13.可憐な美少女
美人といっても好みはそれぞれあるが、蓮見千桜という少女に関していわせてもらえば、本来の少女に付随すべき、幼さ、愛らしさとか、あどけなさは、当然のごとく持ち合わせていながらも、同時に、バチカンのサンピエトロ大聖堂のマリア像のような透明感、一点の隙もない洗練された顔立ち、処女であるがゆえの無防備さと、男の邪心を見透かしているかのような知的なまなざしを、ひとえに兼ね備え、ガラスのように触れるとすぐに壊れてしまいそうな崇高な気品を解き放っていた。それらが大波のごとくいっぺんに押し寄せてきたのだ。廊下の奥から顔をのぞかせる、というたかがそれだけの仕草の中から……。
少女はまた奥へと引き下がっていった。このあと、俺たち三人は、しばらく口をつぐんでいたことを思い出して、互いに赤面し合ったのであった。
少し現場をうろついてみたくなった俺は、別所と千田を屋敷に残して、玄関から外へ出た。石塊鬼の門をふたたび潜り抜け、雑木林の小道を歩いて、モネの蓮池のほとりまでやって来た。捜査が一区切りついたのか、警察官はみな引き払っていて、辺りには誰もいなかった。
賢明なる読者諸君は、もうお気付きだろうか? 七首村で起こったこの二つの殺人事件に共通する奇妙な要点を……。
六条道彦の遺体があったのはどこであろう? 轆轤の上――。そして、蓮見悠人の遺体があったのが、どこだったか? 蓮池のほとり――である。
それらに共通するものは? そう……、だじゃれなのだ。
六条と轆轤で『ろく』、蓮見と蓮池で『はす』――。
明らかに、今回の犯人は、意図的にだじゃれを見立てた殺人を行っている。しかし、もしそうだとすると、『ろく』と『はす』の二語に、なにか特別な意味が込められていることになるのだが、それはいったい、なんだろう?
そして、あさきゆめみし、という犯人のペンネームが暗示するものは? たしか、そのタイトル名で源氏物語の世界を描いた人気漫画があった。源氏物語――。平安時代に紫式部によって書かれた五十四巻からなる、いわずと知れた長編小説だ。だが、五十四ある巻名の中に、『ろく』や『はす』で始まるものがあっただろうか?
正直に告白しよう。この時のことを思い出すと、俺はわれながら自分の馬鹿さ加減にあきれ果ててしまう。はっきりと明示されているではないか。犯人が意図すること……。そして、次の犠牲者……。この時の俺には、それらがぜんぶ予測できたはずなのだ!
ふと見れば、蓮見邸の裏口につながっているあの坂道を、誰かが降りてくる。はじめは小柄な婦人に見えたが、よく見ると顔が全然あどけない。蓮見千桜だ――。小学生にしては背が高いから、最初は分からなかった。贅肉や脂肪という言葉は無縁の体型をした少女は、ぴょんぴょんと軽やかな足取りで俺に近づいてきた。
「こんにちは、刑事さん」
「こんちわ。俺は刑事じゃないよ」
「あら、そうなの。じゃあ、あなたは誰なの?」
千桜は下からのぞき込むように、かわいらしい顔を、俺の顔のそばまで無防備に近づけてきた。
「俺は、そのう……、探偵だ。私立探偵――」
「ふーん、探偵さんなんだ。名前は?」
「堂林、凛三郎」
「あはは、面白い名前ね。本名?」
「親が付けてくれた名前だ」
千桜は、品定めをするようにじろじろ観察しながら、俺のまわりをふた回りした。化粧もしていないのに、ほおは淡い桜色を帯びていて、肌は透き通るように真っ白だ。
「それで、凛三郎くんは、お父さんがどこにいるのか知ってるの?」
この餓鬼、俺のことを、凛三郎くん――、と呼びやがった。
「お父さんが行方不明になっていることは、知っているのかい」
「ええ、もちろん」
「家政婦から聞いたのか?」
「いいえ。そんなの、聞かなくたって分かるわ。千桜はもうすぐ十二になるのよ。
それにさあ、千桜はね、事件に関連する重要なことだって知っているんだから」
「事件?」
「うん、お父さんがいなくなったのは、事件だからでしょう? そうじゃなきゃ、あんなにたくさんのパトカーが来るはずないわ。こんな場所に……」
「それで、お前はなにを知っている?」
「ただじゃ、教えない」
そういって、少女は舌を出した。
「じゃあ、なにが欲しい。キャラメルか、チョコレートか」
「ふふっ、馬鹿にしないで。こう見えて、千桜って結構大人なんだから。
そうねえ――。じゃあさ、千桜とキスしない?」
そういって、千桜は俺に向かってにっこりと微笑む。ブラックホールのような強大な吸引力を持つあやしげな微笑みだ。
「あのなあ、まだ幼い鼻たれ小娘の分際で、大人をからかうんじゃない!」
予想外の不意打ち攻撃に理性が混乱しかける中、かろうじて自我を取り戻した俺は、平静をよそおって、千桜にいいかえした。
「ふーん。凛三郎くんってさ、もしかしたら童貞さんなのかしら?
