23.奥三河の花祭
トイレから出たところで、別所警部補とばったり出くわした。七首村事件のおかげで、最近は豊橋署にいる時間よりも新郷署にいる時間の方が多くなってしまったとの別所のぼやきから、俺たちの会話ははじまった。
「そうですか、見ましたか。平川の供述映像を……」
「はい。正直なところ、腸が煮えくり返りましたね」
「そうですなあ。まあ、こんな職業しちょりますと、こういったどろどろした話は避けては通れませんからなあ。いちいち気にしちょれませんに。はははっ」
「犯人の狙いは紅谷由惟のレイプ事件に対する復讐――。これが事件の動機である可能性は極めて高いと思います。しかし、そうだとしても、それで犯人の絞り込みができるのかというと、それはまた別問題ですね」
「犯人の絞り込みができないとでも?」
別所が驚いたように訊き返した。
「はい。この痛ましい事件を知っている人物なら誰もが復讐をしても不思議がないからです」
「しかし、その事件を知っているのは、当の本人たちとそれを封じ込めたいと願う六条夫人や家政婦しかいないはずですよね。平川自身がそう供述しちょったではありませんか?」
「それ以外にも、紅谷由惟の母親が事件のことを知っています」
「そうかもしれませんが、もう五十前後の情緒不安定な婦人らしいですから、あんまり、今回の犯人とは思えませんけどなあ」
「まあ、紅谷佳純は置いといて、彼女以外にもレイプ事件を知る人物がどこかにいるかもしれません。その人物からしてみれば、穂積、六条、西淵、平川の四人は、なにがあっても絶対にゆるすことが出来ない存在となるわけで、つまり、犯人の動機が分かったところで、犯人を絞り込むのは依然として難しい問題なのかと……」
「そうでしょうかねえ。わたしども警察では、犯人はほぼ間違いなくこの人物であろうと、特定できておりますよ……」
別所が思わしげに俺に語りかけてきた。
「誰ですか、それは?」
俺は少し驚いて、訊ね返した。
「犯人は西淵ですよ――。やつは死んだふりをしていますが、きっとどこかで生きているんです。探偵さんが洞窟で聞いた、人が水に落ちた音は、たぶん用意しておいた大石でも落としたんでしょう。全く、子供だましですなあ。そして、動機は逆恨み。西淵は自分だけが猥褻行為をやらせてもらえなかったことに対して、長い間怨みを抱き続けていた。それがついになにかをきっかけにブチ切れたというわけです」
「そんなくだらないことで殺人などするでしょうか?」
俺は一応問い返してはみた。
「さあ、分かりませんよ。とにかく最近の若者は考えることが分かりませんからなあ。おっと、失礼。あなたもまだ若いお方でしたな」
どうやら、警察は洞窟の事件は西淵の自作自演だと決めつけているようだ。しかし、大石でも落としたのだろうといったが、俺が聞いた音は、少なくとも石っころが水に落ちた音ではなかったように思う。あれは石よりも物質密度が小さなものが放った音だ。石が落ちたなら、ボッチャーーン、のような音になるはずだが、俺が聞いたのは、どっぷーーん、という音であった。落ちたのは、丸い球形の固まりではなく、でこぼこが激しい複雑な形状の物体であり、鉄のような重い固まりではなくて、獣のような有機物の固まりが出した音なのだ。そんな違いは、さまざまな学問に精通した俺にしてみれば、判別することなど朝飯前だ。
「にしてもですよ、西淵が犯人だとして、穂積事件でのエレベーター内にいた不審人物はどう説明しますか? あれは、どう見ても西淵とは思えない体型でしたけどね」
俺は論点の核心に踏み込んだ。
「ええと、それはですなあ……。ああ、きっとそいつは、西淵の共犯者なんですよ」
と、別所のこの点に関する返答は、いかにも苦し紛れって感じだった。
