ムゲン 海原のユメ
風がなくて、熱くも寒くもない。気候は安定していて、落ち着いている。湿ってもいなくて、乾いてもいない。調度いいくらいの温度は、肌に不快を与えないぶん、心地よさもわけてくれない。
足元を見ると、そこにはアーモンドグリーンとアイビーグリーンを不完全に混ぜ合わせたような、太いパイプと細いパイプが一直線に走っていて、同じ形の同じ色のパイプがぐるりと周りを囲んでいる。どこを見ても同じ、壁も、天井も、パイプに覆われて、他には何もない。
パイプで作られた道の上を、人間が一人で歩いている。やや灰色がかった黒のジーンズをはいていて、トップは清潔感のある白いワイシャツを内側に着て、その上から使い古した黒い袖の長いシャツを身につけている。
年は十代の前半ほど、色が抜けた金髪はバックが肩の手前で、フロントは目に少しかかるほどに伸びている。肌はあまり濃くなく、瞳は夜で塗りつぶしたように黒い。
腰のベルトからはチョークバッグを一つと、拳銃が入っていると思われるホルスターが吊るされている。そして首からは枝のように絡まった白銀の金属の真ん中に、濃い紫色を帯びた黒い楕円形の宝石の乗ったペンダントを提げている。宝石は、見方によっては赤い光を発する、不思議な輝きをもっている。
「何?」
人間が言った。
他に人間の姿は見えない。しかし人間は誰かと話しているように、もう一度言った。
「どこ?」
人間はキョロキョロと辺りを見回して、そしてパイプがたくさん通る大きな道を逸れて、細い道へと進んでいく。
人間が進んでいくと、そこはぽっかりと穴が開いたように部屋があった。部屋というのは、その先に道はなくて、行き止まりになっているからだ。
人間は、部屋の入り口で立ち止まって、そっと中を覗き見する。
そこは狭い部屋だった。広さは人が寝そべるよりも少し大きくて、高さは人間の身長より頭一つ分しかない。
その部屋のほとんどを埋め尽くすように、大きなカプセルが置かれている。
「あった」
人間はカプセルに近づいた。
カプセルは楕円形の透明な殻のようなものでできていて、一見して巨大な卵を想像させる。カプセルはパイプの一部から作られたような頑丈なクッションの上に置かれている。
人間がカプセルの下に取り付けられたスイッチを押すと、カプセルは音もなく開いた。
「慌てるなよ、グナル」
人間は言いながら、カプセルの中に入る。そのまま入るには少し狭かったので、人間は膝を折って抱え込むような恰好になる。
膝を曲げた状態で、人間は腰の隣で赤く光っているボタンを押した。
空気が漏れる乾いた音がして、その後から液体を流し込むような音が聞こえてくる。ボタンを押してしばらくすると、人間の背中から透明な液体が溢れ出した。液体は徐々に量を増して、人間の耳を完全に覆ってしまった。それでも、液体はカプセルの中で満ちていき、勢いは少しも弱まらない。
「じゃ、あとはよろしく」
それだけ言って、人間は目を閉じた。カプセルの中が完全に液体で埋め尽くされても、人間はピクリとも動かない。まるで眠りについたように、動かない。
「シナ。もうオッケーだよ」
シナと呼ばれた人間は目を開けた。
目の前に海が広がっている。夕日に照らされた海原は、水平線まで海しかない。崖の上から見ているらしく、水面はかなり低いところにあるようだった。
「ここはどこ?」
「海だね」
シナが訊くと、どこかから声が答えた。
シナは自分の胸に目を向ける。大きなペンダントが首から提げてある。
「海って何?」
訊ねると、ペンダントが答えた。
「海は海だよ。知らないの?」
「うん。知らない」
シナは顔を上げて、また海を眺める。夕日に照らされて、海全体が茜色に染まっている。波面が揺れて、キラキラと光を反射している。
「風が強いね」
「そりゃ、海だからね」
ペンダントが答える。
「海って風が強いものなの?」
「そりゃそうさ。当たり前だろ」
「グナル。また適当なこと言ってない?」
「失礼な」
風でシナの髪がパタパタと揺れる。シナは目を閉じて、大きく息を吸う。途端に、シナの表情が曇った。
「変な臭いがする」
「海の臭いだよ。塩の香りだ」
シナはしばらく考えてから、喋るペンダント、グナルに訊いた。
「それって、塩化ナトリウムのこと?」
「そ」
シナはまた海を見た。
一面に海が広がる。それくらいに、他には何もない。夕焼け空に、夕日を映し出す茜色の海。シナはしばらくその景色を見ていた。
「綺麗だね」
「何が?」
グナルが訊いた。
シナは視線をグナルへ落として、すぐに前のほうに戻した。
「海が」
「でも僕は嫌いだな」
「どうして?」
