12.七首の蓮見家
蓮見が行方不明になった翌日の一月六日に、細川診療所では蓮見が無断で欠勤したことに気付いて、その日は休診にして対応したが、翌日の一月七日になっても無断欠勤が続いたので、いよいよ家族へ連絡をした。先生もたまには風邪をこじらすのかな、で看護師たちのあいだでは簡単に片付けていたようである。
一方、蓮見家の方では、悠人は連絡なしに診療所で泊まることもよくあるので、五日と六日のうちは行方不明になっていることに全く気付かなかった。とにかくこういったいきさつで、ちょっと信じられない話ではあるが、七日になってようやく診療所から家族へ電話があって、途端に家族が大慌てとなって警察へ通報した、ということらしい。
以上が、昨日千田巡査部長が堀ノ内巡査とともに行った訊き込みの大まかな内容である。
蓮見家の邸内へ入ると、使用人と思われる老女が俺たちを出迎えた。尾崎洋美という家政婦長らしい。
「尾崎と申します」
老女は深々と頭を下げた。さっそく、別所警部補が前に出た。
「蓮見家には長いこと?」
「はい、お使い申しあげてからちょうど五十年となります。十八でここへやってまいりましたから」
尾崎洋美はためらうことなく自分の年齢を暴露した。
「本当に、大変なことになってしまいましたわ。もう、蓮見家はこれでおしまいです。昨年に大旦那さまがお亡くなりになったばかりだというのに、今度は旦那さままでが……」
「あのお、今、大旦那さまとおっしゃいましたが……」
「大旦那さま――、蓮見雷蔵さまです。長い間この七首村の地主として、由緒正しき蓮見家のご当主として、多くの人々をけん引されてきたとても偉大なお方です。でも、去年の夏に心臓発作でお亡くなりになってしまわれました。その時のお歳は、たしか八十一でしたわ」
「なるほど。先代当主の雷蔵さんが昨年に亡くなられて、今度はご当主である悠人氏までもが行方不明になってしまったと……」
「ああ、この家は呪われているのです。これで残ったのはお嬢さまだけですけど、でもお嬢さまは……。
ああ、どうしたらいいのでしょう……」
「お嬢さん?」
「千桜お嬢さまです。もうすぐ帰ってくる頃ですわ」
「ええと、どっかで働いて見えるんですか?」
俺はこっそり時計を確認した。まだ二時前であるが。
「いいえ、小学校ですわ。鳳凰東小学校の小学生。今日八日はたまたま始業式でしたのよ」
「なんと小学生のお嬢さんでしたか……」
別所が驚いた顔をした。
「お嬢さまはうちの自家用車で大野まで毎日通っております。Nバスなんかに乗せたら、いつなんどきなにが起こるか、心配で仕方ありませんからね」
「こん地区では、ほかの小学生たちも車で通われちょるんですか?」
「いえ、この地区での車通いはお嬢さまくらいなものでしょう。どこの家庭もそんなに裕福ではないはずですしね。みんなNバスを利用していますよ。大野までならたったの三十分ですからね」
「心配というと、お嬢さんはどこかお身体が悪いのですか?」
「いいえ、全然。むしろ健康過ぎるくらいですわ。でもね、蓮見家がお金持ちだってことは新郷市に住む人なら誰もが知っています。そんな家の令嬢がローカルバスなんかで通学をしていたら、悪いやからがよってきて喜んで誘拐してしまうことでしょう」
「なるほど、ようやく理解できました」
別所警部補が大げさな仕草を伴ってあいづちを打った。職業とはいえ、よくもまあこんな婆さんの与太話に口裏を合わせられるものだと、感心してしまう。
「ご令嬢は何年生ですか?」
「六年生です」
「ちゅうことは、十二歳ですか?」
「いえ、誕生日がまだなので、十一ですわ」
そうこういっているうちに黒いベンツが敷地内へ入ってきて、玄関前で停車した。運転手がさっと降りてきて、急ぎ足でまわり込んでから後部座席のドアを開けた。すると中から、赤いランドセルを背負った少女が姿を現わした。黄色い通学帽を深くかぶっておまけにマスクもしていたので、その素顔はよくは見えなかった。
ただいま、と健気なひと声を残して、少女はすっと家の中へ消えていった。その様子を見る限りでは、父親の遺体が見つかったことを知らされてはいないようでもあった。
「あのお、お嬢さんはまだご存じないのですか? そのお、ご主人の遺体が発見されたことを……」