千桜はねえ、初めてなんだよ。まだ、誰にもくちびるは奪われていないんだから。ほうら、凛三郎くん、超ラッキーじゃない?」
いまどきの小学六年生の女の子って、こんな会話をしているのか。まあ、子供なりにせいいっぱい背伸びしながら誘惑をしているつもりなのであろう。
「大人をなめるなよ。あんまり調子にのっていると、パンツ脱がして、まだ青いまんまのその尻をぺんぺんしちまうぞ……」
「まあ、こわーい。さすがにお尻ぺんぺんは、やだなあ」
「それじゃあ、さっきのことを話せ。お前はなにを知っている?」
「ええっ、取り引きじゃなきゃ、千桜いやなんだけど……」
そういって蓮見千桜は口をとがらせたが、俺がにらみを利かせると、しぶしぶ語りはじめた。
「千桜ねえ、一月六日の朝に三回、お父さんの携帯に電話したの。そのうち、はじめの二回は、呼び出しをいくらしてもつながらなかったんだけど、三回目にしたときは、電源が切られていてつながらなかったわ」
俺ははっとした。
「三回目に電話したのはいつだ?」
「十一時半――。二回目が十時前だったから、その間に誰かがお父さんの携帯の電源を切ったことになるわよね」
千桜は、俺の思考を見越して、要領を得た答えを返した。
「切ったのはお父さん自身かもしれないじゃないか?」
「でも、別な人かもしれない……。もし、お父さんなら、千桜の電話に出るはずだもん」
なるほど、たしかにそのとおりだ……。
「きっと、お父さんは、もう死んじゃっているんだわ……」
そうつぶやくと、少女は顔を伏せた。強がってはいるけど、やはり、まだ小学生の子供なのだ。
「お父さんの持っている携帯電話には、GPS機能は付いていないのか?」
「さあ……、多分ないんじゃないの。お父さんの携帯ってさ、かなり古かったし。千桜にはGPS機能しか付いていない携帯を持たせているくせにね。電話すること以外になんにもできないんだよ、千桜の携帯は……」
想定するに、千桜がかけた二回目の電話の時に、たまたま犯人は遺体のそばにいて、携帯が鳴り出したことに気付いて驚いたのではなかろうか。そして、呼び出し音が切れたあとで、悠人の携帯を探し出し、電源を切った。あるいは、GPS機能をおそれて、バッテリーごと引き抜いたかもしれない。それにしても、GPS機能が付いていれば、事件の解明が大きく進展していたのに……。
しかし、この推理が正しいとすると、重要な結論が浮かび上がる。犯人は、六日の十時頃に遺体のそばにいたということ、すなわち、遺体はまだ廃棄されていなかった、ということだ。
「千桜――、なにか思い当たる場所はないか? 犯人が遺体を隠しそうな場所を……」
「えっ、どういうこと?」
「つまり、犯人は千桜の二回目の電話のあとで、お父さんの携帯を見つけ出して、電源を切ったんだ。そのときに、犯人はお父さんの遺体のそばにいたことになる。ということは、お父さんの遺体をまだどこかに隠し持っている可能性が高いんだ」
「そうね。でも、遺体を隠す場所なんてどこだっていいじゃない?」
「そうでもないさ。考えてもみろ。たとえば、千桜の家の中に隠してごらん。そのうちに遺体が腐って異臭がただよってくる。そうなれば、すぐに遺体は見つかってしまうんだ」
「じゃあ、この蓮池の中に沈めちゃえば?」
「こんな浅い泥沼のなかじゃあ、沈めるにも一苦労だな。山の中に捨てる方が、まだましだ」
「山の中だと、車に乗せて移動してから、担いで行かなきゃダメね」
「そういうことだ。少なくとも、お前さんにできそうな芸当じゃないな……」
「えっ、千桜が犯人だっていうの?」
「はははっ、自明でないものは全て疑え――。かのデカルト先生も、そうおっしゃっているぜ」
「ということは、犯人は強靭な身体をした人物よ。なぜなら、大人の遺体を担いで、人が来ない山奥まで、平気で歩いて上っていけたんだから」