しかし、今回の一連の事件が西淵の自作自演などではなく、実際に西淵は殺されているのだとすると、もちろん俺はこの結末こそが真実であると確信を持ってはいるのだが、一つだけ説明に困ることがある。そう。西淵を洞窟で殺した犯人は、どうして西淵が洞窟内に逃げ込んでくることを前もって予測できたのか。また、千桜の祈祷を聞いているうちに発狂することを、どうして予測できたのか。いずれも、西淵が犯人でないと主張するならば、狡猾な犯人が仕組んだこのトリックをなんとしても解明しなければならない。
「別所警部――?」
「警部補ですけども……」
「すみません。別所警部補。紅谷佳純の担当医の話を、一度聞いてみたいのですが」
「ああ、それなら昨日聞いて来ましたよ。
紅谷佳純が最初に入院したのは、平成十五年の三月二十四日でした。はじめは細川診療所に通っていたらしいですが、症状があまりにひどいので新郷市民病院に緊急入院をしたそうです」
「ええと、症状はうつ病でしたっけ?」
「そうです。運び込まれた時はひたすら大声でわめき散らしている状態だったそうです」
「どうしてまた?」
「さあ。元々情緒不安定な人物だったらしいのですが、なんらかの強い精神的なショックを追い打ちで受けてしまったのではないか、との診断でした」
「つまり、娘が集団暴行を受けたことが引き金となったかもしれないのですね?」
「おそらくは……」
別所と別れた俺は、今度は千田がどこかにいないかと思って少し歩いてみたのだが、ちょうど昼めし時だったおかげなのか、わりと簡単に見つかった。
「千田巡査部長――。もう一度、『逃げ水の淵』の現場まで行ってみたいのですが、誰か警官のご同行を願えないでしょうか?」
とにかく西淵が消えてしまった現場に、俺は行きたくて仕方がないのだ。というのも、暗闇の中で殴打されて意識を失ったあと、俺はまだ現場に一歩も足を踏み入れていないからだ。
「ああ、それならわたしがお供いたしますよ。それと、堀ノ内巡査にも声をかけてみましょう」
と、千田からは好意的な返事が返ってきた。そこで、その日の午後に、俺は千田が運転するパトカーに揺られて、七首鍾乳洞までやってきた。途中で大野駐在所に立ち寄ると、堀ノ内巡査が暇そうに椅子にふんぞり返って鼻毛を引っこ抜いていたので、声をかけてみると、嬉しそうな顔をしてついてきた。
新郷署から持参した安全ヘルメットを装着し、銘々が懐中電灯を手に、俺たちは七首鍾乳洞の中へと入っていった。
「気を付けてくださいよ。凶悪な西淵が、ひょっとしたら洞窟の中に隠れ潜んでいるかもしれませんからねえ」
そういって、千田はひとりでくすくす笑っていた。
まず『天の岩戸』と呼ばれる狭い通路を抜けると、洞窟内は一気に巨大な空間に広がる。いわゆる、『高天原』と名付けられた広場である。遥かかなたに浮かぶ天井には、一部にぽっかりと大穴が開いていて、そこからさんさんと光が差し込んで来る。
「この辺りなら陽が射しこんで来るから、正気を失った西淵でも洞窟内ははっきりと見えていたはずです」
俺はいちおう補足しておいた。
「でも、やつが落ちた『逃げ水の淵』まで行っちゃうと、陽が差し込まんくなって、真っ暗なんですよね。そんな危険な場所に、西淵はのうのうと踏み込んでったちゅうわけですか。懐中電灯も持たんとねえ……」
堀ノ内巡査があきれかえっていた。
「そうです。そして、そこで足を滑らせ転落をした――」
俺は二人を先導して、高天原の突きあたりまで進んでいった。間もなく、端っこの壁にぽっかりと口を開けた横穴があらわれる。
「このトンネルが『海亀の通い路』です。この先に問題の『逃げ水の淵』があるのです」
俺は良魁くんからもらった七首鍾乳洞の地図が掲載されたパンフレットを見ながら説明した。
「さすがに真っ暗ですね。懐中電灯なしにはとても進む気が起こりませんけど、西淵はよく先へ進めましたね。怖くなかったんでしょうか?」
千田が愚痴をこぼした。たしかにこのトンネルの奥は、ライトの助けなしにはなにも見えなかった。
「さあてね。正気でなかったからこそ、なせるわざだったのかもしれませんよ」
