10.挿話――この章は堂林凛三郎の手記にあらず
一月八日の早朝六時――、加茂清志は、いつものとおり、愛犬タロウを従えて散歩をしていた。サラリーマン退職後、悠々自適な老後生活を送ろうと、人がいなくなった旧家を一軒購入して、妻とともにこの山里へ引っ越して来た時は、人口が二人も増えるということで、かつての鳳凰町の町役場であった鳳凰総合支所の職員全員から、大歓迎の祝福を受けたのを思い出す。あれから、かれこれもう一年が経とうとしている。
散歩のルートは、毎日の気まぐれでころころ変わる。今日は気分もよいから、久しぶりに石段をのぼって『モネの蓮池』までやって来た。モネの蓮池とは、地元衆が勝手に命名したもので、夏になれば、深い苔色をした水面にぽつりぽつりと薄桃色の花が浮かんで、それなりのちょっとした隠れスポットとなる。今は冬なので、セピア色の枯れた茎や葉っぱがピンと白く張りつめた水面からにょきにょきと顔を出す、モノトーンの情景が造り出されていた。こうしてみると、冬の蓮池もまんざら捨てたものではないなと、加茂はそう思った。
と、その時だ……。
タッ… タン――――
タ… タ… タン――― トン――、
タッ… タン――
タタラトゥル タン――、 タッ タン――― トン――、
タァ タン―――
タァ――、 タァ タン――― トン―――、
タッ タッ タッ、
タタタタ、 タタ…… トン―――――。
池のほとりの高台にそびえる、赤れんがの城壁で囲まれた豪邸から、ピアノの音色がこぼれてきた。せつなくてゆったりと流れる、とてもいやされる曲だ。ちまたではよく聴くかなり有名な曲なのだが、残念ながら、加茂はその曲名を知らなかった。
きっと、このお屋敷のお嬢さまが弾いているのだろう……。
こんな朝っぱらからピアノを弾いても、敷地がとてつもなく広いから、さほどご近所迷惑にもならないようだ。ところで、うわさに聞くところ、この豪邸の一人娘は相当な美人であるらしい。ただ、四六時中屋敷の中に閉じこもっているから、村の衆のほとんどが、実際にはそのお姿を拝見したことがない、とのことだ。まあ、こういったうわさなんて、なにかと美化されるものではあるが……。
悪い魔女が塔へ閉じ込めた……姫。
残念なことに、加茂の頭には、『ラプンツェル』というグリム童話に登場したお姫さまの名前が、どうしても浮かんで来なかった。
突然、タロウが威嚇するようなうなり声をあげた。普段は温厚で、あまり吠えたりはしない犬なのに……。
草むらに落ちていた何かを、タロウがさっとくわえ込んだので、
「ほれ、やめんか。タロウ……」と、加茂はそれを取り上げようとした。
その時、加茂は心臓が一瞬止まった気がした――。
愛犬がくわえていたものは、腕時計を装着したままの、生身の人間の前腕部であったのだ……。