不思議そうにシナはグナルに訊いた。
「だって、潮風に当たると錆びやすいんだもん。体中かゆくなるし、おまけに動きにくくなる」
「でもグナルは体を動かす必要ないだろ」
「何言ってんの。錆びすぎて僕が喋れなくなったらどうするの。シナは一人ぼっちだよ。話し相手がいなくなったら、寂しいでしょ」
シナは少し考えてから、グナルに答える。
「でも、グナルが喋らなくなったら、静かでいいな」
「シナ。ひどいよ」
グナルの言葉を無視して、シナは海に向かって歩き出した。足の指先くらいしかない草が少し生えているだけで、あとは茶色い地面がむき出しになっている道を、シナは歩いた。やはり高い崖になっているようで、海は大分下のほうに見える。
「素晴らしい景色じゃろ」
後ろから声をかけられて、シナは振り向いた。
丘の上に、木造の小さな家が見える。ペンキも何も塗っていない丸太小屋で、一階の高さしかない。幅もそんなになく、一人ぐらいしか生活できなさそうだ。
その家の前に、一人の老人がデッキチェアに座っていた。髪は白く、大分年をとっているように見える。
「こんにちは。おじいさん」
シナが老人に挨拶をする。
しかし老人はじっと海を見ているばかりで、何も答えない。
シナは老人の傍まで近づいて、もう一度挨拶した。
「こんにちは。おじいさん」
「やっほー」
「…………」
グナルも挨拶したが、老人は何も言わない。
「おじいさんは、ここに住んでいるんですか?」
「…………」
「ここは、どういった場所なんですか?」
「…………」
「あの、おじいさん?」
「…………」
「聞いていますか?」
「…………」
何の反応もない。
「もしもーし。おじいさーん」
グナルもおじいさんに呼びかける。
「…………」
返事はなかった。
グナルは諦めたように溜め息を吐く。
「だめだシナ。この人、聞いちゃいないよ」
シナはじっと老人を見たが、老人はさっきから少しも動いていない。じっと海を見つめたまま、こちらにすら気付いていない。
「そうだね」
シナは老人から視線を外して、家の周りをしばらく歩いた。扉や窓があるのは正面だけで、横も後ろも、同じような丸太が囲んでいるだけで、特に何もなかった。
「ねえシナ」
「なにグナル」
「ここにいてもつまんないよ。別の場所にいこうよ」
家の後ろには道があった。坂を下った向こうには町らしい景色が広がっている。
シナは丘の上の家をもう一度見上げる。
「うん。そうだね」
シナは家に背中を向けて、坂道を下っていった。
「何もないね」
「うん。何もない」
町に下りてきた二人は、しばらく町の中を歩いていた。
整った道、整った建物が並んでいる。規則正しく並んだ建物は、どこも同じで、どこも同じような景色をしている。
等間隔に建物が並んで、同じ家の数だけ道が続いている。どこまで行っても、建物と道が続いているだけだった。
「建物はあるのに、窓はないし、扉もない」
「ないね」
グナルの言葉に、シナは頷く。
「道があって、街灯まで立っているのに、誰もいないよ」
「いないね」
グナルの言葉に、シナは頷く。
「ここって、人が住んでるのかな」
「さあ」
「誰も住んでないんじゃないの」
「そうだね」
「あのおじいさん、一人かな」
「さあ」
「ねえ、シナ」
「なに」
「人の話聞いてる?」
「さあ」
グナルは喋るのをやめた。
シナは最初から喋る気がない。
四角い建物には窓もなく、入り口になる扉もなくて、店か家かもわからない。建物の前に一つずつ街灯が並んでいるが、まだそれほど暗くなく、どれも明かりがついていない。
「つまんない」
グナルが言ったけど、今度は、シナは何も言わない。
「ここって、すごくいい加減な所だよね」
グナルが勝手に喋り出す。
「町には同じ建物と同じ道があるだけで、他には何もない。人だっていないんだよ。海はあって、おじいさんが一人いたけどさ、そのおじいさんだって何も喋らない。ホント、何もないところだよ」
シナは何も言わない。
さっきから、ただ同じような道を歩くだけだった。
「ねえ、グナル」
シナは立ち止まった。グナルには目も向けず、真っ直ぐに前を見つめたままだった。その先には、やはり同じ町並みが続いている。
「なに?」
「あのおじいさん、何か言ってなかった?」
グナルは少し考えて、すぐに答える。
「言ってたっけ?」
「言ってた」
シナも即答する。
「なんて?」
「わからないから訊いてるの」
シナはグナルを見た。その顔は、少しだけ真剣そうに見える。
グナルはしばらく唸って考えているようだけど、少しも答えが出てこない。
「どんなこと言ってたと思うの。シナ」
シナは少しだけ考えて、グナルに答える。
