15.白昼の祈祷会
一月十七日の日曜日は小春日和の晴天で、冬としてはかなり暖かな日であった。本日十一時に、蓮見家――通称七首屋敷の別館にて、令嬢蓮見千桜による祈祷会がおこなわれる。村の主な面々をわざわざ招待して、しかも一般人も自由参加してよいということだ。通常ならばこんな催し物を開いたところで、人口が数百人しかいないこの過疎地域では人が集まるはずもなさそうだが、なにしろ、普段は城のような西洋館の中で隔離されている謎のベールにつつまれた絶世の美少女がついに人前へ姿をあらわすということなのだから、村中で相次ぐうわさが広まって、まるでアイドルコンサートなみの盛り上がりをみせているようである。
パトカーで十時過ぎに七首地区へ到着した時には、すでに蓮見邸の前の道にはあまたの車が駐車していて、蟻の入り込む透き間がないほどであった。すぐとなりにある旧七首小学校の運動場の跡地にもたくさんの車が勝手放題に留めていて、我々のパトカーは一番奥の木陰までいってようやく留めることができた。
「ちょっと、遅かったみたいですね。まさか、こんなに人が集まるなんてね」
千田巡査部長が頭をかいた。
「でも、まだ始まる時刻の一時間も前ですよね」
俺が問い返すと、
「みんな、一番前の席を狙っていますからね。もしかすると、昨日から座り込んで待っていたものがいるかもしれませんよ」
と、千田が答えた。
俺たち一行は、千田巡査部長と堀ノ内巡査と俺の三人である。名目上は、イベントが無事に遂行されるようパトロールということであるが、こと千田と堀ノ内に関しては、令嬢の素顔をぜひおがんでおきたいという切実な欲望があったのもまた事実だ。別所警部補は豊橋署でたまたま仕事があって顔を出さなかったが、あとから聞いた話によると、今回来ることができなかったことに対して相当にいらだって、そこいらじゅうに当たり散らしていたということである。
蓮見邸の中へ入ると戸塚真由子が通路にいて、俺たちを見つけると声をかけてきた。
「すみません。これより先では写真撮影や録音が禁止です。申し訳ありませんが、スマホなどをお持ちの場合こちらで預かりますのでよろしくお願いします」
すると、千田が困ったような顔をしていった。
「あの、わたしは警察のものでして、その、緊急に本署まで連絡する必要がありますから……」
「いいえ。撮影や録音などの行為はお嬢さまの集中力をみだしてしまい、祈祷がうまく行われなくなってしまう恐れがありますから、スマホの持ち込みはいっさい禁止と回覧板の説明書にも記載されていたはずです。警察の方とはいえ、それが守られなければここから先はお通しすることはできません」
断固たる態度はいかにも真由子らしい。
「ということは、今館内にいる人は全員、スマホや携帯を持っていないと……?」
俺が代って訊ねると、
「そうですよ」
と、真由子はあっさり返した。
結局、千田は車へスマホを置いてくるはめになり、俺は持っていたカバンの中身を全て真由子に見られることとなった。
先へ進むと、ステンドグラスがはめ込まれたマホガニーの扉があった。祈祷が行われる『奥の間』と呼ばれる別館は、このいかつい扉で屋敷の本館と区切られているのだ。そこを潜りぬけて、いかにもあやしげなる暗くて長い廊下を俺たちは進んでいった。
奥の間と呼ばれる場所は小さな体育館のような部屋で、床は畳ではなく寒々とした木板が貼ってあるだけだった。上座には舞台となる段差があって、壁には巨大な神棚が設置されていた。お札がまつられた三社のお社に太いしめ縄が取り付いていて、紙垂と呼ばれる白い紙の飾りがひらひらと垂れていた。中央のご神鏡のまわりには米と塩と酒がそなえられ、その両側には榊が立っていた。
