16.落ち武者伝説
「ああ、気付かれたか――」
俺は寝床の中にいた。良延和尚? ここは龍禅寺か……。
「今、粥を持ってきますに」
和尚が優しく俺に語りかけた。
「俺はどうしていたんですか?」
「鍾乳洞の中で探偵さんは一人で倒れておったんを、後から追いかけてった千田っちゅう警官があんたを見つけてくれたんだに」
「そうか、俺は後頭部を殴られたのか?」
良魁君が持ってきた粥をすするうちに、身体も温まって落ち着いてきた。でも、後頭部はまだズキズキと痛んでいる。
「あのう、今日は何日ですか?」
「十八日ですが」
良延和尚が答えた。辺りを見まわすと、時刻は午後になっているようだ。でも、夕暮れまでにはもう少しありそうである。つまり、俺は丸一日眠っていたということになる。そりゃ腹も減るわな。
「そうだ。西淵は……、どうなりました? たしか、発狂して洞窟へ入っていったんですけど」
「それがのう、行方不明じゃそうだに」
「行方不明? なら、遺体が見つかったわけではないんですね?」
「あんたをここへ連れてきた警察ん方からちらっと聞いた話じゃが、どちらかっちゅうと警察の方では、西淵がどっかに隠れとって、やつこそが事件の真犯人ではないか、と推理しておるみたいじゃったなあ」
あの西淵がこの連続殺人事件の狡猾な犯人か……。まあ、警察がそう推測するのも理解できるが、俺にはいまいちピンとこない。
突然白衣の女が部屋に入ってきた。驚いたことに、それは戸塚真由子であった。
「堂林さん――、ちょっと患部を見せてください。あらあら、こんなに腫れちゃってだめじゃないの。ちゃんと病院に運んでくれなきゃ。万が一のことがあったら取り返しがつきませんよ!」
「しかしのう。細川の診療所は、ほれ、蓮見先生がいのうなって、この前は閉鎖中じゃったしな」
良延和尚がいいわけをした。
「先週の木曜日から診療所には新しい先生が見えました。今はしっかり回転していますわよ」
「その先生なんじゃが、ちまたの評判がめっぽう悪いそうじゃて。まんだ来て一週間も経っとらんのに、もうあちこちで不満の声を、このわしの耳までも届いちょるくらいじゃからのう。
なんでも、医師免許を取ったばかりのペいペいの若僧で、このまえ、野村のじいさんがちいと頭が痛いというたら、風邪薬と胃腸薬と下痢止めをどっさりまとめて処方しおったみたいで、まあ大は小を兼ねるというわけじゃろうがなあ、これが蓮見先生じゃったら茶飲んで布団かぶってさっさと寝ろって、軽く笑いとばしているところじゃて」
「まだ先生はここでのお仕事に慣れていないだけですわ。これから徐々によくなっていくことでしょう」
戸塚真由子が弁護した。
「蓮見先生がいのうなってから、真由子さんが看護婦に復帰して、こんなふうにして近辺の家々を見まわってくれてのう。本当に助かっちょるんじゃよ」
和尚が俺に説明した。
「そうだったんですか……」
「とはいっても、あたしは医者じゃないので、治療をすることまではできませんけどね。そんなことより、この人は新郷病院まで運ばなきゃダメだって、あたしはさっきからいっているのよ」
もともと戸塚真由子は細川診療所の看護師であったのだが、千桜が蓮見家に引き取られてから急きょ運転手が必要となり、たしか、蓮見雷蔵から直々に依頼されて、蓮見家で働くようになったと聞いた気がする。今は、運転手として千桜の送り迎えをしながら、昼間は看護師として診療所の手助けと、八面六臂の活躍をしているようで、それはさぞかし多忙な事であろう。