そう答えておいたものの、平川が小学校のころ六条道彦や西淵といっしょに山の中を冒険していたといった言葉を、俺は思い出した。もしかしたら、西淵もこの鍾乳洞の中を何度か訪れていたのではなかろうか。
逃げ水の淵までの途中に横たわる狭い通路――海亀の通い路は、左右に大きくうねり、おまけに地面と天井があがったり下がったりと、気を付けていないと、出っ張った低い天井に頭をぶつけてしまいそうな危なっかしい箇所がたくさんあった。やがて、小穴は終わりをつげ、天井が少し高くなる。ごうごうと滝のように流れる水の音が聞こえてくる。
「探偵さんが倒れていたのが、たぶんこの辺りになりますかね?」
天井から突出したつらら岩をさすりながら、千田が平らになった地面を指差した。
「ああ、そうですね。たしか、海亀の通い路で苦闘している時に西淵の声がしなくなって、それからここまで出て来てひと息つくと、その辺りに西淵の帽子が落ちていたので拾ってみたら、いきなり背後からなにものかに頭を殴られたんです……」
俺は当時の状況を思い浮かべた。
牛くらいの大きさがある岩が前を立ち塞がっていて、それをそろそろと跨いで超えると、足場は急に狭くなり、悪魔の口のような地面の割れ目から、冷たい風が絶え間なく吹き付けてくる。ごうごうと滝が流れるような音がするので、おびただしい量の水が地面の遥か下で流れているのが分かる。
「どうやらここで行き止まりのようだな」
「まだ、先があるように見えますけど」
千田が指さしたのは、足場がほとんど取れない幅の狭い通路で、岩面も濡れており、うっかり足を滑らせれば転落してしまうとても危険な場所であった。
「さすがに、これ以上は進めないよ」
懐中電灯に照らされた小道は闇の奥へ消えているのだが、さすがに俺の判断は的確であったと思う。うっかり足を滑らせて谷底に落ちてしまえば、命の保証はない。
「ここから落ちたら、ひと溜まりもないですね」
「仕方ないね。引き返そうか」
そういって俺は何気なくまわりを見まわした。すると、地面の岩と岩の間に、なにやら白い物体がはさまっているのが、ふと目に留まった。近づいて手を伸ばすと、それは四つ折りにされたA4の大きさの上質紙であった。
「千田巡査部長。ここに紙が落ちています。なにか書いてありますけど」
拾い上げた紙には、なにやら文書作成ソフトで打ちこまれた活字が並んでいた。暗闇の中、俺たち三人はひと固まりに寄り添うと、中身を読もうと懐中電灯で紙を照らした。しかし、ゆらりと浮かび上がった文字は、誰もが予期しなかった驚愕の文章であった。
突然のお手紙を差し出す失礼をお許しください。
わたくしの出生の秘密に関しまして、貴方にお伺いしたきことがございます。つきましては、蓮見家の裏にある七首鍾乳洞の『逃げ水の淵』までいらしてはいただけないでしょうか。時は、一月十六日の土曜日、夕刻四時。わたくしはひとりで貴方がいらすのをお待ちいたします。この地域の地理にはお詳しい貴方のことですから、逃げ水の淵はご存じのことかと思います。万が一、お分かりない時は、新郷市が出した七首鍾乳洞のパンフレットをご覧ください。そこに洞窟内の詳細な地図が掲載されております。
このようなさびしき場所にお呼びいたしますのは、なにかと気おくれがございますが、わたくしには貴方以外に頼るべき人がおりませぬ故、なにぶん内密に事は進めたく、くれぐれも他言なさられぬよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。
かしこ
蓮見家長女 千桜。
「宛名がないな。西淵に当てたものなのか?」
俺は紙をひっくりかえしてみたが、裏面にはなにも書かれていなかった。もともとはしっかりした紙なのだが、洞窟の湿気に長時間さらされて、ふにゃふにゃになっていた。一応軍手をはめた手で、俺は紙をつかんでいるが、こういう紙にはよほど汚れた手で触らない限りはっきりした指紋は残らないものだ。
