34.挿話――この章は堂林凛三郎の手記にあらず
翌日の新聞各社はトップ紙面を飾って大々的なスクープ記事を掲載した。愛知県新郷市で六人も殺された世にも残忍な『いろは歌連続殺人事件』の容疑者として、埼玉県在住の二十九歳無職の男性が昨日緊急逮捕された。『と』で始まる名前の住民もこれでひと安心。地元警察あっぱれ大手柄。賢明なる取り調べにもかかわらず、容疑者は依然として黙秘で応じている……、などなど。
堂林凛三郎が逮捕されてから二日が経過した六月二十五日のことである。この日は一日中小雨が降り続く静かな土曜日であった。日暮れとともに雨足はピタリと止んで、八時を過ぎる頃には、薄い雲の切れ間から月光がかすかにこぼれていた。
玄関の引き戸が静かに開いた。台所で調理していた女がすっと顔を上げてのぞき込むと、戸口に中肉中背の黒い影が立っていた。
「ああ、お前かい。来てくれてよかったよ。さっき連絡したけど、今朝、警察から電話があってさ。かあさん、明日警察へ出向かなきゃならんくなったんだ。参考人の事情聴取だっけ? よう分からんけど、なんかそんなこといってたっけ。
ああ、もちろん、なんもしゃべらせんよ。でもさ、かあさんもかなり年だし、うっかりなにか口を滑らしちまうかと思うと、心配で、心配で……。ともかく、お前がきてくれてほっとしたよ……」
近づいてくる影が台所の明かりに照らされて、ようやく顔が見えるようになった。濃い髭がびっしりと生えた口元には、薄ら笑みが浮かんでいる。
「そりゃあ僕もびっくりしたよ。まさか、かあさんに警察が連絡してくるとはなあ。
でも、間に合ってよかった。もう大丈夫だよ……」
「そうかい、そりゃよかった」
「ふふふっ、もっとも大丈夫なのは僕のことなんだけどね。悪いけど、かあさんにはいなくなってもらうよ」
「ええっ、それはどういうことなんだい。ちょっと、お前――、なにするんだい。苦しいよ……」
男は、年老いた女の首ねっこをささくれた両手でつかみかかると、指先にぐいっと力を込めた。
「あんたもよくやってくれたよ。十分過ぎるくらいにな。だが、これでおしまいだ……」
わずかの間、女は両手を伸ばそうと抵抗したが、とてもじゃないが男の顔までは届かない。しだいに身体の力が抜けていく……。
ふいに、裏口の窓ガラスがパリンと割れる音がした。ガタイのいい大人が割れたガラスのすき間から手を差し込んで鍵を外すと、数人が一丸となって家の中へ飛び込んできた。
「だ、誰だ。お前らは……」
びっくりした男が大声でわめく。
「間に合ってよかった。お母さん大丈夫ですか?」
「このやろう、離せよ! 畜生――、邪魔しやがって。あと少しだったのに……」
頬がやせこけた男は、腕を振りかぶって最後のあがきを試みるが、それも無駄であった。千田巡査部長が一歩前へ出て、男の右の手首をぐっとつかんだ。
「母親の殺害未遂現行犯、および七首村連続殺人事件の容疑者として、あなたを署まで連行します!
西淵庸平さん――」