17.特別捜査会議
それから三日たった一月二十一日の朝のことであった。千田から突然電話があったので、俺ははるばる新郷署まで出向いた。
「ああ、探偵さん。分かりましたよ。たしかに七首村で去年の十月に人が死んでいました!」
千田は若干興奮気味である。
「どんな人ですか?」
「老婆です。一人暮らしのお婆さん。身寄りもなく、おそらく財産もなく、また近所との人付き合いも乏しかったそうです」
「お名前は?」
「井戸田五鈴――、年齢は七十五歳。住んでいた場所は七首地区。覚えていますか。西淵庸平の家が崖ん下地域の一番奥の突き当りにありましたよね。実は西淵の家の裏道をさらに奥へと進むと、五百メートルほどいったところに井戸田婆さんの一軒家があるんです。でもこいつがなかなか見つけにくい小道でしてねえ。地元の人じゃなければうっかり見過ごしてしまうさびしい家なんです」
「そんなところにお婆さんが一人で?」
「なにせ限界集落ですからねえ。そんな家は他にもいくらもありますよ」
「それで……、どうして今まで分からなかったのですか? 犯人からのメールで事件が十月十二日に起こることが予告されていたのだから、警察が調べあげればすぐにも発覚できそうな事実のように思われますが」
「面目ありませんが、実は遺体が発見されたのが十月の二十五日だったんです。予告状から十日以上も経過した日でした。だから、鑑識官もうっかり見過ごしてしまっていたようです。それに、この事件は殺人ではなく事故として処理されていたみたいですしね」
「事故?」
「はい。井戸田婆さんは、自宅の敷地内にある丸井戸の中に頭からまっさかさまに落ちていて、首の骨を折って息絶えていたそうですが、なにしろ、人付き合いが全くない人でしたからね。誰も婆さんがいなくなったことに気付かなかったそうです。市役所の職員が月一で訪問していたそうですが、十月の二十三日に会えなかったので不審に思って警察へ連絡をして、そのあとで警察が現場に入って捜索した結果、井戸の中から遺体が見つかったというわけです。ただ、遺体には井戸に落ちた時に付いたとみられる外傷以外にはなにも傷がなかったので、井戸から水を組みあげている時に誤って足を滑らせて落ちてしまったのだろう、と結論づけられたのです」
「でも、後ろから突き落とされても同じようになるでしょうね」
俺は確認を求めた。
「はい、たしかにそうですが、なにしろ、資産も親戚もなんにもないお婆さんでしたからねえ。そんなお婆さんをわざわざ殺そうとする輩なんて、いるでしょうか?」
「まあ、そう思います。あんな予告状がなければ、誰も殺人事件として捜査などしないでしょうね」
俺は納得して引き下がった。
「そうですよ。今回はたまたま探偵さんが『い』で始まる不審死した人物を洗いざらい調べよ、という指示があったので気が付くことができたわけです」
「では、そのお婆さんの死が殺人だったとしたら、犯人の心当たりは?」
「利害関係から考えても誰も浮かんでは来ません。もしかしたら近所トラブルがあったかもしれませんね。とはいっても他の民家とは相当に距離が離れているので、騒音トラブルとかはまず考えられませんが」
「そうなると一番あやしいのが、となりに住んでいる西淵親子ということか。でも肝心の西淵庸平は死んでしまったし……」
俺はボソッとつぶやいた。
「待ってください。西淵は行方不明なだけで殺されたとは限りませんよ。警察は、西淵は逆に生きているのではないかと疑っていますから」
千田が少々むきになって反論したのだが、
「いえ、おそらく西淵は死んでいます……」
と、俺はさりげなく断言した。
「なぜですか?」
「それは、『い』で始まる井戸田五鈴が殺されて、『ろ』で始まる六条道彦が殺されて、『は』で始まる蓮見悠人が殺されて、そして、行方不明になった西淵庸平の名前が、『に』で始まるからです」
俺の口調にただならぬ何かを感じ取ったのか、千田の表情が瞬時にこわばった。俺は続けた。
「そうです。この事件の犯人はある決まりのもとにこのいまわしい殺人を繰り広げているのです。その決まりとは……、いろはにほへと、の順番で、村人を次々と惨殺していく――。
つまりこいつは、『いろは歌連続殺人事件』なのです!」
警察の特別捜査本部による緊急会議が開かれた。一月二十六日のことだ。第四のメールの犯行予告の期日であった二十五日を過ぎるまであえて待った感じも受ける。その期間には、西淵の失踪事件を除けば、少なくとも『に』で始める人物の不審死は新郷市内では確認されていない。すなわち、犯人が予告した第四の殺人事件の生贄は西淵庸平であったのだ、と俺は心の内で確信した。