「遺体が発見されたですって? いいえ。お身体の一部が見つかっただけだとわたくしどもはうかがっております。それにそれが旦那さまのものだなんて、とうていわたくしどもに分かるはずもございませんでしょう。
もちろん、お嬢さまには旦那さまが行方知れずになっていることもまだお伝えしてはおりません。余計なご心配をおかけしたくないですからね」
「そうですか。でも、そろそろお知らせされた方が……」
「それより、旦那さまのお身体のどの部分が見つかったのですか?」
「右側の腕ですな――。
ところで、こちらの腕時計はご存じありませんか?」
別所は遺体の腕にはまっていた腕時計を尾崎の前へかざした。
「ああ、これは……、旦那さまのものですわ」
「間違いありませんか?」
「はい。そのような高級時計をほかにする人などいるはずもありませんし」
家政婦はあっさりと断言した。
「こいつは見つかった腕に装着されとった時計です。つまり、遺体はご主人っちゅうことになっちまいますかなあ」
「いいえ、もしかしたら、何ものかが旦那さまの時計を盗み出して、それをその遺体の腕に着けただけかもしれませんわ」
この家政婦、なかなかの口達者である。と、その時、玄関口から女の声がした。
「洋美さん。ただいま、お嬢さまをお連れしましたわ」
「ああ、真由子さん。ご苦労さまでした」
家政婦は返事をしてから、俺たちに向かって
「使用人の戸塚真由子ですわ。車の運転ができるので、もっぱらお嬢さまの送り迎えを担当しております」と、説明した。
「そうですか。ちょっとだけ運転手さんからもお話をうかがってきてよろしいですかな」
「ええ。どうぞ、どうぞ」
俺たちは、玄関の外へ出た。運転手の戸塚真由子は、車庫の中で、ベンツの側面に着いたほこりを羽毛でできたハンディモップで払い落としていた。
「戸塚真由子さんですか。わたし、警察のもんでして、ちいとお話をおうかがいしたいんですが」
戸塚真由子は、年は三十前後であるが、そこそこの美人である。女としては背が高い方で、運転手用の制服である紺のスーツを着ていてもわりとさまになっていた。いつも自信ありげな目つきをしていて、気が強そうな印象を受ける。
「警察の方? 旦那さまのことですね。あたしの知っていることでよければ、なんなりとしゃべりますよ。
ああん、本当に黒い車は駄目ね。いくら払ってもほこりが落ちないんだから……」
見ず知らずの男たちに囲まれていても、平然と大きな声で女は愚痴をもらした。
「いつから蓮見家で?」
「ええと、二年になるかしら」
「それまでは?」
「細川診療所で看護師をしていたわ。でも、蓮見家のお屋敷で使用人が新たに必要になったということで、大旦那さまから抜擢されたのよ。ああ、悠人先生は、ええと、旦那さまは、もちろんそれ以前からあたしのことを知っていたんだけどね」
「ええと、そのご主人のご遺体が、今朝見つかったことはご存じですか」
「遺体ですって? あたしが聞いたのは、手が出てきたってことだけですけど。それに手だけじゃ、旦那さまのものなのかどうかも分からないし。もしかして、旦那さまのだって分かったの?」
「いえ、今、確認中です」
「その手が旦那さまのものだなんて、あたしには信じられない。きっと、旦那さまはまだどこかでお元気でいらっしゃると思うわ」
「どうして、そう思われるのですか?」
「だって、いったいどこの誰が旦那さまを殺したいなんて思うのかしら? あんないい方はいらっしゃいませんわ。大旦那さまとは違いますし……」
「そういえば、行方不明になる前に悠人さんはおひとりでバスを下車したことまでが確認されているのですが、当日あなたが車で迎えには行かなかったんですか?」
「旦那さまは、帰りの最終バスに乗れなかった時に限ってあたしに連絡してきますが、普段は、わざわざ迎えに来なくてもバスで帰るからいいよ、とおっしゃっていました。行く時は、旦那さまとお嬢さまは同じ方向ですから、いっしょに乗せていきますけどね」
「悠人さんは、車は運転できないのですか?」
「できません。いまどき珍しい方ですわね」
「悠人さんがお亡くなりになると、蓮見家も大変なことになってしまいますね」
「旦那さまがいなくなれば、多分、蓮見家はおしまいですわ……」
「でも、まだお嬢さまがいらっしゃるじゃないですか?」
「千桜のこと――?」
戸塚真由子はふっと含み笑いをした。
「ここだけの話、あの子はね……。
どこの馬の骨とも分からぬものよ――」