「あの、俺、外へ出ていってもいいですか。まだ、いろいろ調べたいことがあるんで」
「外へ出るですって……? とんでもないわ。落ちついたらまず、新郷病院で脳の検査を行いますからね。そこで、OKが出なきゃ、外に出ては駄目です!」
あいかわらず、気の強い女だ。
「ならば、誰か鍾乳洞に詳しい人物をここに連れて来てはくれないか。今すぐに確認したいことがあるんだ。
西淵がいなくなった場所に、俺が思うになにか重要なものがなければいけないのだから……」
うなされるように、俺は声を張り上げた。
「おーい、良魁――。探偵さんに持ってきてくれんか? たしか、七首鍾乳洞のパンフレットをお役所からもらったじゃろう。たんすの上の引き出しの中にはいっとると思うんじゃが」
和尚が良海に指図した。
「パンフレット?」
「そうじゃ。もう十年くらいむかしになるかのう、鳳凰町の役場で村おこしのために七首の鍾乳洞を観光地化しようという動きが湧き起こってなあ。鍾乳洞の内部が調査されて、中を克明に記した地図が掲載されたパンフレットが作られて、村の衆には無料で配られたんじゃよ。ただ、その企画がその後、廃止になってしまったんじゃ」
「なぜですか?」
「観光地にするにはかなり危険な箇所があることが分かったんだに。そこを工事するのに膨大な予算が必要であることも見積もられたんじゃ。さらには、そのすぐ直後に鳳凰町が新郷市に合併されてしまってのう。企画話は水の泡のごとく、一気に途絶えてしまったんじゃよ」
「蓮見家が裏で反対して糸を引いていたという話も聞いたことがあるわ……。あんな場所を観光地化されたんじゃ、はた迷惑だしね」
俺が差し出した体温計を確認しながら、真由子も会話に割り込んできた。やがて、良魁くんが一枚の紙切れを持ってきた。
「ありましたよ、探偵さん。これが、幻の名物観光地となってしまった七首鍾乳洞です」
良魁くんから手渡されたカラーのパンフレットには、『小さな里山で大いなるときめきを……』という表題と、いくつかの写真、それに鍾乳洞の内部の地図が書かれていた。
その地図によると、洞窟の入口は一つだけ。中に入るとすぐに道幅が狭くなって、短い通路が書かれているが、そこは、『天の岩戸』と名付けられていた。やや強引な名付けにも思えるが。
その先で洞内は急に広くなる。そう。あの天井が開いた大空洞のことだ。そこは、『高天原』と名付けられていた。なるほど。こいつはうまい命名だ。
さらに高天原の中には小さな池があって、『鏡ヶ池』というらしい。それから、すぐそばには、『蛙岩』をいう石筍があるそうだ。こちらは写真が掲載されている。さらに、『狐の蝋燭』という場所。もしかすると、たくさんの石柱の束ができているのかもしれない。
そして、『海亀の通い路』という細い通路が高天原の一番の突き当りから、さらに奥へ伸びていた。西淵が逃げ込んだ例の小さな穴のことであろう。その先にある小さな空間が、この地図に書かれた最新部であり、そこは『竜宮の間』と名前が付けられていた。そこには地底川が流れていて、『黄泉の滝』とか、『逃げ水の淵』などのポイント名も記されている。
逃げ水の淵――。たしか、俺が気を失った場所もたぶんこの辺りだ。そして、その近くで、西淵も行方をくらませている。西淵庸平と逃げ水の淵。このよく似た二つの言葉は、もしかすると犯人が見立て続ける駄洒落の可能性が考えられる。しかしそうだとすれば、鍵となる言葉は『淵』となるのだろうか……?