マスコミは完全シャットアウトの警察官だけによる極秘会議である。事件に深くたずさわってきた別所警部補と千田巡査部長が中央に座り、警察官ではない俺もスペシャルゲスト的な扱いで千田巡査部長のとなりに着席することが認められた。冒頭の儀式的なあいさつの後、これまでの事件の概要を千田巡査部長が説明をした。
「まず事件の発端は、ここにいらっしゃるご職業が私立探偵である堂林凛三郎さんの個人メールアカウントへ、謎の人物から犯行予告のメールが送られたことでした。送られたのは昨年の十月十日で、そのメールを第一のメールと呼ぶことにしますが、それによると、十月十二日に八神郡七首村にて惨劇が起こるであろうと、殺人予告がしてありました。七首村というのは、現在の愛知県新郷市の東部で静岡県との県境付近にあったかつての村の名前で、現在は新郷市に合併されてなくなっています。そして懸命なる捜査の結果、七首村があった場所で一人暮らしの老婆が井戸に落ちて死んでいるのが見つかりました。場所は七首地区で、被害者の名前は井戸田五鈴。血液型O型、享年七十五歳です。死因は転落の際の頸椎損傷による窒息死。予告メールの情報がなかった当初は、事故として処理されていました。ここで注目していただきたいのは、『井戸田婆さん』が『井戸』の中で死んでいた、という事実です」
この瞬間、聴衆の警官官で吹き出したものが数名いた。
「ご静粛に。これが単なる駄洒落ではないことは、この後の事件を追っていく内においおい判明していきます」
千田はさりげなく話を進めた。
「近所の証言によりますと、井戸田婆さんを最後に見かけたのは十月七日だったそうで、それほど近所付き合いも希薄になっていたみたいです。
次に、堂林さんに予告メールが送られたのが年末の十二月二十七日でした。犯行の予告日は、翌日の十二月二十八日。そしてその早朝に、やはり七首村の阿蔵地区で、六条道彦三十歳が自宅の離れの陶工房の中で惨殺されました。顔面を鉈で何度も叩かれており、辺りは血まみれで、顔は原型をとどめていない状態でした。血液型はA型です。さらに、頸部に紐で絞められたと思われる痣が残っていました。直接の死因は頸部圧迫による急性窒息死と思われますが、凶器と思われる紐は現場には残されていませんでした。なお、被害者の顔面を殴打した鉈の方は六条家のもので、現場に落ちていましたが指紋は検出されませんでした。
そして、六条道彦が殺されてうつ伏せていたのが轆轤の上でした。そうです。名家六条家の跡取り息子『六条道彦』は、『轆轤』の上で殺されていたのです!」
今度は誰も笑う者はいなかった。さらに、現場に残された足跡を始めとするいくつかの証拠物件の説明が加えられた。
「第三のメールは、十二月二十九日に堂林さんのもとへ届きました。犯行予告日は一月六日。今度は一週間以上の猶予がありました。場所は同じく七首村ですが、それ以上の細かい場所の指示はありませんでした。そして、問題の一月六日ですが、実は、その当日は事件の通報が一件もなかったのです。しかし翌日の七日になって、七首地区随一の豪邸の当主である蓮見悠人――五十一才になる村医師ですが、彼の手が……、ええと、右手ですけど、手首の下から斧のような鋭利な刃物でバッサリ切られた状態で見つかりました。血液型はA型でした。なお、DNA鑑定の結果によりますと、発見された手首のDNAと、悠人氏が毎日使用する櫛から採取した多量の毛髪から得られたDNAが、ピタリと一致したそうです。ただ、手首以外の遺体の部分は残念ながらまだなにも見つかってはおりません」
「ということは、悠人氏が生きているという可能性も?」
聴衆の中の警官の一人が、説明をさえぎって質問をした。
「生きている可能性はもちろん否定はできません。遺体は見つかっていないのですからね。もしかすると、どこかに監禁されているかもしれません。でも、あくまでも右手を失った状態で――、です」
聴衆の方から、ううっ、などの軽いざわめきが起こった。
「なお、悠人氏は一月五日の午後六時過ぎに自宅近くの下七首停留所にて下車するのをバスの運転手が目撃したのを最期に、姿をくらませました。家族の話では、本人が自発的に失踪する動機は全く思い当たらないそうです」
ここで、千田は咳払いを一つ入れた。
「そして、蓮見悠人の手首が発見された場所が蓮見家の敷地内にある蓮池のほとりです。おそらく、犯行予告日の一月六日に手首はそこに置かれたのだと思われます。
要約しますと、『蓮見悠人』の遺体の一部が『蓮池』のほとりで見つかった、ということです」
「つまりは、そのお……、犯人は一連の犯行で意図的にしゃれを見立てている、ということですか?」
聴衆の一人が質問した。
「はい。そう思わざるを得ないのです。しかも、お気付きでしょうか?