「とりあえずその手紙は鑑識に回してみます。指紋が付いているといいのですが。しかし、西淵が蓮見家令嬢の出生の秘密を知っているなんて、とても想像が付きませんけどねえ」
千田も首を傾げる。
「本当に蓮見家の令嬢がお書きになった手紙なんですかに?」
堀ノ内巡査も疑っている。まあ当然だ。とても千桜が書いた手紙とは思えない。すると、この手紙は犯人が用意したものになる。
「日付は祈祷日の前日か……。
差出人が蓮見家の令嬢でなければ、誰もこんなインチキ臭い手紙にまんまと騙されることもなかろうに、悲しむべきは男の性ということだな」
犯人は体重が百キロ近い西淵を、『に』で始まる、逃げ水の淵で殺さなければならなかった。しかし、うっかり別な場所で殺してしまえば、遺体をわざわざここまで運び込まなければならなくなってしまうが、そんなことはとうていできないから、本人に直にここまでやって来てもらうしかない。この手紙は犯人にとっては、絶対的に必要なものだったのだ。しかし、なぜ犯行の前日の四時を指定したのだろう。当日の時刻にしておけば良かったのに。いや、それもおかしい。差出人である千桜が蓮見家で祈祷をしているのだ。そして、西淵はそれを目の前で見ていたのだから、千桜がその時刻に洞窟内で待っているはずがないことを知っていたことになる。となると、犯人は実際に前日の四時に西淵をここまで呼び寄せたということなのか。いったい、なんのために?
その時、俺の脳裏に突拍子もない考えが浮かんだ。それは、あまりに現実離れしているので、恥ずかしくて口外することすらできなかった。
前日の一月十六日、午後四時。誰もいない暗闇の洞窟の奥底で二人の男女が逢引きをした。女は、美少女令嬢、蓮見千桜。男は、超肥満のぶ男、西淵庸平である。どう見ても釣り合いが取れたカップルとはいえまい。
男が舌なめずりをしながら少女へ接近していく。とその時、少女はかわいらしい瞳から謎の光線を発して、西淵に催眠術をかけてしまう。それは、翌日に正気を失い、みずからここまでやってきて、深い谷底へ落ちてしまえ、というおそろしい呪いであった。そして翌日の祈祷の最中に、千桜はなんらかの暗示を西淵に発して、呪いの催眠術のスイッチを発動させた。そして、それにしたがって西淵は谷底へ落ちていった。たしか、千桜はみずからを魔女だと称していたけれど……。
はっ、馬鹿馬鹿しい。俺は苦笑いした。
七首鍾乳洞から出てくると、もう陽がとっぷりと暮れていた。
「この時刻ならもう蓮見家の令嬢も家に帰っていますよね。ここはひとつ訊いてみますか。この手紙を書いた心当たりがあるのかどうかを?」
千田が提案した。俺はどっちでもよかったけど、堀ノ内巡査は大乗り気であった。なにしろ、蓮見家の令嬢と直に話ができる絶好の機会なのだから、それもまあ当然か……。
蓮見家を訪問すると、戸塚真由子が出てきた。事態が事態だけに、ここはぜひお嬢さんに会って、お話をお伺いしたいとの、いつになく熱心な千田の勢いに気圧されて、真由子はしぶしぶ同意した。やがて、家政婦の尾崎洋美がやってきて、千田と堀ノ内を千桜の部屋まで連れて行った。俺のほうはというと、千桜の尋問は千田たちにまかせておいて、戸塚真由子との立ち話をすることにした。案外、彼女は知的でいろいろな情報を知っている可能性のある人物のように思える。
「千桜も大変よねえ。刑事さんが直々にやって来て、よもやの尋問とはねえ」
真由子があきれたようにつぶやいた。千桜の圧倒的な印象に隠れてしまってはいるが、戸塚真由子もそれなりの美人である。
「お嬢さまじゃないのかい?」
「ああ、そうだったわ。千桜お嬢さまよね」
真由子はあっさり訂正した。俺が受けた印象では、真由子が千桜をお嬢さまと呼ぶのをよく忘れてしまう理由は、千桜にしっとしているからではなく、千桜と親しくなり過ぎているからであるように思われる。そして千桜からしてみれば、日ごろもっとも会話を交わす機会があるお姉さんなのかもしれない。