「海が綺麗だね、だったと思うんだけど」
「それ、シナの言ったセリフじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「じゃあ、なんて言ってたかな」
「確か、景色がどうのこうのって」
「じゃあ、景色が綺麗だね、だよ」
「あんまり変わってないよ」
「そうかな」
「それに、景色が綺麗は変だよ。文法的に間違ってる。頭に、この、ぐらいつけなきゃダメだよ」
「じゃあ、この景色が綺麗だね」
「だから違うって」
「それじゃ、グナルは何だと思うのさ」
「おお、何と綺麗な景色ではないか!なあ、若者よ!そうは思わぬか!目の前に広がる神々しい海原!真っ赤に染まる夕日!まさに大自然の神秘と言うにふさわしい光景ではないか!こんな素晴らしい景色を見られるなんてそうそう」
「絶対違う」
途中でシナが否定した。
「絶対違う」
「二回も言うことないじゃないか。どこが違うって言うのさ」
「全部違う。全然違う。絶対そんなに長くないし、絶対そんな変な言葉遣いしなかった」
「二度も絶対を使うなよ」
シナはそれから黙り込んだ。またしばらく考えているようで、グナルはシナが何も言わなくなったので、同じように喋るのをやめた。
また、シナは歩き出した。
「ねえ、シナ」
「なに、グナル」
「もうカプセルは終わったよ」
シナは立ち止まる。
「早いね」
「うん。まだ全然大丈夫だったからね」
「前にカプセルに入ったのって、いつだったっけ?」
「一日前だね」
「そんなものか」
「だから、もう満タンだよ」
グナルが弾んだ声で答えた。
「どうする?シナ」
シナは首を傾げる。
「なにが?」
「もうここを出ないか、ってこと。ここにいても暇だし、することもないなら、早く出ちゃおうよ。終わったんだし」
シナは少しだけ悩んで、しかしすぐに答えた。
「そうだね」
「よし、決定」
とても嬉しそうに、グナルが答える。
シナは振り返って、来た道を振り返った。すぐ後ろに、坂道があった。海が見える、あの丘へと続く道だ。
「さようなら。おじいさん」
町の中から、シナの姿が消えた。
その途端、日は完全に沈んで辺りはすっかり暗くなって、街灯に明かりが点った。しかし、窓のない家はそのままだった。
人間は目を開けた。
目の前に緑色のパイプが見える。細いもの、太いもの、同じようなパイプがいくつも伸びて、目の前を取り囲んでいる。
人間は足を伸ばして、両手を左右に広げる。人間はカプセルの中にいた。膝を抱えないと入れないような狭い場所なので、そこから出るにはまず足を出さなければいけない。次に両手を腰の辺りにもってきて、体を後ろのほうへとずらす。
カプセルの中で座った形になって、人間はようやくカプセルから出る。
「どのくらい中にいた?」
人間が言った。
けれど、ここには人間以外誰もいない。それでも人間は納得したように頷いた。
「そうか」
人間は部屋から出た。
外に出ると、そこにはパイプで囲まれた道が続いている。どこまでも、どこまでも続いていて、その先は暗くて見えない。
「それにしてもさ、グナル」
人間は口を開いた。
「なんでおじいさんしかいなかったんだろう」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「まあ、そうかもね」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「そうかな。結構おもしろかったけど」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「だって、海が見れたし」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「うん。海なんて、初めて見た」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「それはただの思い込みだろ。別に本物じゃないんだから」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「ああ、そうなったら静かでいいね」
そう言ってから、人間は笑った。
また しばらくしてから、人間が口を開いた。
「でも、なんでおじいさん以外誰もいなかったんだろう。ねえ、グナル」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「そこまでいい加減だった?」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「何もないカプセルだってあっただろ。それよりはよかったじゃん」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「それはグナルの思い込みだろ。僕はまた海を見てみたいな」
