私を疑った令嬢の婚約破棄には賛成です。でも、その罪の証人にはなりません
一 喜んで、何が悪い
私から次の仕事を奪った令嬢の婚約が、解消された。
朝の新聞を読んで、私は久しぶりに、お茶がおいしいと思った。
「おめでとう、でいいかしら」
向かいに座るミナが訊いた。今も救恤会で働いている元同僚の彼女は、新聞と焼き菓子を持って私の下宿へやってきた。まだ外套も脱いでいない。
「いいと思う。少なくとも、残念ではないわ」
「じゃあ、こっちの大きいほうをあげる」
皿に置かれた菓子には、干した杏が二つ載っていた。
アデリナ・ローヴェル伯爵令嬢。私が秋のあいだ記録係を務めた、救恤会の活動責任者だった人だ。
ひと月ほど前、あの人は寄付者の集まる席で私の仕事を疑った。調べれば誤解だと分かったのに、本人の口から非難が取り消されることはなかった。
会は私の作業に問題がないと認め、関係者へ通知してくれた。それでも、三週間前に受けた織物問屋の面談では、こう言われた。
『会の証明書は拝見しました。ただ、令嬢ご本人からの撤回は、まだなのですね』
机の上には、私が持参した書類が一式、きちんと揃っていた。担当者は一枚も不足を指摘しなかった。ただ最後まで、採用の話には進まなかった。
数日後、定型文の見送り通知が届いた。
それは今も、次の応募先を探すための紙と一緒に、机の引き出しに入っている。
「相手の侯爵家も、やっと分かったのね」
ミナは新聞の社交欄を指で叩いた。
婚約解消は両家の発表によるものだった。理由は書いていない。
「寄付者の間では、あなたへの撤回をしなかったことも揉めた原因だって。結婚したら、両家で慈善事業を運営する予定だったでしょう」
「それは噂?」
「ええ。ここからは噂。ご本人は撤回文を書いたのに、お父上が止めたとも聞いたわ」
「……書いたなら、出してほしかった」
あの面談の前に。一度でもいいから。
父親に止められたという事情が本当でも、私の不採用がなかったことになるわけではない。
私は大きいほうの菓子を食べた。杏は思ったより酸っぱかった。
「リーゼ、こっちも読んだ?」
ミナが新聞を裏返した。
《婚約解消の伯爵令嬢、帳簿の訂正を指示――寄付金百二十枚の支払は未照合》
見出しのすぐ下に、私の名前があった。
『寄付金疑惑の鍵を握る元記録係リーゼ・ハルデン氏は、本紙の取材に対し、令嬢から帳簿の訂正を「指示されました」と答えた』
それに続いて、訂正後の一覧ではアルネ商館の寄付が未収になったこと、同商館がすでに支払ったという話が寄付者の間にあることが書かれていた。
私は、菓子の欠片を皿へ戻した。
「これじゃ、私が見たみたい」
「何を?」
「お金が消えたところ」
私が答えたのは、名義の訂正を誰に指示されたか。それだけだ。
記事の末尾には、救恤会が私による無断変更を確認していない、との一文もあった。私が疑われたままという記事ではない。
もっと厄介だった。
私を、別の疑いを裏づける証人にしている。
「でも、あなたの疑いは晴れたって書いてあるじゃない」
「ええ。だから、私の話なら確かだと思って読む人もいる」
令嬢が私に訂正を命じた。訂正で、受領済みの寄付が未収になった。元記録係が、それを認めた。
一つずつは事実でも、続けて読めば、まるで不正の指示を私が証言したように見える。
私は記事をもう一度、初めから読んだ。
初めに感じた胸のすく思いが、まだ少し残っていた。あの人も疑われればいい。大勢の人に見られて、説明を聞いてもらえない怖さを知ればいい。
そう思った自分を、善人の顔で隠す気はない。
けれど、記事には私の名前が載っている。
「知らないのよ、私は」
ミナが黙った。
「アルネ商館がお金を払ったかどうかも。そのお金を誰かが取ったかどうかも」
火鉢の炭が小さく崩れた。
せっかくおいしかったお茶が、すっかり冷めていた。
二 あの部屋で言えなかったこと
「ハルデンさん。アルネ商館の受領を、なぜ未収にしたのですか」