「あるいは、犯人は非力な人間だけど、山奥ではなくて、この村の中のどこかでお父さんの遺体をまだ隠し持っている。そしてそれは、めったに人が来ない特別な場所だ……」
俺はさりげなく千桜の推理の欠陥を指摘してやったつもりだったが、それを聞いた千桜の表情が一変した。
「はっ、まさか。まっ、魔女の……?」
あまりに小声だったので、よくは聞こえなかったけれど、俺には千桜が『魔女の隠れ家』といったような気がした。
「ううん、なんでもないわ……」
即座に千桜は弁解をした。
「そうだ、きっと鍾乳洞よ。あそこなら、誰も来ないし」
「鍾乳洞?」
「そう。七首鍾乳洞――。この道の先にあるの」
千桜はモネの蓮池から屋敷とは反対方向の森の方へ伸びている小道を指差した。その小道は、木漏れ日の合間を縫ってできた暗闇の中へと消えていた。
「ねえ、これから千桜といっしょにさあ、探検してみない? 鍾乳洞の中を……」
「そうだな。ここからすぐ行けるのか?」
「うん。大丈夫」
「なら、行ってみるか……」
「やったあ、千桜とデートだね。じゃあ、家に戻って懐中電灯を取ってくる」
勝手にデートにされてしまったようだが、もしも鍾乳洞なるものがあるのなら、たしかにそこに蓮見悠人の遺体が隠されている可能性は十分にあり得る。
七首鍾乳洞の洞窟は、モネの蓮池から五分とかからないところにあった。すぐ近くにあるのに、深い木々に邪魔されて見えなかっただけなのだ。
岩で囲まれた洞窟の入り口は、人ひとり通るのがやっとの、狭いものであった。すぐ横には立て看板が立っていて、『良い子はここに入らない』と、ひとこと書かれていた。中をのぞき込んでみたが、暗くてかなり危険そうだ。
俺が、右手に懐中電灯を持って、前を歩いた。千桜は、俺の左腕をつかんだまま、うしろからついてくる。
入口から二十メートルくらいは、かがまなければ通れない狭い通路が続いていたが、そこを抜けたとき、俺は、驚愕と感嘆の余り、思わずうめき声を発していた。
狭かった洞窟が一変して、広大な大空間が展開されていた。その広さは、サッカーのフィールドくらいは優にありそうな感じがする。上を見上げると、遥か彼方の洞窟の天井の一部におおきな穴がぽっかり開いていて、そこから日光が差し込んでくる。だから、この辺りなら懐中電灯がなくても十分に視野が利いていた。
「洞窟なのに、電灯が点いているみたいだな」
「そうだね。千桜も全然知らなかったよ……。こんな風になっていたんだね」
入口が狭くて、中には広い空間がある。雨がしのげるけれども、夜でなければ陽も射しこんでくる。人が隠れるにはもってこいの場所だ……。
俺と千桜は、壁づたいに空洞の探索を開始した。山口県の秋芳洞には遠く及ばないものの、できかけのつらら石や、融けてつるつるの表面になった石灰岩も見られて、それなりに鍾乳洞になってはいる。
「地元では観光地にしようという話もあるそうよ」
「ここをか……。まあ、悪い話ではないな」
「この穴はもっと奥まで続いていそうね」
千桜が壁にできた小さな穴を指差した。入ってきたところから、大空洞のちょうど反対側に当たる場所だ。横幅はあるが、高さが一メートルほどで、四つんばいでなければ通りづらい洞穴だ。中をのぞき込んでみると、真っ暗でなにも見えないが、風が吹いてきて、水が流れる音がかすかに聞こえる。
俺ははいつくばって、少しだけ進んでみたが、この小穴はかなり奥まで続いているようだ。途中で二股に分かれているのが見えた。全部を探索するには、時間と装備が必要だ。
「またにしよう。この先になにかあるかもしれないけど」
そういって俺が小穴から出てくると、すぐそばで待機していた千桜が、きゃあっ、と叫んで、俺にしがみついてきた。千桜の目の前を音を立ててなにかが横切ったみたいだ。