「お嬢さんが本当にあんな手紙を書いたと思うか?」
「どんな手紙だったの?」
「ええと、自分の出生の秘密を教えて欲しいから、洞窟の奥までやって来て欲しい、といった内容だったな」
「千桜の出生の秘密ねえ……」
「君はなにか知っているのか? お嬢さんの出生の秘密を?」
「まさか。あたしが知っているわけないでしょう。そんなこと」
「まあ、それもそうか……」
真由子が蓮見家に雇われたのは二年前だから、知らないのも当然である。
「家政婦の話だと、とある孤児院にいた千桜を、蓮見悠人が引き取ったということだが」
「ふーん。そうなの。まあ、先生は困っている人を助けてやりたくなってしまうような人だったけど、まさか、みなしごを引き取るなんてねえ。ちょっと信じられないわ」
「どうして?」
「だってそうじゃない。もしも憐れみのためにみなしごの千桜を引き取ったのなら、ほかにもたくさんの引き取っている子供がいてもおかしくないでしょう?」
まあ、それもそうだ。とすると、蓮見家にとって千桜はなにか特別な意味を持った存在であったということか?
「君ならば、なにか新しい情報を提供してもらえると思ったんだけどなあ」
「ご期待に応えられず申し訳ありませんわね」
少しかまをかけてみたのだが、真由子にあっさりとかわされた。相変わらず、強気な気質の女である。
「君はこの辺りの出身なのか?」
「ええ、となり町の東栄町の出身よ」
「どうりでこの地域の歴史に詳しいわけだ。なにしろ、七首伝説を知っていたくらいだからな」
「ふふふっ。七首伝説だったら千桜だって知っているわよ。じゃあ、ついていらっしゃい」
そういって、真由子は屋敷の中へ進んでいった。俺も黙って彼女のあとをついていった。そして、真由子が立ち止ったのは、屋敷の三階にある大きな部屋の前だった。
「さあ、中へ入って」
真由子に招かれて中へ入ると、そこは巨大な蔵書室だった。真由子はさらに奥へ進んで一番高い棚に手を伸ばすと、一冊の本を取り出した。彼女は背が高いから、背伸びをすれば一番高い棚でも手が届いていた。
「ごらんなさい。ここに七首村の歴史が一切合財まとめられているんだから」
それは『七首村史』と書かれたぶ厚いハードカバーの本であった。開いてみると、村の現状の解説から始まり、鎌倉時代から現代に至るさまざまな出来事が記されていた。中には実際にあったのか眉唾ものの記事もいくらか含まれているみたいだが、実によく調べられた充実の内容であった。
「ほら、ここにあるでしょう。七首伝説の記事が。ここだけ面白いから、あたしでも読んでいたというわけよ」
「なるほどな。よくこれだけの内容を調べ上げたものだな」
俺は感心して答えると、真由子が指を指した。
「著者をごらんなさい」
指差された先を見て、俺は驚いた。その歴史書の著者は、なんとこの屋敷の当主である蓮見悠人その人であったのだ!
「蓮見悠人? 彼は医者ではなかったのか?」
「先生はお医者さんであると同時に、地元の歴史や民俗の研究にも力を入れていたのよ。若い頃から今までの長い期間、仕事の合間をぬって、村人たちからいにしえの伝承話をいろいろ聞き出して、それをこつこつまとめ上げて、ようやく十年くらい前にその本は完成したらしいわ。もっともこの研究をするきっかけは、先代の雷蔵翁からの影響も多分にあったみたいだけど」
「この本は出版されているようだけど、ここ以外にもたくさん出回っているのかな?」
「ええ、おろらく。少なくともこの近辺の役所には置いてあるんじゃないかしら?」
つまりは、七首伝説は昔からここに住んでいる年寄りたちだけが知るマイナーな伝承話にはとどまらず、この本を手にすれば、若者だって知っている話なのだ。でも、今回の事件の犯人は、果たして七首伝説を知っているのだろうか?