寒さ対策のため、いちおう円筒型の石油ストーブが館内三か所に設置されていたが、部屋が広すぎるから、ないよりまし程度にしか効いていなかった。しかし、今日は一月にしては異例の暖かな日だったので、観客で不満をもらすものはいなかった。
そこには五十人ほどの……、いや違う。冷静に数えてみると、なんと八十七人もの人間がいた。その大半が男で、十人ほどの女衆は申し訳なさそうに小ぢんまりと一箇所に固まっていた。まだ、開演までは時間があり、それぞれが好き勝手なことを口走って館内は異様な盛り上がりを見せていた。
さっそく年寄り女衆のはなし声が聞こえてくる。
「蓮見の娘っ子が、いよいよ姿を見せるんじゃと。こんなん初めてだにねえ」
「どんなお方か、あんた知っちょるけ?」
「家ん孫がなあ、同級生じゃから、よう話を聞かされちょるけんど、あんまり頭がええんで、お高く留まって誰も相手にせんそうだに。なんでも、同じ世代の子としゃべっても、ちいとも面白ぉないそうじゃ」
「なんかやじゃのう、そんな我がままん子は……」
最前列には、還暦をとおに超えた男たちが並んで、手振りをそえながらわめき散らしていた。見た目ですぐに分かるが、招待された地元のお偉いさんたちであろう。しかし、肝心の会話の内容はというと、もはや聞くに堪えない下ネタである。
「七首のお嬢ちゃんよお、最近、あそこがおっきくなっとるんだと」
「あそこって、どこじゃい」
「おっぱいじゃよ。おっぱい。最近、嬢ちゃんのおっぱいがのお、そのお、ちょこっとずつ膨らんできちょるっちゅううわさじゃに」
「ほんとけ? まんだ、小学生じゃろうに……」
「おめえ、知らんのか。最近の小学生ちゅうんは、とびきり発育がええからのう」
「そりゃあ、たまらんなあ。おい、ここから見えっかな。その、嬢ちゃんの膨らんどるおっぱいが」
「ああ、たぶんな」
「でもなあ、服の上から膨らんどるのが分かっても、そんだけじゃなあ……」
「だからよう、嬢ちゃんのおっぱいの膨らみを、ここでじっくり目ん奥に焼き付けといて、家に帰ってからカカアの乳をもめばよう、久しぶりにおっ立つかもしれんじゃんか」
「なるほどぉ。そりゃあ、ええ考えじゃ――」
その向こうでは、三十代と思われる三人の主婦がぺちゃくちゃと甲高い声を張り上げていた。
「うちの旦那がどうしても来たいっちゅうから、心配になってあたしも来ちまっただに」
「そんなに、きれいなんかの。蓮見のお嬢さまって……」
「さあな。うわさで美人だのいうんは簡単じゃけど、そんな美人が、こん村にそうそういるわけないだに」
「それもそうだにな」
どうも女たちの話は、千桜に対してしっとする内容が多くなるようだ。ところが、それが二十代の若者となると、いよいよ抑えが利かなくなってくる。
「ええなあ、こん廊下は――。ちさぽんが、毎日素足で歩いとるんじゃろうなあ」
ちさぽん……? 聞いていた俺はガクッと力が抜けた。アイドルじゃあるまいに……。
「おい、おまえ、そこでなにしとんじゃ」
若者のもう一人が、顔をへばりつけながらせわしげに床の上をはいずりまわっているのが見えた。
「おお。ひょっとしてよお、ちさぽんのアンダーヘアが落ちとりゃせんかと思ってな……」
「たわけか? ちさぽんはまんだ小学生だに。そんなん生えとるわけがないだら」
「馬鹿こけ。ちさぽんは小学生にしちゃあ背が高けえから、あれなら絶対に初潮は済んどるって。間違いねえ。下の毛だって、たぶんもう生え始めちょるぞ」
だからって、どうしてそんなものがそこに落ちていることを期待するのか、もう俺にはついていけない境地である。
