんかったと思いますに」
またもや、堀ノ内巡査がでしゃばって割り込んだ。千田のにらみは全然効いていないようだ。
「先代とは……?」
「六条勝之さま。六条家のかつての主ですけんど、五年前に肺炎にかかって、死去されちょります。今回、お殺されになられた道彦お坊ちゃまのお父上であらせられますに」
死んだ被害者にまで敬語を使う堀ノ内がなにげにおかしかったが、俺はどうにか笑いをこらえることができた。
「ふーん、全く使われなくなった離れの工房で、名家の跡取りが、無残にも惨殺されたってことか……」
すると別所警部補が手をポンと叩いた。
「そうだ。いっそのこと、現場を直に見てくれりゃいいじゃんか。千田――、東京から来た私立探偵さんを、現場に案内しておやりん」
のちに分かったことだが、『案内しておやりん』とは、『案内しておあげなさい』という、この地区独特の方言だそうだ。そのあとで、タヌキは堀ノ内巡査になにやら耳打ちをすると、いっしょに別の部屋へ消えていった。貧乏くじをひかされた千田巡査部長は、じゃあこちらへ、と俺に一言告げてから、すたすたと歩き始めた。
先を行く千田巡査部長の細い肩を眺めながら、まんまと捜査陣の一員に加われたことを、俺は内心ほくそえんでいた。田舎の山猿どもめ、ちょろいもんだぜ……。
六条家の離れは、母屋から伸びる石畳の小道をちょっと歩いて、納屋と蔵の建物の狭い透き間を通り抜けると、右手に竹林を眺めながら少し進んだその先にあった。六条家には建物が六つある。母屋に納屋、蔵に、使用人たちの宿泊所――こいつは、いちおう、母屋と廊下でつながっている。それから、薪にするための大量の丸木や農機具および自家用車が格納される駐車場と、離れの陶工房だ。
さて、その陶工房であるが、これだけ距離があると、少々の物音がしたところで母屋まではとうてい聞こえまい。深夜未明の犯行を誰にも気付かれずに、犯人が悠々と逃亡できた可能性も、十二分にあるように思われる。
昨晩降った雪が地面をうっすらと覆っていた。温暖化がすさまじい近年でも、さすがこのくらいの山奥の里となると、十二月の暮れであれば、雪はそれなりに降るようだ。しかし、通路の上に残された足跡は、複数の人間のものでぐしゃぐしゃにされていた。
「この現場の雪の足跡はどうなっていたんですかねえ」
心配になって、俺は千田巡査部長に訊ねてみた。
「ああ、大丈夫ですよ。今でこそ、捜査員たちの足跡も混在して、ごちゃごちゃになっちゃいましたけど、きちんと現場の写真を撮って、よーく調べてから、その後で建物の中へ入りましたからね……。おかげで、今朝の八時から小一時間、寒い中、我々はこの建物に入れもしませんでしたからねえ」
「それで、その足跡は?」
「全部で三つありました。被害者の足跡と、もう一人の謎の人物の足跡が、似たような経路を通っていっしょに建物へ入っていました。しかし、謎の人物は、その後で、建物を出て、駐車場の裏を経由して、敷地外へ出ています。あとは、遺体を発見した下女が往復した足跡ですね。こちらはわらでできた長靴を履いていますから、すぐに判別ができます」
「その二つの足跡ははっきり区別できたわけですね。そのお、疑問なんですが、建物から出て行った方の足跡は、被害者のものではないと断定できたのですか?」
「はい、被害者が履いていた防水運動靴は、土間の下足置き場に残っていましたからね。家の者も、それが被害者の靴であることを証言していますし」
「あと、もう一人の謎の人物の足跡は、男性のものでしたか?」
「足型のサイズだけを考慮すると、男性のようにも思えますが、なにしろこちらは編上げ靴でしたからねえ。女性が履いても安定して歩けると思うし、男女の判別はできかねますね」
「足の大きさだけでなくとも、そのお、雪の埋まり具合とか、歩幅とかでは……」
「まあ、雪はうっすらと積もっているだけで、下は固い石畳ですから、足跡の埋まり具合からその人物の体重の推定まではできません。また、歩幅も、被害者の道彦のと比べると、若干小幅気味でしたが、やはり男女の判別の決め手にはなりませんね」
「編上げ靴の方は、特定できているのですか?」
「いえ、全く……」
まあ、そんなとこだろう。そう簡単に事が片付くとは、こちらも期待してはいない……。
「ああ、それから、離れの入口までは到達していないですが、すぐ近くまでやって来た二人の足跡も確認されています。一人は先ほどの下女のわら長靴で、もう一人はなんとつっかけでした。おそらく、遺体を発見した下女が、母屋に引き返して女主人を呼んでから、再びここまで戻って来たのでしょう」