あの日の声は、今も思い出せる。
寄付者会合の長机には、冬の支援先と寄付の状況をまとめた一覧が並んでいた。私は壁際で、資料を揃える仕事をしていた。
アルネ商館は港町に本店を置く商館で、銀貨百二十枚の寄付を約束していた。
よく似た名のアルン商館も寄付者だった。こちらは王都の商館で、百二十枚を納め終えていた。会が一口百二十枚で募っていたので、同じ額の寄付は珍しくない。
会合の九日前、私はこの二つの名が取り違えられていると気づいた。
受領証と現金受領簿には、どちらも「アルン」。ところが窓口係が報告用の受入一覧へ転記した際、「アルネ」と書いていた。
私は受領証番号を照合し、文書保管を担当するマルタさんへ報告した。
二日後、アデリナ様から指示が出た。
『受領証に合わせて、受入一覧の受領名義を訂正すること』
私は指示どおりに直した。元の頁も、訂正した頁も、指示の控えも残した。変えたのは受領名義だけで、金額も受領証番号も変えていない。
結果として、アルンの寄付が受領済みになり、アルネの寄付は未収になった。
それが、会合で問題にされた。
報告を受けたマルタさんは、その場にいなかった。
「アルネはもう払った、と伺いました」
アデリナ様は一覧の上に指を置いていた。
「先ほど、寄付者のお一人から。王都の代理人が、手配は済んでいると話したそうです。あなたが受領証の名義を読み違えたのではありませんか」
「受領証はアルン商館の名義でした。控えも現金受領簿も、一致しています」
「では、支払いを済ませたというお話は、どうなるのです」
「それは、本店への確認が必要かと」
年配の寄付者が身を乗り出した。
「両方とも払っているなら、百二十枚足りないことになるのでは?」
その一言で、紙をめくる音が止まった。
私は現金を受け取る係ではない。仮にもう一口が帳簿の外で支払われていたとしても、その行方を知る立場にはなかった。
「私が行ったのは、記録の名義訂正です。別の納付があったかどうかは、私には分かりません」
「紙は、あなたの手を通っています」
アデリナ様の声が少し硬くなった。
「私が認めたのは、受領証に合うように直すことです。もし照合が誤っていたなら、そのままにはできません」
「はい。ですから、保存してある書類をご確認いただければ――」
「今日は、正しい一覧を皆様にお示しする日です」
彼女は私の言葉を切った。
「確認が済むまで、あなたにはこの記録を扱わせられません」
誰かが、目の前の一覧を伏せた。
たったそれだけの仕草が、胸に刺さった。
アデリナ様は、寄付者との折衝には長けていた。誰が去年どれだけ助けてくれたかを覚え、新しい寄付者に古くからの協力者を紹介する。その働きを、私は間近で見ている。
だからこそ、あの席で不手際が見つかり、彼女が焦ったのだろうとは思う。
けれど、疑問が出たなら、まず書類を取り寄せればよかった。
受領証を見ないまま、私の名前だけを皆の前に出す必要はなかった。
あの場では、それが言えなかった。
会は同日、私を記録の作業から一時的に外し、調査を始めた。その間も賃金は支払われた。
四日後、原本と控え、関係者の説明を突き合わせた結果が出た。
記録されている百二十枚は、アルン商館の納付。私の訂正は指示どおりで、照合にも誤りはない。
マルタさんが結果を伝えに来たとき、私は最初に尋ねた。
「皆様にも、知らせていただけますか」
「もちろんです」
彼女はその場で、寄付者へ出す通知の写しを見せてくれた。
私は仕事に戻った。秋の募集期だけの契約は、その後、予定どおり満了した。
救恤会は私を解雇したわけでも、働いた分の賃金を惜しんだわけでもない。
ただ、会の通知を読んだ人が皆、アデリナ様の言葉を忘れてくれたわけではなかった。
そして、もう一つの問いも残った。
アルネ商館は、本当に払ったのか。
私の訂正が正しかったことだけでは、その答えは出ない。会は王都の代理人に照会し、本店の記録を取り寄せる手続きを進めていた。