参加者それぞれには、座布団が配られていた。黙って座っている大抵の者は、緊張した面持ちで時間が来るのを待っている。龍禅寺の良延和尚と良魁くんも姿を見せていた。良魁くんは俺の顔に気付くと、目配せで合図をした。
阿蔵の六条家関連の人物は誰も姿を見せていないようだ。どうもあまり仲がよくはなさそうである、この両家は。
さらに来賓たちのすぐ後ろにあたる絶好の席には、太い腕を組んだ平川猛成が目を閉じたまま背筋を伸ばして正座していた。それは明らかにそばにいるものたちを威圧するスタイルで、平川の周辺にはちょっとした余地ができていた。
「あそこにいる平川ですが、覚えていますか? 不良三人組の一人です」
千田が耳元でささやいた。
「ええ、もちろん」
「妻子とは別居中ですが、調べてみたらその理由が分かりましたよ」
「へえ。なんですか?」
「家庭内暴力です。まあ、いかにもって感じですけど……」
やがて、使用人の尾崎洋美がしずしずと舞台の上へ現れた。着ているのはいつもの家政婦服ではなくて、紬と呼ばれる柳色の着物であった。
「皆さま、お忙しいさなか当家のささやかなる催しにお越しいただき、まことにありがとうございます。まもなく、当家の令嬢、千桜さまがこちらへまいります。なお、祈祷では想像を絶する神経を酷使いたします。くれぐれも祈祷中はお口を開かれることのなきよう、お静かにお願いいたします」
舞台に置かれた拡声器を使って少しだけ音量を大きくしているので、尾崎の声は広い館内にほどよい感じで響きわたっていた。どうやら千桜の祈祷もこの拡声器を通して行われるみたいだ。
とその時、西淵庸平が飛び込んできた。完全なる遅刻である。にもかかわらず、全く遠慮することもなく、通り道にいる客たちを押しのけてそ知らぬ顔で縁側に一番近い窓のそばまで行くと、そこに陣取ってでんとあぐらをかいた。たぶんあの体型で正座はできないのであろう。さらに暑かったのか、西淵は外へ通じる縁側の窓ガラスの引き戸を無断でちょいと開けてしまった。
その西淵の恰好はというと、祈祷には全く不釣り合いの黄緑蛍光色のど派手なジャンパーを着込んで、ズボンはぜい肉の厚みでパンパンに膨れ上がっていた。室内なのに毛糸の帽子も取らず、マスクに黒眼鏡と、まるで不審者か、はたまた地下アイドルの追っかけ隊長さながらのいでたちであった。
「それでは、ただいまよりお嬢さまがご入場されます」
尾崎洋美がそう告げると館内にはいっせいに静まり、異様な緊張がピンと張りつめた。
すると、白い小袖に緋色の袴姿で、細い身体付きの巫女がしずしずと舞台にあらわれた。背中まで延びた長い後ろ髪を白い紙でひとまとめに束ねていて、頭にはきらびやかな花簪を付けていた。巫女は舞台の中央まで来ると、さっとひざまずいて観客に向かって正座をし、両手をついて深々と一礼した。そのうるわしい仕草に圧倒された観客たちが、固唾を飲んで視線を集中させる。やがて巫女がゆっくりと顔を上げると、その時誰もが声には出さなかったが、明らかに観客たちのあいだで巨大などよめきの渦が湧き起こっていた。
それは幼い小学児童の顔でありながら、同時に落ち着いた大人の品格がにじみ出ていた。しているのかいないのか分からぬ程度の薄化粧の下、雪のように真っ白な素肌がちらりと露出していて、頬に至っては触ると吸い付きそうなくらいにすべすべしていた。巫女はいったん立ち上がって、大麻と呼ばれる榊の枝に紙垂や布をくくりつけたお祓い道具と神楽鈴を手にすると、再びこちらへ向かって音を立てずに正座した。
「ご一同の皆さま、ただいまより祈祷を始めます。目を閉じて、舞台の上におられるお嬢さまの方へ頭をお向けください」
