20.薬学部准教授
京都市繁華街のとあるホテルの一室で、穂積という名前の男が殺された――!
『ホテル』にて『ホズミ』――。いろは歌の第五番目の文字である『ほ』の殺人が、ものの見事に執行されたことになる。一見、手当たり次第に犠牲者を選んでいるように思える今回の連続殺人であるが、犯人からしてみれば、なんらかの意志のもとに計画が実行されているはずである。しかし、その意志がなんであるのか分からぬ状態では、犯人が狙っている誰とも知れぬ次なる犠牲者を救うことなどできようはずもなく、これまでの戦いは、犯人が高性能レーザー照準器を携えてやりたい放題に乱射しているのに対し、警察側は丸腰のノーガード状態でじっと物陰に隠れていたようなものだった。
ところが、今回の被害者である穂積智宙という人物を調べあげれば、いよいよ未知なる犯人が隠し通してきた動機の片鱗が判明するかもしれないのだ。俺は、今回の事件にひそかな期待を抱いていた。
俺が新郷警察署に再びおもむいたのは、事件から四日経った二月一日であった。千田巡査部長と堀ノ内巡査がそろって出迎えてくれた。
「いやあ、お久しぶりです。東京の探偵さん」
千田が皮切りに決まり文句を述べると、
「本官も、どうにか生きながらえちょります。本当に……、一月二十八日は生きた心地が、ぜんぜんいたしませんでした」
と、答えたのは、堀ノ内巡査だ。尋常ではない声音から、本人の心からの安堵感が伝わってくる。まあ、俺にとってはどうでもいいことなのだが、堀ノ内巡査にしてみれば死活問題であったということだ。
「それは何より。ところで、殺された穂積という男は、いったいどういった人物なのですか?」
俺はすぐさま本題へ入った。
「穂積智宙――。年齢は三十八歳。血液型はA型。名古屋市内にある愛知薬科大学の准教授。住所は名古屋市の緑区で、妻と息子の家族三人で住んでいます。専攻は薬学です。小学生の頃から、新郷の神童、と呼ばれた秀才で、高校は東三河地区随一の進学校である穣修館高校を平成八年の三月に首席で卒業をしています。当時の職員に聞いてみたところ、あれほどの成績を残した人物はいまだかつて記憶にないとのことでした。その後、穂積は京都大学の薬学部に進学し、それから八年後の平成十六年に、弱冠二十六歳で、今勤務する大学で准教授に抜擢されてからは、名古屋でずっと生活をしています。
さて、問題の一月二十八日に穂積がわざわざ京都へやってきていた理由ですが、京都大学で薬学に関する研究会があって、そこで発表を行うために、前日の宿泊を取っていたそうです。京都市中心の繁華街にある『ブリリアントホテル四条烏丸』という名前のこのホテルには、ほかにも今回の研究会に参加する全国の名だたる学者が数名、泊まっていました。
そして、穂積の遺体が発見されたのが、二十八日の午後十一時過ぎですが、穂積が泊まっていた部屋――513号室に一人の女がやってきて、どうやらそいつは穂積が呼びつけた商売女だったようですが、なぜかその時、扉が半開きの状態になっていたそうです。このホテルは全部の部屋の出入り扉がオートロック式なので、扉をしめ切ると、自動的に鍵が掛けられてしまい、外から入ることが出来なくなるのですが、その時の穂積の部屋の扉には、足下のすき間に小さな障害物がはさみこんであって、扉が閉まらないようになっていたので、女はなんの苦もなく扉を開けることができたのだと証言をしています。そして、そのまま部屋の中へ入ってみると、穂積が頭から血を流して床に倒れていたというわけです」
「してみると、犯人は現場の扉が閉まらなくなるように、わざわざ細工したことになりますね」
「そうなります。でも、なんでそんなことをしたのでしょう?」
千田の困った顔を見て、俺はちょっと得意げに説明を加えた。
「想像に過ぎませんが、今回の『ほ』の事件に限ると、犯人は、警察から犯行の妨害をされる心配要因がなにもなかったわけです。というのも、七首村で犯行予告をするのならば、『ほ』の名前の人物なんてそうはいませんから、ひとりひとりに見張りを付けられてしまえば、犯行を行うのが難しくなるわけです。しかし、今回の犯行予告場所は京都です! これでは目標があまりにも広過ぎて、『ほ』ではじまる人を全員守り切ることなど、とうてい不可能です。
そうなると、むしろ犯人は、せっかく実行した殺人事件が、七首村で起こっている一連の連続殺人事件の続編であると、警察が認識してくれなってしまう状況を、逆に心配した。だから、できることなら今日中に犯行が発見されてもらったほうが、犯人にとっては都合がよかったというわけです」
「なるほどね。まあ、そういう考えもあり得ますね」
千田は首を傾げながらも同意した。
「では、続きを……」
俺が先の説明をうながすと、千田は机の引き出しから資料を取り出した。