未収と書いた欄の外で、何が起きたのか。
私は今も、それを知らなかった。
三 私の名前を使わないで
新聞記者が訪ねてきたのは、婚約解消の記事が出る前日だった。
王都通信のラウル・ベルク。下宿の玄関先で名乗った彼は、すでに救恤会へ話を聞いてきたと言った。
「帳簿の件について、少しだけ」
「私の作業については、会の確認が済んでいます」
「承知しています。受入一覧の名義訂正は、アデリナ令嬢の指示だったのですね」
「……はい、指示されました」
私はそれだけ答えて、取材を断った。
会の確認が済んでいるなら、もう私に話すことはないと思った。あの人の名前を聞くだけで疲れたし、玄関から入ってくる風で指先が痛かった。
その短い返事が、翌朝には「寄付金疑惑の鍵」になっていた。
新聞を読み終えたミナは、しばらく考えてから言った。
「次に訊かれたら、知らないって言えばいいんじゃない?」
「次に訊かれるかしら」
「じゃあ、こちらから。記者にだけ伝えるとか」
私も、そのくらいで済ませたかった。
わざわざ訂正を求めれば、アデリナ様を助けたと思われる。本人にすら、そう受け取られるかもしれない。
それは嫌だった。
「黙っていたって、あんたが嘘をついたことにはならないでしょう」
ミナの言うとおりだ。あの並べ方を選んだのは記者で、私ではない。
それでも、次の面談で新聞を出されたら、どう答えるのだろう。
『寄付金がなくなったと証言したのは、あなたですね』
そこで慌てて知らなかったと言えば、今度は証言を変えたと言われるかもしれない。
もし調べた結果、なくなった金などなかったら。
そうでなく、本当に不正が見つかったとしても。
私はそのどちらも確かめず、疑惑の証人という席に置かれている。
「次の仕事でも、書いた数字を信じてもらわなきゃいけないの」
私が言うと、ミナは目を伏せた。
「今度は自分の名前を、放っておきたくない」
「……そう」
彼女は皿を寄せた。残っていた小さいほうの菓子も、私の側へ動かした。
「でも、食べてから考えなさい。あんた、腹が減ると話が難しくなる」
私は少し笑った。
結論はその場では出なかった。
その夜は何度も、新聞を畳んでは開いた。机の引き出しから不採用通知を取り出し、その隣に置くこともした。
あの人のために動くのは嫌だ。
だが、ここに載っているのは、私の名前だった。
四 失う前に、数えておく
翌朝、私は救恤会の実務局を訪ねた。
文書室の机に、マルタさんが保存資料を並べてくれた。私の訂正前後の頁、指示の控え、内部照合の結果。どれにも、もう見慣れた印がある。
マルタさんは保存資料に手を添えた。
「会から新聞社へも、改めて文書を送りました」
私は訊いた。
「最初の取材への回答も、見せていただけますか」
「ええ。回答の控えはこちらです」
私は日付と文面を読んだ。
記者は知らなかったのではない。少なくとも、会から説明を受けていた。
「会からの回答だけで、記事が直ればいいのですが」
マルタさんは新聞の私の名前を見た。
「取材であなたが何を聞かれ、何を答えたかは、私には証言できません。書面にするなら、その部分はあなたから確かめてもらう必要があります」
「私から出せば、会は内容を確認してくださいますか」
「仕事の記録と照合できるところは、もちろん」
それ以上、彼女は勧めなかった。
私は必要な資料の写しを申請した。許可された分を受け取ると、マルタさんは紐を掛けて渡してくれた。
「アルネの返事は、いつ頃になるのでしょう」
「一昨日、便の到着予定を確認したところです。まだ十日ほどはかかりそうです」
王都の代理人からは、本店で手配したという説明しか得られなかったという。十三日前に置かれた外部監査委員が、本店の帳簿を現地の監査人に確かめさせる照会を出していた。
「港町までの往復ですから。冬は道も悪いですし」
十日。
その間に、同じ記事が何度読まれるのだろう。