尾崎博美の声がした。全員がいっせいに頭を下げると、シャンシャンと長い鈴の音がしばらくのあいだ鳴り響いた。それが済むと、蓮見千桜は神棚へ向かって、つまり観客の方へはお尻を向けながら、あらためて座り直した。
『――八百萬の神等を、神集えに集え賜い……』
思ったよりも普通の子供の声だった。もっと低い精神異常をきたした老婆のような声を予想していたので、意外と拍子抜けだった。そのあとも、わけの分らぬ呪文のような言葉が巫女の口からとうとうと流れていった。これだけの説明だと、眠気をもよおすような退屈な会だと思われてしまうかもしれないが、いかんせん、声の主が絶世の美少女ゆえに、なにかしら真面目に聴いてみたくなるもので、ところどころに理解できない単語が連なって内容がほとんど分からなくても、しだいにまどろむような心地よさに襲われるのである。子供ながらに威厳を込めようと、千桜が意欲的に低い声を出そうと努めている印象を俺はなにげに受けたのだが、その反動で時おりこぼされる息づかいの甲高い声が、まるで性交時に男根を突かれてよがりまくる生娘のあえぎ声を、どことなく連想させた。
こんなに可憐な少女なら、年齢から考えてももちろん処女であるのだろう。いや、処女でないはずがないではないか。あんなに素直な眼をして、誰からもいじられていないであろう健康な地肌。もしもこの美少女が処女でなかったら、俺はその処女を奪い去った男を死ぬまで許すことができないかもしれない。しかしそう考えると逆に、これだけの少女ならばどんな犠牲を払ってでも我が手に落とさなければ気が済まない、という気持ちも悶々とこみあげてくるのであった。俺は、こと女に関しては決して劣等感は持ってはいない。これまでに四人の女性と性的交渉を持ち、さらにそれ以上に多くの女性と付き合ってきた。今は残念ながら特定の相手はいないけれど、今後いつでも新たなる相手は見つけられるであろう、という自負もある。しかし同時に、今後これほどの美少女と出会うことはまずなかろう、とも断言できる。田舎にうもれた完璧なる聖女――。俺の身体の三分の二くらいしかない細くて華奢な、大人の女では決して味わえない思春期独特の少女の身体を、ぎゅっと抱きしめたい欲望に駆られるのも、男の性としてどうしようもないことなのだ……。
驚いたことに、突如祈りの言葉を止めた千桜が、こちら側を向いて座り直したのである。すると、非の打ちどころのない精巧な素顔が、観客の誰からもはっきりと眺められるようになった。
「皆さま、ただ今、清めの『祓詞』が終わり、これより『祝詞(祈りの言葉)』が始まります。どうぞ引き続き、目をお閉じくださいませ」
尾崎洋美の声が静けさを破って流れた。そういわれて、俺は慌てて眼を閉じた。でもまぶたの裏では、蓮見千桜が恥ずかしげにうすら笑みを浮かべながら俺の前にたたずんでいた。そして、みずから腰帯をほどいて白装束を脱ごうとしていた。違う、これは妄想だ――。そんなことが現実にあるはずないではないか、と俺はかぶりをふった。ひょっとして俺と同じ思いで、今目を閉じている男どもがこの中にいくらかいるのかもしれない。なにしろ、今この瞬間は、未曾有の美少女――蓮見千桜がこちらに顔を向けていて、その愛らしい表情を間近に見られる絶好の機会なのだ。案の定、たいていの男は薄目を開けて、巫女に注目している様子だった。中には堂々と目を開けて、同時にあんぐりと口も開けている不埒なやつもいた。
『日能家美能光り照りそふ、生玉よ、いとしき父の行方を、我に示さん、我に示さん……』
あいかわらずあどけない声が、ろうろうと館内を流れていく。どうやら彼女は、父親――蓮見悠人がまだ生きていると思い込んでいて、その居場所を神さまから聞き出そうとしているように聞こえた。しかし、本当に悠人は生きているだろうか。たとえ生きていたとしても、片手を失ったあわれな姿でいることになるのだが……。