突然の、令嬢に対しての『馬の骨』呼ばわりには、さすがの別所警部補もたじろいでいた。
戸塚との話を終えて、再び屋敷へ戻ると、今度は千田が尾崎洋美を呼び出した。
「ご主人の髪の毛が付いたヘアブラシとかなにかをお借りできませんかね。DNA鑑定が必要になると思われますから……」
「まあ、ちょっとお待ちくださいませ」
尾崎はいったん奥へ引っ込むとまたすぐに戻って来た。手には使い古した茶色いヘアブラシを一つたずさえていた。
「はい、どうぞ。必要なものはなんでも持っていってください。とにかく、なんとしても、事件を解決していただきたいですからね」
「ご主人がお使いになっていたブラシですね?」
「はい、そうです」
「念のためうかがいますが、ご主人以外の人が使った可能性は?」
「うちにはもう男性は旦那さましかおりませんし、一年前にお亡くなりになった大旦那さまは、ヘアブラシなど使われませんでしたわ。だから、そこに残っている毛髪は全て、旦那さまのものでございます。間違いございません」
「ああ、よかった――。これだけあれば、どうにか鑑定ができるかもしれない……」
千田巡査部長が小声で独り言を口ずさんだのを、俺は聞き漏らさなかった。俺のささやかなる知識によれば、DNA鑑定は現場に落ちている体毛などでいとも簡単に鑑定できるように世間では思われている節があるが、実際は、髪の毛一本だけで本人を特定することなどできないそうだ。千田の今の言葉は率直な本音であろう。
「まだ、ほかにも遺体の一部が見つかるかもしれません。もしなんかありましたら、すぐに警察までご連絡ください」
別所が付け足した。
「はい、でも、本当に旦那さまのご遺体なのでしょうかねえ。どこかの見ず知らずの風来坊のものであればよいのですが……」
そういうと、家政婦は深くため息を吐いた。
その時、上の階からピアノの音が聴こえてきた。静かでいやされる調べ――、ショパンの夜想曲第2番だ。
「お嬢さまですわ。だいぶお上手になられたこと……」
尾崎が感心していた。たしかに、まだところどころ頼りないけれど、小学六年生にしては上手い方かもしれない……。
ここまで我慢をしてきたが、もうそろそろよかろう、ということで、俺は家政婦に質問をぶつけてみた。
「ところで、ご主人はどういうお方でしたか」
「旦那さまですか? それはもう、真面目で、お人柄もよろしく、申し分ないお方でしたわ。細川地区にある細川診療所、この地区では唯一の病院ですけど、そこでたった一人のお医者さまとして、もう二十年以上も勤務していらしたのですから」
「ちゅうことは、診療所は、今、大変なことになっとるわけですなあ」
別所の軽はずみな発言に、尾崎洋美の眉がきっと引きつった。
「あっ、いや。先をお続けください」
察した別所が、慌てて話をうながした。
俺は屋敷の中をまわってみようと思い付いて、一歩あとずさりした。六条家の屋敷ほどではないにしても、こちらも相当な広さであろうと思われる。
「いやあ、広いお屋敷ですねえ。どれくらいの広さがありますか?」
「この建物は、間取りで二百坪はございますわ」
と、家政婦があっさりと答えたが、二百坪といわれても俺にはピンと来ない。
「ほかにも『奥の間』もございますからね」
「奥の間?」
「別館です。いちおう廊下でつながっておりますけど、あそこだけでも少なくとも三十坪はございますわ」
「どんな部屋ですか?」
「昔はここら辺の公民館としてもよく使っていたのですよ。今でも、ちょっとした集会があると、村ん衆がよってきます」
尾崎は得意げな表情を見せた。別所がまた質問を始めた。俺はその隙に廊下を少し奥へ進んでみた。廊下は途中で直角に右側へ曲がっていて、その先の突き当りにある部屋には大きな仏壇があった。中へ入ると、仏壇にはきちんと花が添えられていた。特になにもなさそうなので、部屋から出ようと、俺はうしろをふりかえった。すると、入ってきた時には、背後の頭上になるので気付かなかったのだが、出入り口の頭上の壁には、数名の人物の古い肖像写真が額に収めて掲げられていたのだ。色あせたセピア色の写真は、昭和、もしかすると、大正時代の写真かもしれない。その中で一番新しそうな写真に、それでも白黒写真であるのだが、三十くらいの男が写っていた。鼻筋がきりりと通ったなかなかの好男子だ。この人が蓮見悠人なのだろうか?