「女主人?」
「はい。六条家の現在の当主は、房江夫人――、被害者の母親です」
なるほど。雪の中をつっかけでやって来るほど慌てていたということだな。
「遺体が発見されたのは何時ですか?」
「七時頃だと聞いています。それから新郷署に通報があって、真っ先にかけつけた堀ノ内巡査がここへ到着したのがその二十分後。そのあとで、わたしたち新郷署の警察官が、八時前には駆けつけました。しかし、豊橋署の別所警部補が見えたのは、たしか九時を過ぎていましたね。それから、警部補に現場の説明をしている途中で、突如あなたが現れたというわけですよ」
「昨晩、雪が降り始めた時刻は?」
「よく分かりませんが、たぶん深夜遅くに降り出したんだと思います。昨日の夕方は、晴れていましたからね」
千田巡査部長がガラス戸をこつこつと叩いて、入口にでんと立ちふさがっている巡査を呼んで軽く耳打ちをした。巡査は俺に一礼をすると、すっと引き下がった。ガラス越しに中を覗いてみると、三人の警官が、指紋採取などの現場検証を、まだいそいそと行っている最中であった。
少々建てつけが悪くなったガラス格子の引き戸をこじ開けて中へ入ると、ひんやりと冷気を発する三和土の土間が広がっていて、その中央に当たる大黒柱からちょっと離れた位置に、煙突付きの達磨型をした大きな鋳物ストーブが置いてあって、近くには燃料となる薪の束が乱雑に積んであった。その向こうには、腰の高さくらいの段差があって、上部は畳の六畳間となっていた。段差の手前には下足置き場用に床板が敷かれ、上には、被害者が履いていた例の黒い運動靴が一足、ちょこんと乗っていた。靴からしたたり落ちた泥水で、床板はびしょびしょに濡れていた。段差の上の六畳間では、中央にコタツがあり、小さな古箪笥の脇の壁際に、三つ折りに丸められた布団が乱雑に押しやられていた。コタツの上の灰皿の中は、吸殻でいっぱいになっていて、空となった日本酒の大瓶がそばにころりと転がっていた。年代物の振り子時計が壁にかかっていて、チクタクと耳障りな音を立てながら、時を刻んでいる。コンセントが外された古テレビが一応置いてはあるが、デジタル対応製品には見えないから、おそらくスイッチを入れたところで何も映らないのであろう。
「コタツは点いたままでしたか」
「はい、遺体の発見時には、コタツが点いていて、ラジオもかかっていましたし、もちろん電灯は点いていました。今は全部切ってありますけどね。ああ、達磨ストーブは使っていたみたいですが、発見時には中身が燃えカスになっていました」
「薪が燃えカスになるまでの時間はどのくらいかかりますか?」
「そうですね。せいぜい三時間くらいじゃないですか。まあ、そのあとはくすぶり状態になりますけど、それではあたたかくはなりません。もちろん、遺体の発見時には、ストーブの中はくすぶっていたのでしょうね」
そして俺は、核心となる、土間へと目を向ける。大きな轆轤があって、その横に陶芸用の粘土がいくらか盛ってあった。しかし、その轆轤の回転台の上は、おびただしい血が流れていて、びしょびしょになっていた。鉄の嫌な臭いがつんと鼻に付く。遺体はすでに片付けられていて、遺体のあった場所を示す輪郭が、白スプレーでなぞられていた。
「被害者の六条道彦は、この轆轤の上に顔を乗っけて、膝を折りたたんだまま、うつぶせていたそうです。顔面は、それは酷いもので、本人かどうかの判別があやしくなるほどまでに、ぐしゃぐしゃにつぶされていたそうです」
それを聞いて、俺は思わずひと言発してしまった。
「はははっ。こいつは傑作だな。
おもしろき こともなき世を おもしろく――。
六条家の跡取りが、轆轤の上でうつ伏せて死んでいるとは、今回の犯人はよっぽどだじゃれ好きなんですかねえ」
さすがにこいつは失言であった。千田の顔がみるみる呆れ顔に変わっていった。しかし、後日になって、俺のこの不謹慎な発言が、事件の中で大いなる意味を持ってしまうなんて、この時、俺を含めて、誰も気付くことはできなかった……。
「どうやら、鉈で何度も叩いたみたいですね。凶器の鉈は、被害者のすぐそばに落ちていました。薪割り用ですね。もちろん、被害者の血でぐっしょり濡れたままです。柄の部分は丁寧に布のようなものでしっかりと拭われていて、残念ながら指紋らしきものは検出されませんでした。それから、被害者の首には太い紐で絞められた痣も見つかっとります」
と、千田が現場の状況を説明した。
「顔がぐしゃぐしゃにつぶされていて、同時に、首には絞められた痕が残っている。つまり、直接の死因は、絞殺ということですね」