そういえば、どこかでなにかの香が炊かれている。金木犀の匂いに似た心地よい香りだ。俺は再び巫女の様子をのぞいてみた。かわいらしい口元が熱心に動いている。その小さな唇を見ているうちに、俺は急に猛り立つような欲望に襲われた。膝の上にあった両手が自然に股間を押さえている。もしも嫌がる処女の顔に、むき出しにした男の秘部を無理やり押し付けてやれば、息がつけない蕾のような唇は、我慢し切れなくなってやがて開かれて、その奥に隠れたきれいな歯が秘部の先端を包み込み、ついには至上の快楽が電流のごとく伝わってくるのだろうか……。
『天の身の、理の身の神勇、神威の、御利物と増せ――。
御恵を、受けても叛く敵は、籠弓羽々矢、以ぞ射落とさん、以ぞ射落とさん……』
祝詞を唱える千桜の声はしだいに昂揚してきた。八百萬の神を崇拝するというよりも、どこかにこっそりと隠れ潜む事件の首謀者を呪いでいぶりだそうとしている感じを受ける。身振り手振りもどんどん大げさになってきた。もはや自身を見失ってしまっているかのようにも見える。その異様な光景は、不謹慎ではあるが、処女が純潔を失うまさにその瞬間の叫喚のようでもあった。果たして、この部屋の中に今回のおぞましい連続殺人事件の犯人が潜んでいるのだろうか? むろん、その可能性はゼロではないが、でもまさか、呪いで犯人を自白させることなどどうしてできよう。普段の俺ならば、そんな与太話笑い飛ばすに違いないが、今、ここにいる人間の少なくとも全員が凍りついているのも事実なのだ。
依然として目を閉じたままの巫女は細い身体を震わせながら、傲岸なる祝詞を唱え続けている。男たちは、誰もかれもが小学生の小娘が解き放つ異様なオーラの勢いに飲まれて、戦慄しながらも、同時になまめかしい処女が解き放つ甘い官能に、高まった性欲を押さえ込むだけで四苦八苦している様子だ。
「なんだか、どきどきしますなあ。なんですかに、蓮見のお嬢さまのこの異様な迫力は……」
ふいに、小声で堀ノ内巡査が語りかけて来たから、俺ははっと正気を取り戻すことができた。あぶない、あぶない。おれ自身、千桜の妖術にひっかかってしまっていたではないか。
『死反玉よ、元のうつつの身とはなりまし――』
千桜の祈祷がいよいよ佳境に入ってきた。
と、その時だ。窓際から異様な叫び声がした。見ると、西淵庸平がぶるぶると震え出していた。
「違う! 僕が……、僕が、やったんじゃなーい!」
誰もがびっくりしてうしろを振り向いたが、舞台の上にいる千桜だけは平然と祝詞を唱え続けている。まるで、今起こっていることが当然であるかのようだった。
西淵は苦しそうに頭を抱え込むと、思い立ったように立ち上がって、ガラス戸を開けるなり、奇声を発しながら、裸足のままで外へ飛び出した。館内の全員が、なにが起こったのか把握できずに混乱する中、俺だけがこの状況を冷静に掌握していた。
俺はすくっと立ち上がると、西淵が出て行ったガラス戸から外へ出て、声のする方を追っかけた。しかし、長時間座っていたため、しびれが切れていて、最初は思うように足が動かせなかった。
まさか、今回の事件の犯人は西淵であり、犯人を呪う蓮見千桜の祈祷が見事に成就して、西淵に精神錯乱を誘発させたとでもいうのか?
いや、俺にはとてもそんなふうには思えない。どう考えても西淵のキャラは狡猾な犯人ではなく、本人の意に反して、犯人にとって都合の良い行動をさんざん取った挙句に、みずからは破滅をきたしてしまうピエロ役だからだ。しかし、今やつが取っている奇行は、果たして誰にとって都合が良いものとなっているのだろうか?