六条道彦の『ろく』と、蓮見悠人の『はす』、そして、西淵庸平の『ふち』か……。ろく、はす、ふち――。いったいこれらの三語がなにを意味するのか? 畜生、全然分からない。
「それにしても、よくもまあ、七首洞窟に入ったわねえ? あの、気味の悪い人喰い洞窟に……。あなた、呪われちゃうわよ」
戸塚真由子が感心するようにふっとつぶやいた。
「呪われる?」
「そうよ、知らないの? 七首伝説を――」
「いや、全然。和尚さんは、ご存じで?」
俺は和尚に目配せをした。
「ええ、まあ地元ですからなあ」
良延和尚はにこにこ笑っていた。
「呪いだなんて、今は文明と科学の時代、二十一世紀ですよ」
俺は真由子にいいかえしてやったが、真由子も負けてはいない。
「あら、いくら時代が進化したって伝説は普遍なものよ」
「面白そうですね。それはいったいどんな伝説ですか?」
いやみがこもった俺の問いかけに、真由子の細い眉がキッと吊り上った。
「それはね、時代は戦国時代。ここから新郷市役所へ向かった少し手前に広い盆地があるんだけど、そこで歴史上有名な合戦があったのは知っているわよね?」
「長篠の合戦だな……」
俺はあっさり答えた。
「そう、別名、設楽が原の戦い。
地元の君主、奥平貞昌が長篠城に籠城していたけど、もう落城は必死の風前の灯火だったわ。その長篠城を包囲していたのが当時の最強の無敵騎馬隊を率いる若き武将、武田勝頼。
相対するのは、一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に三連敗中の三河の雄、徳川家康と、天下統一の野望をもくろむ、織田信長との連合軍。この二つの大きな勢力が真っ向からぶつかった有名な合戦よ。
結果は前代未聞の鉄砲隊を有した連合軍の大勝利。連合軍では死亡した武将がゼロなのに対し、武田軍で犠牲となった武将は、武田四天王と呼ばれた山県昌景、馬場信春、内藤昌秀を筆頭に、重臣や指揮官のほとんどにも及び、戦死者数は実に一万を超えたとさえいわれるほどまでにその被害は甚大だったの。歴史上の数ある戦いの中でもここまで一方的な決着が着いたものは極めて珍しいそうよ」
どうやら真由子は、歴女さながらの博識であるようだ。
「連合軍の執拗な追撃を逃れて北へ逃亡した、武田軍のわずかな生き残りの中で、七人の落ち武者がここ七首村の山里までやって来て、七首鍾乳洞を見つけてこっそり隠れたそうなの。そのことを知った里の村人たちは、最初こそは好意的に七人の落ち武者たちを受け入れたそうだけど、やがて、徳川家康公の命を記した令状が村へ送られてきたのよ。そこで書かれていたのは、万が一にも武田軍の落ち武者を囲まっている村が判明すれば、そこに住む民も同罪として村全体を打ち壊してしまうという、とても厳しいおふれだったの。村人たちは散々相談したあげく、この落ち武者たちをだまし討ちで殺してしまおう、ということでまとまったのよ。
そこで、ある日七首洞窟で酒宴を開いて、そこで七人の落ち武者に毒を盛って、苦しんで弱ったところを竹やりで一人一人を串刺しにしながら殺していったそうよ。でも、最後の一人が追い詰められた時、みずからが吐いた血反吐で血まみれとなった凄惨な姿で、村人の前で仁王立ちとなってこう叫んだのよ。
「おのれ、甘い言葉で油断させておきながら、だまし討ちなるこの仕打ち。畜生どもよ、今宵の光景をよおく目に焼き付けておくがよい。我ら七人の怨み。この村の民は全員、末代まで呪い尽くしたのちに、根絶やしにしてくれようぞ。うぬら、覚悟しておけ!」
そういい残して、取り囲んだ村人たちの七本の竹やりで突かれて、そのまま絶命してしまったそうよ。その後で、村人たちはこの七人の首を切り取って、家康公へ献上をしたらしいわ。
当時の村人たちは七人の武者の祟りを怖れて、首なし武者の亡きがらを村の高台にある墓地へ埋葬して丁重に供養をしたそうよ。ほら、七首地区の西に共同墓地があったでしょう。あの中で一番高いところに位置する場所に七人の落ち武者の名前が書かれた墓石が並んでいるから、一度見ておくといいわ。
でも、村人たちの懸命な供養にもかかわらず、それから七首村でいくつかのいたましい事件が起こるのよ。
まず、天保の飢饉の時、この村ではそれほどまでは深刻ではなかったそうだけど、その時に餓死した人数がちょうど七人。それから、明治時代に阿蔵川で起こった洪水で亡くなったのも、これまた七人。さらには、昭和の戦時中に流行した結核で亡くなった村人が、またもや七人だったといわれているわ。本当かどうかは定かではないけどね。