「そうだ。君にちょっと訊ねたいことがもう一つある」
「なんなの?」
俺は、新郷署で興奮した平川が唱えていた意味不明な言葉を訊ねてみた。
「とーほへ、てほへ、とかいう言葉なんだけど……」
もちろん、容疑者の一人である平川がしゃべったことは隠しておいたのだが、それを聞いた真由子はくすくすと笑い出した。
「それはね、花祭で唱えられる掛け声よ。あたしの故郷の東栄町で行われている伝統のお祭りだけど、悪霊を払いのけて五穀豊穣を願う、先祖代々受け継がれてきた神事ね」
「どんな祭りなんだ?」
「うーん、実際に見てみるのが一番だけど、ちょっとその気にならないと大変かもね」
「いくら大変でもかまわない。とにかく、その祭りを俺は今、見てみたいんだ」
「それならちょうどいいわ。実は、あたしが生まれたのは、東栄町の布川部落というのだけど、そこの地区の花祭だけは三月のはじめに行われるの。他地区の祭りはもう終わっちゃっているのよね」
「三月のいつだ?」
「ええと、最初の土日だから、今年は三月五日になるわね」
「何時にいけばいい?」
「ふふふっ、一晩中踊るのよ。あなた、だいじょうぶかしら?」
「一晩中?」
「そうよ。はじまるのは夕方だけど、そこから翌朝まで、祭りは延々と続くのよ」
ちょっと驚いたけれど、とにかく一度見てみなければならないものであるのは間違いないようだ。俺は真由子と約束を取って、布川地区の花祭に参加することにした。
玄関口まで戻ってみると、ちょうど千桜との会話を終えた千田たちも帰って来た。
「じゃあ、これで……」
そう告げると、真由子はすっといなくなった。あとに残された俺たち三人は、パトカーへ乗り込んだ。
「令嬢との話はどうでした?」
俺は千田に聞いてみた。
「いやあ、まことに全く、清楚の清楚。あんな気品あるお方は見たことがありませんなあ」
と、後部座席の堀ノ内がでしゃばってしゃべり始めた。千田がバックミラーで堀ノ内巡査をきっとにらみつけたみたいだが、堀ノ内がそれに気付いている様子はなかった。
「お嬢さまは落ち着いていらして、わたしたちに応対してくださいました。言葉遣いもとても丁寧で、いやあ、よく仕付けられていますね。さすがは天下の蓮見家です。
手紙をお見せしたところ、お嬢さまは自分には心当たりが全くございませんと、静かにお答えになりました。それから、西淵庸平のこともなにも知らないということでした。さらに、自分はまだ小学生だし、そこに書かれている古い言葉は使わないともおっしゃいましたね。それはそうですよねえ。わずか十二の女の子がこんな文語の文章を書くわけありませんからね。ああ、お嬢さまはお誕生日が過ぎて、めでたく十二歳になられたそうです。なんでも、二月十四日が誕生日らしいです。聖バレンタインデーですよね。ああ、いいですよねえ。実に可憐なお方でした」
千田もめろめろにされてしまったようだ。それにしても、俺に対する応対と警察に対する応対が百八十度転回しているが、この千桜という小娘、案外隅には置けない小悪魔なのかも知れない。文語は知らないといったそうだが、なにせあの祈祷のまじない言葉をそらんじている少女である。その気になれば、文語体など造作なく使える可能性は十分にある。
そして三月五日。今宵は愛知県北設楽郡東栄町の布川部落の花祭がおこなわれる。布川地区は戸塚真由子が生まれ育った集落だ。真由子に連れられて祭りの会場に着いた時刻は、十一時を過ぎていた。こんな遅くになってしまっては、祭りのメインが済んでしまったのではと心配したのだが、実はまだ始まりのはじまり、ほんの序曲に過ぎなかった。