狂乱した西淵の叫び声が、下の方から聞こえてくる。奥の間を出た庭のまわりを取り囲む赤レンガの城壁には、裏口に当たる小さな戸口がついていた。そして、その戸口の木の扉がわずかに開いていて、外に出られるようになっていた。間違いない。たった今、西淵がここを通って、外へ逃走したのだ。
俺も扉から外へ出た。すると、眼下にジグザグの下へ降りるための石段の小道があらわれた。そう――、はじめて俺の前へ千桜が姿を見せた時に、妖精のような軽やかな足取りで降りてきたあの小道だ。すると、ここをくだった先には、モネの蓮池と七首鍾乳洞があることになる。
「チサーー。小学生のくせに、こん畜生め。かわい過ぎだぞ――。はあ、はあ、めちゃくちゃにしてえ」
一人でわめいている西淵の声がした。内容に関しては全く意味不明だ。
「おーい、西淵――。聞こえるかー。俺だ。堂林だ――」
俺もありったけの声を張り上げた。西淵に届いたのだろうか。しかし、西淵の奇声は依然として途切れなくこだましていて、その発信場所は、モネの蓮池から七首鍾乳洞の方向へと移動していた。
ついに俺は七首鍾乳洞の前までやって来た。いったんうしろを振り返ったが、誰も追いかけてくるものはいなかった。そして、西淵の声が洞窟の奥から聞こえてくる。こうなると、俺も洞窟の中へ入らなければならなさそうだ。俺は冷静にポケットからペンライトを取り出した。こんなこともあろうかと、千桜といっしょに洞窟を探検した時から、俺は特殊ペンライトを携帯することにしておいたのだ。小さいながらも、このくらいの洞窟ならば十分に役に立つ優れものである。
七首鍾乳洞の内部は最初こそ狭い通路になっているが、すぐに巨大なる空間が出現して、しかも一部の天井が削れてポッカリと青空が見えるから、この辺りならペンライトの恩恵がなくても十分に視界は開けている。
いた! ど派手な蛍光色ジャンパーを着た西淵のうしろ姿が……。
巨大空間の俺がいる場所のほぼ反対側まで、やつはもうたどり着いていた。俺に気付いたのか、一瞬、西淵はこちらの方を見た。
「おーい、西淵。それ以上進むな。そこから先は危険だ!」
俺が大声で呼び止めたが、
「嘘だ。もう騙されないぞ。あっはははっ……」
と、完全に我を失っている。その直後、西淵の姿はふっと消えてしまった。俺は慌てて、見失った場所まで進んでいった。
「やろう、どこへいったんだ?」
思わず俺は悪態を吐いた。岩がごつごつしていて、足場はかなり悪くなってきた。ふと見ると洞窟の壁にぽっかりと、人ひとりがようやく通れる小穴が開いているのが見つかった。間違いなく、西淵はここを進んでいったと思われる。いよいよこいつの出番か……。
ペンライトを点けた俺は、用心をしながらゆっくりその小穴を進んでみることにした。再び西淵の声が遠くから聞こえてくる。
「きゃははは、お願いだから僕にも見せてよ。なんでもするからさあ……」
こいつ、さっきから、なに独り言をつぶやいていやがる?
「ああ、そうかあ。こんなふうになっていたんだ。
すごいよ。ユイちゃん――」
ユイちゃん……。今、やつはたしかにそのような名前を告げたように聞こえた。千桜じゃないのか?
しかし、そのすぐ直後、西淵庸平の声の語調が豹変する。
「な、なんだ……。きさまは――?」
『きさま』だって? 誰かもう一人いるのか……。
「おい。や、やめろおーー。
ぎゃあああああーー」
身の毛もよだつような断末魔の叫び声が闇の奥からこだましてきた。かと思うと、わずかの間をおいて……、
どっぷーーん――。
なにかしら大きな塊が水に落ちる音がした。まるで、牡鹿がはるか下を流れる急流に向かってまっさかさまに跳び込んだかのような、異様な音であった。それっきり、西淵の声は途絶えてしまった……。
この小穴の中はところどころに天井からつららも垂れていて、頭部をぶつけやすくかなり危険であった。気が動転しているとはいえ、ライトもなしに西淵はよくぞ奥まで入って行けたものだと、俺は感心した。ポトリと天井から水滴が俺の首筋に落ちてきた。しばらく、はいつくばったままで小穴を進むと、その先から滝のように大量の水が流れる音が聞こえてきた。洞窟の中に川が流れているのか?
「おーい、西淵――。しっかりしろ。どこかにいるのなら、声を出してくれ」
もはや無駄な気もしたけど、俺は精一杯に声を張り上げてみた。もちろん、返事は返ってこなかった。やがて小穴が終わりを告げて、天井が少し高くなった。しかし、ここはもはやペンライトなしにはなにも見えない漆黒の闇の世界だ。
空気中に心地よい水の気配を感じた。大きな滝のそばにいるといつも感じるあのマイナスイオンの気配だ。果たして、この下に巨大な川が流れているのだろうか……?
濡れた地面の上になにかが落ちている。帽子だ――。それは、まぎれもなく、西淵庸平がかぶっていたあの毛糸の帽子であった。
次の瞬間、後頭部に衝撃を受けた俺は、そのまま意識を失った。