俺は鉈を調べながら、つぶやいた。
「おそらくは……」
首を絞めて殺しておいてから、顔をぐしゃぐしゃにする。必然の論理展開だ。もしもこの、首を絞める、顔を潰す、の行為の順番が逆に行われたというのなら、犯人は人智を逸脱した残虐性を有していることとなってしまう。
「顔の判別がつかないということですが、本当に遺体は六条道彦でしょうか?」
「はい、それは間違いありません。この屋敷の人たちに遺体を確認してもらいましたから。連中のいい方をすれば、そんなの間違いようがありません、だそうです。いやあ、そりゃあもう大変でしたよ。なにしろ、確認するのはそろいもそろってみな女衆でしたからねえ」
「他に指紋は検出されていないのですか? たとえば、戸の引手とか、ストーブの取っ手とか……」
「目ぼしいところはほぼ調べました。でも、あまり結果は期待できないみたいですね。ですから、物件にはもう適当に手を触れてもらってもかまいませんが、できれば、指紋は付けないよう配慮してください」
指紋を採取している警官に断ってから、土間にある手洗い場の蛇口を、ハンカチをかぶせてから、そっとひねってみた。すると、ホワーと井戸水を組みあげるポンプ音が鳴って、冷たい水が蛇口から出てきた。奥の戸口を出た先に、厠があって、中を覗いてみると、小便所と、和式の大便所との二区画に仕切られていた。大便所の扉を開けてみると、水洗式ではなく、汲み取り式となっている和式型の大便器があって、その横には、筒型のトイレットペーパーでなく、角形に裁断された尻拭き紙が、和紙で作られた紙箱の中に入れてあった。小便所の方は、朝顔の形状をした壁掛け便器が一つあって、仕切りがあるだけで、扉はなかった。その背後には、井戸水を利用した簡易手洗い桶があった。しかし、その横壁に設置されていたと思われるタオル掛けリングがはずれており、白手ぬぐいとともに、床に落ちていた。ねじで固定するタイプなので、引きちぎるにしても相当の力を要するはずだが、壁には強引にタオルリングが剥ぎ取られた痕跡と思われるねじ穴の跡が生々しく残っていた。
ふと、俺は思った。六条跡取りの首には紐で絞められた痣が残っていた。ひょっとしたら、犯行現場はここ――。被害者が小便をしているところを、背後から犯人がしのび寄って、紐で首を絞めたのだが、もがき苦しむ被害者が、とっさに手を伸ばしてタオルをつかみ、リングごと引きちぎってしまった。
しかし、もしそうだとすると、息絶えた被害者の遺体を、犯人はわざわざ離れの土間まで運び込んで、顔をつぶした上、放置したことになる。その行為自体になにか犯人にとっての得があったのだろうか。いったい、何故そんな面倒くさいことをしたのだろう……。
「どうかされましたか?」
気が付くと、千田が心配そうに俺の顔をのぞき込んでいた。どうやら俺は、しばらくの間、自己の思考世界へはいり込んでいたらしい。
「あのお、被害者の服装を確認したいのですが。その、殺されていた時のです」
「ええと、普通にセーターにジーンズでしたよ」
「ひょっとしたらですが、陰部を露出していませんでしたか。つまり、ジーンズのチャックが開いているとかで」
変な質問だが、しないわけにはいかない。
「ええっ? そういえばそうでした。どうしてお分かりになったんですか?」
千田がびっくり顔で答える。ということは、俺がさきほど考えていた推理は正しかったということになる……。
「さらにいわせてもらうと、もう一人の犯人と思しき謎の人物ですが、被害者といっしょにこの工房にやって来たということは、顔見知りである可能性が高いですよね。しかも、真夜中にこっそりやって来たところを見ると、相当親しい間柄であることが想像できます。被害者の服装が、深夜にもかかわらず、寝間着でなかったということは、謎の人物の深夜の訪問を予期していたとも推測できます。おそらく、事前に連絡があったのでしょう」
俺はさりげなくいい放った。もっともこれらは、現場状況からストレートに推測される、自明で、なおかつ極めて短絡的な推理に過ぎないが。
「そっ、そうですね。我々も同じような推測をしていましたよ……」
と、千田巡査部長は無理やりに口裏を合わせてきたが、同時にそれは、まるでそこまで考えていなかったかのような、落ち着きのない露骨な反応でもあった。まあ、ここで貸しを作っておくのも、後々、損にはならないだろう……。
そこへ堀ノ内巡査が息を切らせながら駈け込んで来た。
「千田巡査部長、それと、東京の私立探偵さん――、警部補がお呼びです。これから、奥さまからの供述を始めるそうですに!」