この辺りは、入り口付近とは違って天井がかなり低くなっているから、ジャンプすれば手が届きそうな高さとなっていた。気が付かなかったけど、よく見れば、洞窟こうもりがうじゃうじゃと留まっていて、天井を埋め尽くしていた。
「ただのこうもりだよ。慌てるな」
そう答えて歩き出そうとすると、千桜にしがみつかれた左腕が、あたたかくて柔らかいものが押し付けられる異様な感触を感じ取った。こいつ、小学生のくせに、もう胸が膨らんでやがる……。俺は少しばかり動揺したものの、顔には表さないように注意しながら、出口までやって来た。
「お前、まだ子供だなあ。あれくらいで大声をあげるなんて……」
少しからかってやるつもりだったが、逆に千桜は笑みを浮かべていた。
「あいかわらず千桜を子ども扱いするのね? でもさ、凛三郎くん。あなたのも、もしかしたら、大きくなっているんじゃない?」
そういって、千桜は俺のズボンにちらっと視線を向けた。恥ずかしながら、思春期の美少女の胸をおしつけられて、俺は少なからず性的興奮状態におちいっていたのだ。それを見た千桜は、うれしそうに続けた。
「ごめんねえ、千桜がさっきしがみついちゃったもんね。あのさ、千桜ねえ、最近ちょっとだけ膨らんできたんだよ。分かったかしら?
だからさ、気持ちよかったでしょう。ラッキーだったね、凛三郎くん……」
こいつ、わざとやっていたのか。
「ねえ、彼女はいるの?」
「今は、いない。こう見えて、仕事が忙しいからな」
「ふーん。じゃあさ、千桜がなってあげようか。凛三郎くんの彼女に……」
「お前、まだ子供じゃないか」
「あー、馬鹿にしてる。でも、十年後の千桜だったら相当な美人になっていると思うけどなあ。今がお得よ、先行投資……」
「ああ、十年後を楽しみにしているよ」
俺は軽く流したが、千桜はまだ不満そうだった。
「こう見えてね、千桜は恐い子なのよ。呪いで人が殺せるんだから」
「呪い?」
「ええ。千桜がきらいな人は、片っぱしから呪いをかけちゃうの。そうするとね、みんな死んじゃうのよ」
なんとか相手にしてもらいたくて、今度はなにを持ち出してきたのやら……。
「これまでに、呪いをかけた人物がいるのか?」
「うん。二、三人は。おじいさまとか……」
「蓮見雷蔵?」
「そうよ。千桜、きらいだったから……。おじいさまのこと」
「でも、雷蔵翁はたしか、心臓発作で亡くなられたとか……」
「へえ、そういうことになったんだ。あはは。おかしいわ。本当は、千桜が呪いで殺しちゃったのにね……」
そういって少女は不気味に口もとをゆがめた。
「お前、そんな力を持っているのか?」
冗談のつもりで、俺が話しを合わせると、
「うん。だって、千桜は……、魔女だもん――」と千桜は答えた。
魔女――。小学生の美少女は、自分のことをたしかにそう称したのであった。
その後、俺たちは別れた。そして、俺はその日のうちに所沢へ帰った。しばらく事務所を留守にしていたので、さばかなければならない仕事がたまっているからだ。
その二日後の一月十日には、蓮池のそばで発見された右の手首と、蓮見悠人が使用していたブラシに多数付着していた髪の毛とが、同一人物のものであるというDNA鑑定結果が出たと、千田からの一報があった。
夜寝る前に、俺はその日の出来事の記録を残すことにしている。日記といってしまえばそれまでだが、探偵業を営む上で、これまでにも、これらの記録は数多く俺の手助けとなってくれた。いまでは、俺のスタイルとなっている。
『DNA鑑定の結果が出て、蓮池から発見された手首と、蓮見悠人が使用していたヘアブラシから抽出した髪の毛が、同一人物のものであることが確認された――。』
タブレットの日記ファイルに、今日の要点を簡潔にまとめたこの文章を打ち込むと、俺はベッドがわりに愛用しているソファーに、ごろりと仰向けになって転がった。