しばらくして、人間は立ち止まった。
「泳ぐって、なに?」
しばらくしてから、人間は頷いた。
「うん。知らない」
しばらくしてから、人間は頷いた。
「うん。じゃあ、そのときはよろしく」
人間はまた歩き始めた。
「でもさ」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「あのおじいさん、何て言ってたんだろう」
しばらくしてから、また人間が口を開く。
「ちょっと、気になるだけさ」
そのまま、人間は歩いていった。
辺りはすっかり暗くなっていた。
日が沈んで、夜になって、しかし老人は椅子に腰掛けたままじっとしている。老人の目には、真っ暗な海がずっと広がっている。
海の上をカモメが飛んでいる。その中の二羽が、老人の家の上にとまった。
一羽のカモメが鳴いた。
「なあなあ、あのおじいさんはなんで家の中に入らないんだ?」
もう一羽のカモメが鳴いた。
「さあね、知らないよ」
「でも、もう夜だぜ。普通家の中に入らないか?」
「それはなそれはな」
三匹目のカモメが屋根の上にとまって鳴いた。
「息子夫婦がやって来るのを、このおじいさんはずっと待っているのさ」
一羽目のカモメが鳴いた。
「息子夫婦?」
二羽目が鳴いた。
「ずっと?」
三匹目が鳴いた。
「そう、ずっとさ。今まで働いていたこのおじいさんは、仕事をやめてここに引っ越すことになったんだ。そのとき息子に、すぐに迎えに行くから父さんの好きな海の見える家で待っててくれ、って言われたのさ」
二羽目が鳴いた。
「それで待ってるのか」
三羽目が鳴いた。
「そういうことさ」
一羽目が鳴いた。
「ケケケケケケッ。そりゃ、バカな話だ」
三羽が笑った。
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
一羽目が鳴いた。
「そりゃ、騙されたんだ」
二羽目が鳴いた。
「息子に騙されたんだ」
三羽目が鳴いた。
「その通りさ。息子はおじいさんを迎えに行く気なんて、ちっともないんだ。おじいさんは捨てられたのさ」
三羽が笑った。
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
一羽目が鳴いた。
「そうさ。捨てられたのさ」
二羽目が鳴いた。
「海に捨てられたのさ」
三羽目が鳴いた。
「いらなくなったから、捨てられたのさ」
三羽が笑った。
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
三羽目が鳴いた。
「それでもおじいさんは息子の言葉を信じて、ずっとここで待ってるのさ」
一羽目が鳴いた。
「一人ぼっちでか」
二羽目が鳴いた。
「一人ぼっちでさ」
一羽目が鳴いた。
「気付きそうなものだけどな。自分が捨てられたってことに」
三羽目が鳴いた。
「いいや。気付かないのさ」
一羽目が鳴いた。
「どうしてさ」
三羽目が鳴いた。
「息子を信じて疑わないのさ。それが親ってものさ」
一羽目が鳴いた。
「バカだな」
二羽目が鳴いた。
「バカなのさ」
三羽目が鳴いた。
「大バカさ」
三羽が笑った。
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
二羽目が鳴いた。
「さあさ。俺たちは海に帰ろうぜ」
三羽目が鳴いた。
「そうだな。帰ろう」
一羽目が鳴いた。
「海へ帰ろう」
二羽目が鳴いた。
「俺たちには羽があるからな」
一羽目が鳴いた。
「そうさ。自由に飛んでいける羽がさ」
三羽目が鳴いた。
「でもおじいさんには羽がない」
一羽目が鳴いた。
「そうさ。羽がない」
二羽目が鳴いた。
「どこにも行く場所がない」
三羽目が鳴いた。
「羽があっても、どこへもいけない」
三羽が笑った。
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
一羽目が飛んだ。
「さあ帰ろう」
二羽目が飛んだ。
「さあ帰ろう」
三羽目が飛んだ。
「海へ帰ろう」
カモメが海の上を飛んでいる。真っ暗な海の上を、ただくるくると飛んでいる。カモメはどこへも行かない。海の上にずっといる。
老人は、静かに海を眺めている。その穏やかな瞳には、水平線の彼方まで続く海だけが見えている。