井戸田、六条、蓮見――。この三人の名前の最初の文字が、い、ろ、は、なのです。この被害者たちは、『いろは歌』の順番で殺されているのです!」
さすがにこの瞬間には聴衆のあちらこちらで尋常ならざるどよめきが湧き起こった……。
「そして、第四のメールが送られてきます」
「ちょっと待ってください。電子メールなら送信先を特定することは、そう難しくはないんじゃないですか?」
突然、聴衆の一人から、手裏剣が解き放たれた。
「はい、それがですね。送信者は、おそらく犯人ですが、相当狡猾なやつで、いずれのメールの送信先もハッキングで遠隔操作した見ず知らずの他人が所有するパソコンの個人メールアカウントから送り付けているのです。しかも、乗っ取られたパソコンの持ち主は、ここ一年パソコンは使っていないと証言しておりまして、懸命なる捜査は依然として継続してはおりますが、いまだメールの差出人の特定までにはいたっておりません」
千田が汗をかきながらしゃべり続けている。
「第四のメールでは、これまでと違い、犯行予告日が特定されずに、メールが送られたのが一月十五日ですが、その日から一月二十五日までの十日間の間に事件が起こる、とだけ記されていました。そして、その二日後である一月十七日のことですが、蓮見悠人の家でとある催し物が開かれました。それが、蓮見家のたった一人の令嬢、蓮見千桜が行う祈祷の儀式を公開する会です。蓮見千桜は、まだ小学生ですが近所でも評判の才色兼備な少女ということで、その姿を一目見たいという若い衆を中心にした多数の村人かけつけて、休日ということもあって、参加した村人は全部で九十一名にもおよびました。それは盛況な会でしたね。
祈祷が始まって小一時間ほど経過した時ですが、参加者の一人である西淵庸平という男が――、ええと、年齢は三十一歳で、二番目の被害者である六条道彦とは同級生で友人なのですが、現在は無職でいつも家に引き籠もっています。その西淵が突然意味不明な大声を発して部屋から飛び出して行きました。どうやら令嬢の祈祷の迫力に圧倒されて我を見失ったらしいのです。そして蓮見家の裏山にある鍾乳洞へ向かっていって、そのまま行方不明になってしまいました。もしかしたら、足を滑らせて洞窟の裂目に落ちてしまったのかもしれません。たまたま祈祷会に参加をされていた堂林さんが、真っ先に西淵を追っかけていきましたが、彼も洞窟の途中でなにものかに後頭部を殴打されて気絶してしまいました。堂林さんのお話によれば、意識を失う直前に暗闇の奥から断末魔のような西淵のさけび声が聞こえて、それからなにか大きな物体が水に跳び込む音がして、そのあとで急に意識が途絶えたそうです。
堂林さんが倒れていた位置からもう少し先へと進んだ場所が『逃げ水の淵』と呼ばれていて、深くて危険な断崖の裂目と、遥か下を地底の川が流れているのです。しかしながら、現時点で西淵の遺体は見つかっておりません。もっともこの逃げ水の淵に万が一にも落ちるようなことがあれば、遺体の回収は極めて困難であるともいえます。
犯人は洞窟の中にひそんで西淵を待ち構えていた。そして、まんまとやって来た西淵を逃げ水の淵に突き落とした。しかし堂林さんが追いかけて来たのに気付いて、こっそりと背後へまわり堂林さんを殴った。
これで『西淵庸平』を『逃げ水の淵』で殺すという、『に』の殺人が完成します」
「ちょっといいですか。もしかしたら、その西淵がまだ生きているということはありませんか? その、淵に落ちた水音は、大きな石でも適当に落としておけばよいのだし……」
「はい、そうですね。我々もその可能性は常に考えております。錯乱しながら洞窟へ駆け込んだのも西淵の自作自演の演技であり、みずからが殺されたことにしたい狙いがあったのかもしれません」
「しかし、逆に西淵が殺されたとなると、どうして犯人は西淵が鍾乳洞へ逃げ込んでくることが予測できたんでしょうか?」
聴衆の別な刑事が質問した。
「そうです。『に』で始まる人物が発狂して自分が隠れている鍾乳洞へ走り込んでこなければ、この犯行は実現できませんからね」
千田はあっさりと同意した。
「なにかトリックがあるのではないでしょうか?」
つい我慢できずに俺は割り込んだ。たしかに西淵の行動は予測不能だ。そして、西淵が殺されたとすれば、逃げ水の淵まで逃げ込んでくるのを待ち伏せしていた犯人はなんらかの方法で予測していたことになる。だが、そんなこと現実に実行可能だろうか?