とにかく、この七首の里に住んでいる住民は、誰もが七首伝説を信じているのよ」
「ふーん、武田の落ち武者による祟りか……。こわいねえ」
そういって、俺は布団の上で仰向けになって寝転がった。
暇だ。とにかく、暇だ……。
戸塚真由子が帰り、良延、良魁の二人もそれぞれの仕事場へ戻って、この部屋でひとり切りになると退屈感が一気にこみ上げてきた。とりあえず、今日だけは真由子の言いつけを守って寺からは出ないようつもりだが、あまりになんにもすることがないので、俺は天井をひたすら眺めていた。
ふと視線を下げると、床の間に置いてある屏風が目に入った。かつて、なにかしらの文章が書いてあるのだが、草書体であるために読むのをあきらめた例の屏風だ。この際だから暇つぶしとばかりに、この怪文の解読に精力を注ぎこんでみるか……。
まず、眺めて気が付くのは、この文章には平仮名と漢字の両方が使われていることだ。つまり、漢詩ではないという結論が得られる。五七五という文字数でもないから和歌や俳句でもない。
全体の文章は八行で完結しており、それぞれの文章のひとつひとつはかなり短いものなので、おそらく詩であるように思える。なにかの歌詞だろうか? 童謡とか、唱歌とか、それとも、ヒット曲かもしれない。しかしそうなると、わざわざ屏風に書かれているのも変な気がする。やはり、日本古来から伝承されている詩歌があやしい。
第一行に注目してみる。じっくりと集中すれば、
『漢字』、『は』、『漢字』、『へ』、『ど』、
の五文字で構成されていることが判明した。うん、ここまでは間違いない。
さらに、第五行目のラスト二文字の漢字ははっきりと読むことができる。『奥山』と書いてあるのだ。
そして、全文の最後の行のそのまた最後の二文字が『せず』と読める。
なるほど、分かってみればすこぶる簡単じゃないか。とても有名なあの歌だ……。
色は匂へど
散りぬるを
我が世誰ぞ
常ならむ
有為の奥山
今日越えて
浅き夢見じ
酔いもせず
そう。こいつは『いろは歌』だったのだ。あいうえお、の四十七文字がきれいに一文字ずつ組み込まれた歌で、平仮名で書くと、
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
となる。『ゐ』はワ行イ段、『ゑ』はワ行エ段の平仮名文字をそれぞれ表している。ちなみに、ワ行オ段の『を』は現代でも助詞で使用されているやつだ。意味を考えれば文の区切りは上記のような七五調の歌となるが、なぜかこの歌は七文字ずつ区切って書かれる表記もあるそうだ。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
というものである。この状態で文末の文字を見ると『とかなくしてしす』と読める。『咎無くして死す』、つまり、無実の罪で殺される、という謎めいた文章があらわれるのだ。これ以外にも、この歌全体になんらかの暗号が埋め込まれているのではないか、とか、文字の数が四十七であることから、赤穂浪士の四十七士になぞらえているのではないか、という珍説までもあるそうだ。
歌の内容を調べてみると、
きれいな花は、咲いてもすぐに散ってしまう。わたしたちの世の中で、永遠に美しくあり続けるものなど、ありはしないのだ。人生という険しい山を、今日超えることができたわたしは、儚い夢を見るでもなく、酒の酔いでごまかすでもない、真の幸福の境地に、今はいるのだ。
といった意味になるらしい。なんでも、仏教の思想を描いた意味だそうだ。
次の瞬間、俺の身体に電気が走る。ああっ、どうして気付かなかったのだろう?
あさきゆめみし――。
一連の謎メールのこの送信者名は、いろは歌をほのめかしたいと意図する犯人が提示した、これでもかといわんばかりの露骨であからさまなヒントそのものではないか! なんてことだ……。今さらながら自分の馬鹿さ加減に呆れるばかりである。
俺は急いでスマホを取り出す。電話をかける先は新郷署にいる千田巡査部長だ。
「堂林です。千田巡査部長ですか?
今からいうことを大至急調べてみてください。昨年の十月十二日の前後に七首村のどこかで、名前が『い』ではじまる人物が殺されているはずです!」