下宿へ戻ると、ベルク記者から手紙が届いていた。
『三日後に続報を予定しております。前回のお話について、追加で伺いたいことがあります』
私は手紙を机へ置き、白い紙を一枚出した。
最初の下書きには、あの会合でどれほど悔しかったかを書いてしまった。二枚目では、アデリナ様を許していないと何度も繰り返した。
三枚目で、ようやく用件になった。
指示された内容。
私が行った作業。
私が知らないこと。
取材で答えていないこと。
書き終わる頃には、外は暗かった。
私はもう一枚、別の紙を取り出した。来月の下宿代と、食費と、炭代を書く。
正規職の選考へ紹介してくれるという話が、一件あった。
救恤会に薪を運んでいた、運送商館の主人からだ。秋に私が送り状と受入記録の食い違いを見つけ、荷数を確かめ直したことがある。その仕事を覚えていて、取引先に話を通してくれていた。
採用の約束ではない。けれど、紹介所の掲示を見て、一から応募するよりずっと近いところに面談の席があった。
二十三歳になるまで、私の仕事は期限つきのものばかりだった。その席を失いたくはない。
気に掛かったのは、主人も救恤会の寄付者で、今回の会計調査を強く求めている一人だということだ。
先日の紹介の打診でも、『君の話は、寄付者にとっても大切だ』と言われていた。そのとき私は、会合で疑われた件の話だと思った。
今度の新聞を読んだあの人は、何を期待するだろう。
新聞社へ行く前に、書面の内容を伝えようと思った。
恩人だから従うためではない。紹介が続くものと勝手に当て込んで、あとから困るのを避けたかった。
私は食費の数字を見直した。
手持ちの金で暮らせるのは、切り詰めて二か月ほど。それまでに、次の仕事を見つけなければならない。
紹介所で受けた文書実務の試験は、まだ結果待ちだった。受かるかも分からないうちから、その先の給金を当てにはできない。
書面を出すのが正しいとしても、暮らしが楽になるわけではなかった。
五 憎いまま、出します
運送商館の主人は、私の書面を読み終えると、火鉢の脇に置いた。
しばらく、灰をならす音だけがした。
「なぜ今なのかね」
「続報が出る前に、訂正してもらいたいからです」
「金の行方が分かってからでも、遅くはないだろう」
「その間も、私が不正を裏づけたことになります」
主人は私を見た。
「君が知らないのは分かった。記者にそう返事をすればよい。公に訂正まで求める必要があるのか」
それは、ミナとも考えた方法だった。
「返事だけでは、先の記事を読んだ方には届きません」
「しかし、これが載れば、伯爵家は都合のよいところを使う。元記録係も不正は知らないと言った、もう追及は必要ない、と」
「調査をやめてほしいとは、書いていません」
「君が書かなくても、そう使う人間はいる」
私はすぐには答えられなかった。
その恐れは、私にもあった。彼が全く根拠のないことを言っているわけではない。
「誤解のないように、調査を否定するものではないと、一文入れます」
「それでもだ」
主人は書面をこちらへ押し戻した。
「私は寄付者の席で、君は記録を残す信用できる人だと言っている。取引先にも、そのつもりで名を出した。追及を求めている私が推す人間が、急に伯爵家に有利な声明を出す。私が伯爵家と裏で手を打ったと見る者もいる」
「私が自分の意思で出すと書いても、駄目ですか」
「推薦は私の名でするものだ。そこまでの騒ぎを引き受ける約束はしていない」
火鉢の向こうに、面談の席が遠ざかるのが見えた気がした。
主人は続けた。
「いま公表を控えるなら、紹介は予定どおり進める。提出するなら、取り下げさせてもらう」
私は膝の上で両手を重ねた。
嫌な人だと思いたかった。
だが、この人は私の仕事を認めてくれた。あの会合の後でも、仕事ぶりを見ていた自分は信じると言ってくれた。
いま差し出されている条件だけが、不公平なのだ。
「私の仕事を信用してくださるのなら」