囃子の笛に、鈴の音と太鼓が響き渡る中、会場の中央に設置された舞庭と呼ばれる湯を湧かした丸い大釜のまわりを、出し物を変えながら次々と人が舞を踊っていくのだ。大釜の真上には、もさもさした大きな固まりが吊るされている。湯蓋と呼ばれる神聖な飾り物らしい。衣装も踊りも踊る人々も、その踊りごとに入れ替わっていくのだが、なにか決まった順番で、まるで劇場で一大ストーリーが展開されるがごとく、祭りは淡々と進行していく。
到着して小一時間ほど経つと、ついに鬼が登場した。赤装束にお面を付けた赤鬼である。鬼は舞庭の大釜に足をかけると、高く掲げた大きな斧を振り下ろす動きを始めた。山を割って浄土を切り開くというこの踊りは、万物の始まりを表現しているらしい。
ふと見れば、会場にいる見物客も含めた全員が、盛り上がって掛け声をあげている。
とーほへ、てーほへ。
とーほへ、てーほへ。
てーほほへ、とほへ。
てーほほへ、とほへ――。
ひたすら、ただひたすらに、同じ文句が何度もなんども繰り返される。永遠に繰り返されるのではないかと思われる大河のようなゆっくりとしたリズムにしだいにのみ込まれて、だんだん心地よくなってくる。時間の進行も徐々に気にならなくなっていき、眠いのも忘れて、気が付けば、俺は輪の中に紛れ込んでいっしょになって踊っていた。
子供たちの舞、鬼の舞、若者たちの舞、剣を手にした本格的な舞、姫や老婆の能面やお多福と火男の面を付けた男女が踊る仮面の舞。そして、味噌が付いたしゃもじを手にした踊り手が二人登場すると、観客のほうへ出向いて、手当たり次第にそこにいる人たちの顔に味噌を塗りたくりながら、歩きまわっていった。なんでも、味噌が顔に塗られると縁起が良くなるとされているそうだ。
そして、いくつかある祭りの出し物の中でも最高に盛り上がるイベントである湯囃子が始まる。四人の若者がワラを束ねて作った湯たぶさを手にして、大釜を取り囲んで踊りはじめる。すると突然、煮えたぎったお湯の中に湯たぶさを付け込んで、そのままところかまわずに振り回した。釜の中の熱い湯が撒き散らされて、湯気がいっせいに立ち込め、あちらこちらから悲鳴があがり、場内は異様な興奮状態に包まれた。舞庭で踊っていた者も、観客席にいた者も、たちどころにビタビタに濡れてしまうのである。こちらも縁起物で、この湯を浴びれば一年間病気に見舞われないで済むともいわれている。
やがて夜が明けて、延々と続いた祭りは、釜祓いの獅子の登場とともにフィナーレを迎える。俺は輪から抜けて、観客席にいる真由子の方へ近づいていった。
「少し疲れた。外へ出してくれないか?」
「あんたもかなりのお馬鹿さんねえ。まさか一晩中、踊っているなんてね」
真由子は呆れながらも俺を肩に抱えて、建物の外へ連れ出した。
笛の音がまだ遠くから聞こえてくる。てーほへ、てほへのあの掛け声とともに……。
紅谷由惟が四人組にレイプされたのが、ちょうど今頃の季節だった。この素晴らしい伝統行事の掛け声を、いやしくも使いながら、四人の悪党は由惟を犯していったのだ。紅谷由惟とは、いったいどんな少女だったのだろう?
すると、不意に蓮見千桜の顔がまぶたの奥に浮かぶ。いやがる千桜を穂積がうしろからはがいじめにして、六条道彦がニヤニヤしながら千桜のスカートを脱がす。畜生め――。やりきれない怒りが、祭ばやしの笛の音に後押しされて一気に俺に襲い掛かってくる。
「どうしたの?」
気が付くと、戸塚真由子が俺の顔を上からのぞき込んでいた。化粧を施した大人の女が発するさりげない表情であった。もう抑え切れなかった。俺は真由子をぎゅっと抱きかかえると、その唇を強引に奪い去った。