戻った俺はさっそく家政婦に訊ねてみた。
「あの、仏壇の間の壁に飾られていた若い男性の写真、あれが悠人さんですか?」
「ええ? ああ、あれは悠人さまではございません。雷蔵さまです。先代当主の……」
「なるほど。悠人さんのお父さんのお写真でしたか」
だから白黒写真だったのだ……。
「大旦那さまは、それはハンサムなお方でしたからねえ」
尾崎がしみじみとした口調で語った。
「というと、たくさんの女性からモテていたというわけですね」
俺は調子を合わせてみた。
「そうなんですよ。本当に……、当時の村娘の半分は、ご関係を持っていたというおうわさも……」
「もちろん、あなたも憧れておられたのですね。雷蔵さんに……」
「ええ、それはもう……」
にこやかに答えていた尾崎は、はっと口をつぐんだ。
「悠人さんの写真はありませんか?」
「はい、ただ今お持ちいたします」
尾崎は、こほんとひとつ咳払いを入れてから奥へ下がり、少ししてからポートレートの台紙を持ってきた。
「あまり、お写真には写りたがらなかった方ですからね。悠人さまは……。結婚式の時のお写真くらいしかありませんわ」
台紙の中の写真には、和装姿の男女の写真があった。裏面にマジックで書かれた日付は、平成八年六月十六日となっている。男の方は、端正な顔立ちで、まっすぐに一本の美しい鼻筋が通っている。たしかに、仏壇部屋の写真で見た蓮見雷蔵と同じ血を引いた親子であることは間違いない。実によく似ている……。どちらかといえば、少しだけ悠人の方が、気が弱そうな感じを受ける。
「洋美さーん。おやつ食べていい?」
奥の方から、さっきの女の子であろう、大きな声が聞こえてきた。そのあとで、階段を降りてくる足音がする。
「お嬢さま。まずは手を洗ってください。おやつは食堂のテーブルの上にありますから」
家政婦も大きな声を放った。
「おかわいそうに。あの子はまだ旦那さまが殺されたのを知らないのですわ。いいえ、まだ殺されたとは限りませんわね。手首が見つかっただけだし、旦那さまのかどうかも分からないのだから。
ああ、でも、どうお知らせすればよいでしょう? 知らせるにしても、それができるのは、もう、わたくししかおりませんからねえ」
「奥さんは見えないのですか?」
俺は気になって訊ねた。
「奥さまは十五年前に、お亡くなりになりました。ご病気で……」
「そうですか。でもそうなると、お嬢さんは、奥さんとご主人とのお子さんではないことになってしまいませんか。たしかお嬢さんはまだ小学生でしたよね?」
俺は即座に訊き返していた。ちょっと早とちりだったか……?
「そうですわ……」
家政婦はすんなり答えた。
「話が早過ぎてよう分からんのですが、お嬢さんは蓮見悠人氏の奥さまが生んだお子さんではないということですか。つまり、蓮見家の血筋を引き継いではいないと……?」
別所警部補が、追い込むように家政婦に問いただした。
「はい、あの子は蓮見家の血筋を引いてはおりません――。突然、孤児院から旦那さまが引き取って来られて、大旦那さまからも可愛がられて育つうちに、知らぬ間に、苗字が蓮見となっていたのです。でも、大旦那さまと旦那さまが共にいなくなってしまった今では、あの娘の身元を知る者は、誰もいなくなってしまいましたわ」
「つまり、養子ということですかな。でも、あととりが欲しいなら、普通は男の子を引き取るでしょうに……」
別所がつぶやいた。
「先ほどのお話では、あの女の子は――、失礼しました、お嬢さんは、ご主人の悠人さんが孤児院から連れて来たそうですが、先代当主の雷蔵さんはその件に関して反対をなさらなかったのですか?」
タヌキにかわって、俺が質問をした。
「はい。でも、わたくしの知る限りでは、大旦那さまも赤の他人であるはずのお嬢さまに対しては、非常に好意的でございましたわ」
「お嬢さんが引き取られたのはいつのことですか?」
「大旦那さまがお亡くなりになる半年ほど前ですわ」
「つまり、二年前ということですね。
たしか運転手の真由子さんも、その辺りの時期でこのお屋敷に雇われたと、さっきうかがいましたけど」
「そうですわ。お嬢さまがふもとの小学校に通わなければならないので、車の運転手が必要ということで、大旦那さまが誰かを雇えとおっしゃいまして、旦那さまが当時の診療所の看護婦だった真由子に声をかけたのです」
「運転手なら、男性に頼めばよいのでは……。ええと、その、なんとなくこういった仕事は、男性向きなのかなと……」
「大旦那さまが、運転手は絶対に女にしろ、と強く訴えられましたから」
「なるほど」
別所警部補が腕組みをしているところへ、先ほどの娘が、奥の廊下からひょいと顔を突きだした。
「洋美さん、テーブルの上におやつなんか置いてないじゃん?」
たったそれだけのことだった――。それなのに、俺を含めて、別所警部補に千田巡査部長、三人の大のおとなが、息をのみ込んで、瞬時に身体をこわばらせたのである。
マスクを取って、口をとがらせながらこちらをのぞき込んでいるおさげ髪の女の子は、それは背筋も凍りつくような絶世の美少女であった――。