言いかけて、やめた。それを言えば、この人が折れてくれるような気がしていた。
主人は何も言わず、私の返事を待っている。
私は条件をもう一度確かめた。
「新聞の訂正を求めたら、来週の面談もなくなるのですね」
「私から用意した席だからね」
「分かりました」
机の端に置いた手袋を取った。親指の付け根がほつれている。新しいものを買うつもりでいたのを思い出した。
「紹介のお話は、ありがとうございました。書面は出します」
「君をあんな目に遭わせた相手だぞ」
「ええ」
「憎くはないのか」
「憎いです」
その返事だけは、迷わなかった。
「でも、お金を盗んだとは知りません」
主人は口を閉じた。
「知らないことを証言した人として、次の仕事へ行きたくないんです」
それから私は立って、頭を下げた。
外へ出て、最初の角を曲がってから足を止めた。
まだ戻れる。
調査の結果を待つと言えばいい。紹介をお願いしたいと、頭を下げ直せばいい。
そう考えているあいだに、荷馬車が一台、目の前を通り過ぎた。
荷台の薪を見送り、私は手袋をはめた。
ほつれたところから、指の付け根へ風が入った。
午後、王都通信の受付に、自分の名を告げた。
ベルク記者が出てくるまで、長椅子で待った。奥の部屋から、原稿を急かす声が聞こえた。
彼は私の顔を見ると、追加取材だと思ったらしかった。
「お越しいただけたのですね。アルネの件ですが――」
「その前に、先の記事について訂正を求めます」
私は書面を渡した。
そこには四点を記した。
一、令嬢の指示は、受入一覧の受領名義を受領証に合わせて訂正することだった。
二、変更したのは受領名義だけで、金額、受領証番号、現金受領簿は変更していない。現金も扱っていない。
三、アルネ商館の支払い、金銭の不足、着服の有無について、私は確認していない。取材でも証言していない。
四、私への非難が令嬢本人によって撤回されていない件と、未照合の寄付金の件は別である。今回の訂正要求は、金銭調査の中止を求めるものではない。
ベルクは読み終えて、三点目に指を置いた。
「あなたが着服を目撃した、とは書いていません」
「私も、そう書いたとは申し上げていません」
私は持参した新聞を広げた。
「この『寄付金疑惑の鍵を握る』という紹介のすぐ後に、私の返事があります。そして、未収に変わった百二十枚の話です。私は、そちらの疑いを裏づける説明をしましたか」
「訂正を指示されたとは、答えましたね」
「はい。その訂正が不正だったとは、答えていません」
「会からの回答も載せています。あなたが勝手に変えたのではない、と」
「だからこそ、令嬢に命じられて不正な訂正をしたように読めるんです。あの訂正自体が正しかったことも、会からお聞きになっていますよね」
ベルクは視線を新聞へ落とした。
「私の作業が正しかったことと、もう一口の寄付が実際にあったかは、別です。私が答えたのは最初の話に関わることだけです」
私は書面の余白に置いた手を引いた。指先で紙を潰しそうだった。
「そこを、読んだ方に伝えてください」
「記事の撤回を求めるということですか」
「私の返事を、金銭疑惑の裏づけとして扱った部分の訂正です。支払いが未確認なのは事実ですし、調査も続けていただいて構いません」
彼は、椅子に深く座り直した。
「あなたの説明を、続報に入れる方法もあります」
「後から言い分を変えたようには、載せないでください。私は最初から、その証言をしていません」
口にすると、声が少し震えた。
あの部屋でも、最後まで説明したかったのだと思った。
私は書面をもう一部、机に置いた。
「こちらは私の控えです。今日、受け取っていただいたことを残してください。仕事の記録に関する部分は、救恤会にも確認をお願いしています」
ベルクは控えを見た。それから立ち上がった。
「編集の責任者に見せてきます。お待ちいただけますか」
返事をしてから、膝が震えていることに気づいた。