「顔のない被害者イコール真犯人というトリックは、推理小説の中では鉄則ではありませんか?」
聴衆の一人が挑発的に千田に問いかけた。
「しかし、遺体がないといえば蓮見悠人も同じですが……」
千田が答えるよりも早く、別所警部補が指摘した。
「でも、こちらは右腕が出ていますからね。蓮見悠人はおそらく殺されているということで、ほぼ間違いはないでしょう。まさか、わざわざ右腕をみずから切り落として自分を容疑者の嫌疑から外そうとするなんて、あまりにも突拍子もない猟奇的な行為であり現実にはまず考えられませんよね」
と、千田が総括した。
「以上が事件の概要です。結局のところ、井戸田五鈴が井戸で殺されて、六条道彦が轆轤の上で殺されて、蓮見悠人が蓮池で殺されて、西淵庸平が逃げ水の淵で殺された、ということです。
今回の連続殺人事件を踏まえて、また犯罪の未然防止のためにも、警察は情報をマスコミに公開することにしました。ただ、予告メールについては一般市民に必要以上の混乱を引き起こす恐れがあるので、伏せておこうと思います」
「では、何を公開するのですか?」
聴衆の中の警官が訊ねた。
「現在新郷市にて被害者の苗字が『い、ろ、は、に』で始まる四人の人物が殺された、または行方不明となっている。さらに、次の事件では『ほ』で始まる人物が狙われる可能性が極めて高い、ということです」
「つまり、新郷市の住民で苗字が『ほ』で始まる人物は今後の事件に注意をうながすように、ということですね。でも、『ほ』で始まる人物はかなりいるのではないですか?」
「新郷市の人口はおよそ五万人。そのうち『ほ』で苗字が始まる人物は百四十九名おりました。さらに、旧七首村である、巣原、阿蔵、細川、七首の四地区に限定しますと、八名となりまして、細川地区の堀田家――、父、母、娘、祖父の四名、さらにそこにみえる巡査の堀ノ内正義。こちらは独り身でして、幸いにも家族はありません。また、巣原地区に、本多という一人暮らしのお婆さんと、阿蔵地区に星野という老夫婦がおります。この八名の中で堀ノ内巡査を除く七人に関しましては、家のそばに見張りの警官を配置するなど厳重なる対策を取りたいと思っております」
千田が高らかに宣言した。
「あのお、本官の見張りは付けてはくれないのでしょうか?」
横で控えていた堀ノ内巡査が、蒼ざめた顔をしながら質問をした。
「きさまは見張っている側だ!」
別所警部補がきつく一喝すると、堀ノ内巡査は肩をすぼめて押し黙ってしまった。
「第五のメールはすでに送られてきているのですか?」
聴衆から質問があがった。
「まだです。でも送られてくるのも時間の問題と思われます」
「そのお、事件の解決はいつになるのですか?」
「断言するわけにもいきませんが、警察の威信を賭けて、少なくとも、そうですね。まさか、最後の文字である『す』まで行くことは絶対にないでしょう。それだけははっきりと断言できます。せいぜい、『いろはにほへと ちりぬるを』の『を』くらいまでには間違いなく逮捕して見せますよ。まかせてください。でもその前に、この犯人が『を、ゐ、ゑ』の三文字をどう片付けるのかは、実に見ものですよねえ」
千田が皮肉を交えて、一人でくすくすと含み笑いをした。
「冗談じゃない。これから先、八回も事件が起こるなんて……」
別所警部補が真面目顔でぼやいた。
この後、会議は警備の方法の確認とマスコミに対する応対などを検討してから終幕した。
会議が終わった後、ついに警察はマスコミに事件を公表した。
『いろはにほへと殺人事件――』。
各紙が一斉に事件を報道して翌日になると、過疎地の限界集落である七首村には、住民人口を上回る数の報道陣が一気に押し寄せた。