「被害者の後頭部に残された傷跡ですが、棍棒のような長い鈍器で、左側が上になるように斜めに殴られています。それから判断するに、犯人は正面から右腕を無理やりに大きく回し込んで、穂積の後頭部を殴ったか、この場合はかなり無理な体勢を取ってぶん殴ったことになりますね。もう一つの可能性は、穂積が背中を向けた時に、うしろから後頭部を殴った場合です。この場合に問題となるのが、犯人が左手で殴った可能性が高いことです。ほら、左手で上から振り下ろすと左側が上になる斜めに殴りやすいじゃないですか。これを右腕で殴って同じ痕を付けようとすると、大きく肘を上げて無理やりにまわり込んで叩くか、バックハンドで叩いたことになります。察するに、今回の事件の犯人は、左利きである可能性があります」
たしかに、そのような殴り傷を残すのに左側から殴ったと考えるのは、極めて自然である。
「犯人らしき人物の目撃者はいませんでしたか?」
俺は少し視点を変えた質問をしてみた。
「はい。犯行当日の午後十時過ぎに、一人の不審人物が、穂積の部屋がある五階で、エレベーターから降りるのが、現場の監視カメラの映像に映されています。さらに、この人物が、そのおよそ十分後に、再びエレベーターに乗って、ホテルから出て行った映像も、確認されました。犯人と思しき人物は、薄手の黒のジャンパーにジーンズをはいていて、身長は男性にしてはやや小柄なくらいですかね。深い帽子をすっぽりかぶっていて、黒眼鏡とマスクをしていましたから、映像を見ても、顔がはっきりとは確認できませんでした」
ふと気になったので、俺は訊ねてみた。
「その人物は、平川ではないでしょうかね?」
「平川猛成ですか。なるほど。でも、おそらく違いますね。体格が全然違います。平川といえば、ほら、ゴリラのような筋骨隆々の男ですから、あんなのが歩いていたら、いくら顔を隠したところですぐに平川だと分かります。それに対して、その不審人物のうしろ姿は、どちらかというと、華奢で痩せぎみな体型に見えますからね」
千田はあっさりと断言した。さらに、千田が思わしげに付け足した。
「それから、その不審人物に関して、もう一つ気になることがあります」
「なんですか?」
「そのお、黒い薄手のジャンパーを着ているのですが、画面を見てください。右腕の袖がひらひらと揺れているのです! ほら、まるで、右手の腕から先がないみたいでしょう……」
千田がパソコン上で動画を開いて見せた。そこには、エレベーターの中にひとりでいる不審な人物が映し出されていた。エレベーター内の防犯カメラに残された映像ということらしい。俺はその映像を食い入るようにながめた。たしかに、この不審者の右手は、腕から先がないために、右の袖がひらひらと動いているようにも見える。一方で、右手をこっそり折りたたんで脇に収めて、ジャンパーの右袖をわざとひらひらとさせているようにも見える。もう少し画像が鮮明であれば、ジャンパーの下で腕をたたんでいるのかそうでないのかが分かるのに……。
「つまり、犯人は本当に右腕を失っているから、やむなく左手で、被害者を殴打したということですか?」
「あるいは、そのように見せかけただけかもしれませんね」
と、千田は無難な答えを返した。
「ところで、その不審者は、エレベーターに何度か乗り降りしてますか?」
「いいえ、穂積の部屋へ行って、そのまま降りて帰っていったので、一往復しかしていません。なにか気になることでも?」
「はい。ええと、犯人は、穂積が一月二十八日に京都市内のホテルに宿泊することをどうして知ったんですかねえ。しかも、穂積が宿泊した部屋番号まで知っていたみたいですし」
「そういうことになりますね。実は、フロント従業員に訊ねたところ、午後八時前に穂積と名乗る男から、自分がチェックインした部屋番号をうっかり忘れてしまったから確認してもらえないか、と電話がありまして、従業員は、特にあやしむこともなく、本人のフルネームを再度確認してから、電話主に穂積の部屋番号を教えてしまったそうです」
「なるほどな。まあ、妙な電話だけど、その日に穂積が宿泊していることを知っていなければ、そんな電話をかけるやつはいないからな。従業員が疑わなかったのも仕方ないか。
でも犯人は、穂積がそのホテルに宿泊することをどうやって知ったんだろう……」
「それはもっと簡単です。穂積が今回京都を訪問した目的である薬学の研究会ですが、ネット上に開催の要綱が公開されています。さらに参加者のリストが掲載されているから、そこで穂積が発表をすることも分かりますし、遠方からの招待者たちのために用意された宿泊ホテルであるブリリアントホテル四条烏丸の住所と電話番号もしっかりと記載されていました。だから、この要綱をネット上で閲覧すれば、誰でも研究会の参加者が一月二十八日にこのホテルに宿泊するという情報を得ることが、簡単にできますね」
「穂積を殺す気になれば、ちょっとした手間で計画は立てられるわけだ。どうせ、穂積みたいな連中なんて、研究会と称するくだらないお祭りを、年がら年中やっているのだろうからな」
俺は千田の説明を素直に受け入れた。