壁の時計の針が進んだ。受付の女性が水を出してくれた。半分飲んで、残りは持ったまま待った。
戻ってきたベルクは、最初より低い声で言った。
「取材メモと、会からの回答も確認しました。金銭不正を裏づける証言をあなたから得ていないことは、編集部でも認めます。明日の紙面に訂正を載せます」
私はようやく、コップを置けた。
「私の氏名と、どの記事についての訂正かも、入れていただけますか」
「入れます」
彼は受領の日付を書いた控えを返した。
「誤解を招く構成でした。申し訳ありません」
私は小さく頭を下げた。
彼がどこまで悔いているかは分からない。ただ、次の記事で同じことをしないという返事は得られた。
それを確かめるために、明日の新聞を読むつもりだった。
夕方、下宿へ戻ると、運送商館からの封書が届いていた。
紹介を取り下げた、と短く書かれていた。
私は椅子に座り、封筒の縁を指でなぞった。
覚悟していたことと、平気なことは違う。
ミナが来たときには、もう外は暗くなっていた。
「出したのね」
私は頷いた。
彼女は紹介撤回の手紙を見て、唇を結んだ。
「あんたばっかり、損をしてる」
「今のところは」
「そういう返事、腹が立つ」
「私も腹が立ってるわ」
ミナが私を見た。私は笑えなかった。
「面談には、行きたかった」
言ってしまうと、目の奥が熱くなった。
彼女はそれ以上、なぜ出したのかとは訊かなかった。台所から鍋を借りてくると、持ってきた芋を剥き始めた。
私も刃の小さな包丁を出し、隣に座った。
翌朝の新聞には、前の記事と同じ面に、私の氏名を入れた訂正が載った。
『前報は元記録係の発言を未照合の寄付金の問題と結びつけ、同氏が金銭不正の疑いを裏づけたとの印象を与えた。しかし、本紙はその趣旨の証言を同氏から得ていない』
続いて、私が行ったのは受領証に基づく名義訂正であり、救恤会もその作業に問題がないと確認していることが書かれていた。
アルネの支払いは未照合で、調査を続けるという記事もあった。
私は訂正を切り抜き、先の記事と一緒に保管した。
それから、紹介所の求人を書き写すために、新しい紙を出した。
六 許すとは、書いていない
婚約解消の記事から十二日後、救恤会に外部照合の結果が届いた。
アルネ商館は、あの会合までに、約束の寄付を支払っていなかった。
本店の送金記録と約束書の期日が確認され、王都の代理人には独自の支払い権限がなく、寄付のための預り金も渡されていなかったことが確かめられた。アルン商館の百二十枚についても、先方の控えと会の受領記録が一致していた。
『手配は済んでいる』という代理人の話は、期日に合わせて本店から送金する段取りが整った、という意味だった。
それが伝わるうちに、支払いは済んだという話に変わっていた。
約束の期日は、まだ来ていなかった。
私が一覧から消してしまったのだと言われた入金は、初めからなかったのだ。
結果を読んでも、声を上げるほどの喜びはなかった。机に肘をつき、長く息を吐いた。
あの会合で、誰か一人でも、受領証を見てからにしようと言ってくれていたら。
そう思ってから、もう戻れない日を数えるのをやめた。
会から届いたのは、対象を絞った調査結果の写しだった。会の金銭管理すべてに問題がないと保証するものではない。
それでも、今回の百二十枚が消えたという疑いには、答えが出た。
翌日、調査結果の説明を聞きに会へ行くと、マルタさんが新しい文書を見せてくれた。
伯爵家から届いた、アデリナ様本人の署名入りの撤回文だった。
「会合に出席された方と、あなたの嫌疑解除の通知を送った方へ、同じ文面を配るよう依頼がありました。新聞社にも送るそうです」
私は椅子を引いた。
立ったままで読むつもりだったのに、急に足が疲れた。
『私は受領証を自ら確かめないまま、リーゼ・ハルデン氏が照合を誤った、あるいは不当な記録操作を行ったかのように発言しました。確認の結果、同氏の作業に問題はありませんでした。確認後も私自身の発言を撤回しなかったことを含め、お詫び申し上げます。同氏への疑いを撤回いたします』
