第5話 取り返しのつかない失敗
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
天井を見つめたまま、しばらく動けない。
頭の中には、昨日の名刺が浮かんでいた。
――リネア開発事業部。
父が働いていた場所。
父が、帰ってこなかった理由。
布団を抜け出し、台所へ向かう。
母はもう起きていた。
「おはよう」
「……おはよう」
声は、ちゃんと出た。
自分でも少し驚く。
「朝ごはん、簡単でいいよな」
「ありがとう」
母はそう言ったけど、目は赤かった。
弟と妹が起きてくる前に、
俺は学校へ行く準備をした。
*
授業中、ノートは取っていた。
でも、内容はほとんど頭に入っていない。
考えていたのは、金のことだった。
――この家は、これからどうなる?
母は「大丈夫」と言っていた。
でも、“しばらく”という言葉が引っかかっている。
放課後、俺はまっすぐ家に帰らなかった。
ポケットの中に、名刺がある。
何度も触って、確かめる。
――話を聞くだけなら。
そう、自分に言い聞かせた。
*
企業の受付は、妙にきれいだった。
磨かれた床。
静かな空調音。
制服を着た受付の女性。
「ご用件は?」
「あの……昨日、通夜で」
名刺を差し出す。
「父が、お世話になっていて」
一瞬だけ、空気が変わった気がした。
「少々、お待ちください」
待合室の椅子に座る。
心臓の音が、やけに大きい。
しばらくして、スーツ姿の男性が現れた。
「結城さんですね」
「はい」
「こちらへどうぞ」
通された部屋は、会議室だった。
「まずは、お悔やみ申し上げます」
形式的な言葉。
でも、表情は硬い。
「何か、ご不明点が?」
「……今後の、補償とか」
言ってから、少し後悔した。
直接すぎたかもしれない。
「それについては、すでにご説明している通りです」
「でも、“しばらく”って」
声が、少し強くなる。
「俺、長男なんです」
その言葉を出した瞬間、
相手の眉がわずかに動いた。
「学生さんですよね」
「はい。でも――」
「お気持ちはわかります」
言葉は丁寧だった。
でも、距離は縮まらない。
「ただ、これ以上のことは、今はお答えできません」
会話は、それで終わった。
*
建物を出た瞬間、
一気に現実が押し寄せてきた。
何も変わっていない。
何も、守れていない。
――俺、何やってるんだ。
拳を握る。
そのときだった。
足元の違和感に、気づいた。
地面の影が、わずかに揺れている。
いや、違う。
影じゃない。
空気が、歪んでいる。
「……?」
視界の端で、何かが光った。
次の瞬間。
耳鳴り。
足元が崩れる感覚。
「うわっ――!」
体が前に投げ出される。
激しい音と、熱。
視界が白く染まった。
*
気づいたとき、地面に倒れていた。
周囲が騒がしい。
誰かが叫んでいる。
「大丈夫ですか!?」
「救急車!」
体は、動いた。
でも、頭が追いつかない。
視線を上げると、
建物の一部が、黒く焦げていた。
「……俺?」
何が起きたのか、わからない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
――俺が、来なければ。
根拠はない。
でも、胸の奥が、そう叫んでいた。
取り返しのつかないことを、した。
理由は、善意だった。
きっかけは、家族だった。
それでも。
この日を境に、
俺は「知らないふり」ができなくなった。