肩口から右腕を失い、右側の袖をひらひらとはためかしながら歩く不審者。その奇怪なる人物は、有為多望なる若き天才科学者穂積智宙を残された左腕で殴打して殺害をした。そういえば、モネの蓮池で見つかった蓮見悠人の片腕は、どっちの腕だったっけ? そうだ。紛れもなく、見つかったのは、右の腕であった……。
「ところで、千田巡査部長。わたしの推理が正しければ、犯人にとって穂積智宙という男は、一連の犯行の中でも、もっとも殺害したい動機があった人物のはずなんです」
すかさず、俺は例のメールの内容から導かれた推理を述べた。
「調べあげればなんらかの埃が出てくるはずなんですけどね」
すると、千田があっさり即答をした。
「はい、それがですねえ……。
穂積智宙は、かつて六条家と親密な関係があったのですよ!」
「六条家と……?」
予想外の回答に、俺は語気を強めた。
「そうです。六条家の先代当主であった六条勝之が、穂積が高校生の時にその秀才ぶりを耳にして、大学での学習のための奨学金を無償で提供したそうです。七首の宝ということで、それが縁で、穂積は六条家によく顔を出していたそうです。だから、七つ年下の六条家の一人息子である六条道彦とも、当然ですが、知り合いだったことになります」
「なるほど。穂積智宙と六条道彦との間にかけ橋ができたってわけですね。いよいよ面白くなってきたな。六条家には穂積についてなにか訊き込みは行いましたか?」
「もちろんです。昨日、別所警部補といっしょに房江夫人と家政婦に訊いて来ました」
「そしたら?」
「穂積は京都大学の薬学部に進学して、六条家の援助を受けながら、研究に取り組んでいたそうです。でも、長期休暇になれば、七首村へ戻ってきて、六条家に顔を出して、片手間に道彦の家庭教師などもしていたそうです。
ところが、それから七年経過して、道彦がいよいよ大学受験をする頃に、突然ですけど、奨学金の賞与が停止されてしまいました」
「どうして? 家庭教師でしくじったのかな?」
「いえ、理由はどうやら穂積の研究態度に原因があったそうです。当時薬学部の博士課程に在籍していた穂積が行っていた研究の内容が、パトロンである六条勝之氏は気に入らなかったみたいですね」
「研究内容で? いったいなにを研究しようとしていたのですか、穂積は?」
「麻薬です――。禁止薬物の研究です」
「麻薬?」
「阿蔵の六条家と七首の蓮見家は、昔からずっとライバル関係にありました。蓮見家は代々医者として成功を収めてきた家系ですが、それに対して、六条家は時代遅れの伝統工芸を維持している家系で、これでは分が悪いと、当時の勝之氏は悩んでいたようです。そんなところに、東三河随一の秀才が薬学をこころざすということで、喜んで奨学金の提供に跳びついたわけですね。将来この若者が世界的な研究で成功を収めれば、スポンサーである六条家にも世間の注目が集まるわけで、勝之氏はそれを期待していたようです。ところが、その秀才が手掛けた研究が、世の中のためになるのとはおおよそかけ離れた禁止薬物の研究だったわけでして、頭にきた勝之氏は、それを知るや、賞与をピッタリと止めてしまったのです」
「真実の山では、登って無駄に終わることは決してない――。
たとえ麻薬の研究といえど、立派に世の中の役に立つと思いますけどねえ。麻酔剤は医療の進歩には欠かせない重要な研究分野だし、麻薬患者への治療法だって、もとを返せば個々の麻薬の研究から始まるわけだからな」
「そうですね。たしかに、そういう研究ならば、勝之氏の怒りも買わなかったでしょうね」
「えっ、そうではなかったんですか?」
「はい」
「意味が全然よく分かりませんけど。穂積は麻薬のなにを研究しようとしていたのですか?」
「穂積が研究しようとしていたのはですね……」
千田はここでいったん息を吐いた。
「性交時における媚薬です――」
「穂積はすごく頭が切れる反面、とてもわがままで身勝手な青年だったそうです。高校時代も、圧倒的な成績優秀者でありながら、卒業式で代表とか答辞を務めていないのは、本人の性格上まかせるのは無理があったということらしいのです。当時の穂積の担任教員から訊いたところ、成績は断トツですが、学校行事には一切協力せず、科学部に所属して、一人で勝手に化学室にこもってなにやらやっていたそうですが、当時化学準備室から何度か薬品の紛失事件があったそうです。まあ、当時はおおらかな時代で、事件もうやむやにされていたらしいですけど。
大学に入った穂積は、水を得た魚のように自己の研究に没頭していったそうです。周りの学生も、穂積が熱心に何かを研究していると思ってはいましたが、まさか性交の媚薬を研究しているとまでは、分からなかったそうです」
「それがばれて、パトロンが激怒したというわけか」
その時、突然、一人の警官が飛び込んできて、千田になにやら耳打ちをした。それを聞いた千田巡査部長の顔色が豹変した。
「どうかしましたか?」
俺はさりげなく千田に訊ねた。すると、千田はまわりを気にするように小声で返事をした。
「東京から来た探偵さん。今やってきた警官の報告によりますとですね。ついさっきのことなのですが、平川猛成がここ新郷署へ出頭をしてきたそうです!」