署名は、あの指示の控えと同じ字だった。
「今日、送付します」
「……ありがとうございます」
それはマルタさんに言った。
私だけに届く謝罪では足りなかった。私を疑った人たちに、あの人の名前で届くことを、ずっと待っていた。
「私の分も、いただけますか」
「ご本人宛てのものは、伯爵家から直接届けるそうです」
翌日、その文書が下宿へ届いた。
撤回文に加え、資料の再発行や事実確認のための交通費など、領収書で確認できる実費を補填するという申し出があった。実費を確認したうえで、会を通じて支払われるという。
私は金額を確かめるため、保存していた領収書を出した。
非難がなくても必要だった応募書類の費用は入れない。今回の説明のために取り直した証明書と、呼び出されて赴いた分だけを分ける。
小さな束だった。
織物問屋の選考も、運送商館の紹介も、この束には入らない。
使者は返事を預かるよう言われていた。私は受領を知らせ、実費の補填を受けると書いた。
許すとも、許さないとも書かなかった。
いま返事をしなければならないのは、その二つだけだった。
「これで終わり?」
使者が帰った後、ミナが訊いた。
「費用の確認が残っているわ」
「そういう意味じゃなくて」
分かっていた。
私は文書を畳んだ。
「明日から好きになれと言われても、無理ね」
「言わないわよ」
ミナは即座に答えた。それだけで、少し肩が楽になった。
彼女は会に届いた寄付者の連絡を扱う仕事もしていた。伯爵家が撤回を決める直前、翌期の協力を見直すという文書が何通か来ていたという。
「お金の疑いが晴れても、あなたへの発言は別でしょう。このままの責任者では困る、という話だったわ」
活動責任者の交代は、すでに会の掲示で告知されていた。
また寄付者筋では、伯爵は撤回文が家への追及に使われることを恐れていた、と言われていた。記録係の誤りでないと認めれば、「では、娘が責任者を務める会で金が消えたのか」と迫られる、と。
私の作業が正しいことと、金が消えたことは、同じではない。それでも、そのように受け取られるのを恐れたという話なら、外部照合の後で伯爵が撤回を許した順序は分かる。
事情が変わったので、出すことにした。
そのくらいの話かもしれなかった。
婚約の件も、私は噂の先までは知らない。結婚後の共同事業で、当事者の訂正を実家が止める。侯爵家がそれを受け入れなかったという話は聞いたが、両家の席にいたわけではない。
確かなのは、婚約が戻っていないこと。責任者が交代したこと。そして、あの人の署名で、ようやく私への疑いが撤回されたことだ。
運送商館の主人からは、その後も連絡はなかった。
私は撤回文を、次の面談に持っていく書類に加えた。
机の引き出しには、まだ不採用通知がある。
それを破り捨てる気にはならなかった。でも、今日使う書類を、その上に置くことはできた。
七 この先の仕事
婚約解消の記事から十五日目、職能紹介所の試験結果が届いた。
合格だった。
新聞の騒ぎが起きる前に受けた文書実務の試験だ。訂正の必要な帳票を照合し、根拠のある箇所だけを直す。足りない資料があれば、その内容を記す。
採点欄には、短く『照合正確』とあった。
私はその一行を、二度読んだ。
翌日、紹介所へ行き、一般枠の求人に申し込んだ。
合格しても、すぐに職が決まるわけではない。給金、場所、勤務の時刻を一件ずつ確かめ、すでに埋まった枠に線を引いた。
五日後、王都の外れにある小さな商館で、面談を受けることになった。
織物と雑穀を扱う店だった。運河に面した土間には麻袋が積まれ、奥から荷数を読み上げる声が聞こえた。
年配の帳場長は、紹介所の書類と会の証明書を読んでから、私を見た。
「新聞の件も、確認しました」
膝の上の指が、思わず強張った。
「説明の必要があれば――」
「訂正と、令嬢の撤回文まで読んでいます。いまは、うちの仕事について伺いたい」
私は閉じかけていた鞄を、足元へ置いた。
帳場長は三枚の紙を並べた。
「先週の記録を写したものです。名前は変えてあります。まず、どこを確かめますか」
納品書、荷受の控え、仕入台帳。
私は順に目を通した。
「納品書では反物が十二反、荷受の控えも十二反。仕入台帳では二十反になっています」
「では、二十を十二に直す?」
「記入した方に確認します。同じ日に、別便がなかったかも」
「控えにはない」
「控えが一枚足りない可能性もあります。台帳の二十反だけでは、誤記と決められません」
帳場長は引き出しから、もう一枚を出した。
八反の荷受控えだった。
「午前と午後で便が分かれた。台帳は一日分をまとめている」
「では、二十反で合っています。ただ、参照する控えの番号が一つ抜けています」
私は台帳の該当箇所を指した。
「こちらを補っておけば、次の方も同じ照合ができます」
帳場長は頷き、紙を揃えた。
「今のを、仕事でもやってもらいます。忙しいときほど、一枚足りなくなる」
私は初めて、机の向こうの人の顔を、落ち着いて見た。
「上の者に、急いで直せと言われたら?」
「根拠を確かめます。必要な資料がなければ、その旨を伝えます」
「指示には従わないと?」
「何を根拠に、どこを直す指示なのかを確認します。確認できれば、指示と訂正の記録を残して作業します」
少し間があった。
帳場長は私の試験結果を、ほかの書類の一番上へ戻した。
「いつから来られますか」
「明日から、来られます」
返事だけが先に出た。
帳場長が、ほんの少し笑った。
「では、条件を読んでから決めてください」
差し出された紙には、給金と勤務日、試用期間の定めがあった。試用は一か月。その間も給金は支払われ、正式な採用については仕事ぶりを見て判断する。
私は一つずつ確かめた。
運送商館の主人が紹介してくれるはずだった職より、給金は低い。あの面談へ行けていたら、とまだ思う。
それでも、手持ちの金が減る日を数えるだけの生活からは、一歩出られる。
「この条件で、お願いいたします」
帰り道、私は下宿までの歩数を数える代わりに、明朝ここへ着くまでの時間を考えた。
途中の店で、手袋を繕う糸を買った。
新しい手袋は、最初の給金をもらってからにする。
その夜、ミナに採用の話をすると、彼女は両手を叩いた。
「今度こそ、おめでとうね」
「まだ試用期間よ」
「知ってる。じゃあ、一か月後も言うわ」
少し怖くなって、私は笑った。
「言ってもらえるように働く」
翌朝、帳場には私の席が用意されていた。
渡された荷受帳には、前任者の訂正跡がいくつもあった。消して隠すのではなく、元の数字が読めるように線を引き、日付と名前を添えている。
私は受け取った控えを、日付と番号の順に並べた。
最初の記入は、反物十二反と雑穀二袋。荷受の担当者に数量を確かめ、二つの控えの番号を書き添える。受け取った品物と数量が、誰にでも辿れるように。
記入を終えると、最後に自分の名前を書いた。
リーゼ・ハルデン。
新聞で何かの証人にされた名前でも、疑いを晴らすために書いた名前でもない。
今日、ここで働いた私の名前だった。
「ハルデンさん、次の便です」
土間から声がした。
「はい」
私は顔を上げた。
帳面を閉じず、次の荷受のために席を立った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
リーゼの物語は、この短編でひとまず完結です。
もし長編版を書くとしたら、新しい職場での仕事や人との関わりを通して、彼女が自分の居場所を築いていく姿を描きたいと考えています。
「長編でも読んでみたい」「この短編の余韻で終わるのが好き」など、よろしければ感想でお聞かせください。長編で読んでみたい場面や人物があれば、そちらも参考にさせていただきます。




