第3話 鳴らなければよかった電話
目が覚めたとき、部屋は静かだった。
カーテンの隙間から、まだ薄い朝の光が差し込んでいる。
時計を見ると、六時を少し回ったところだった。
――もう、父さんは出たあとだな。
布団の中で一度だけ寝返りを打って、起き上がる。
廊下に出ると、台所から小さな物音がした。
「母さん?」
「おはよう」
母はいつも通りの声で、弁当箱を閉じていた。
「父さん、もう行った?」
「うん。五時前に」
「そっか」
それだけの会話。
特別なことは、何もなかった。
学校の準備をして、家を出る。
玄関を閉めるとき、なぜか一度だけ、昨日の食卓を思い出した。
理由はわからない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
*
午前中の授業は、頭に入らなかった。
黒板の文字をノートに写しているはずなのに、
気づけば同じ行を何度もなぞっている。
「結城、大丈夫か?」
前の席のやつが、振り返って聞いてきた。
「大丈夫」
そう答えた声は、ちゃんと自分のものだった。
昼休み。
購買でパンを買って、いつもの場所に座る。
スマホが震えた。
母からだった。
――珍しいな。
昼に連絡が来ることは、ほとんどない。
通話ボタンを押す。
「もしもし?」
少し間があった。
『……透』
母の声が、震えていた。
「どうした?」
『落ち着いて聞いて』
その一言で、胸がざわついた。
『お父さんが……』
言葉が、続かない。
『仕事先で、事故があって』
周囲の音が、急に遠くなる。
「……事故?」
『今、病院に向かってる』
母の声は、必死に整えられていた。
でも、わかってしまった。
「俺も行く」
『透は――』
「行く」
それだけ言って、電話を切った。
*
病院は、白すぎた。
消毒液の匂い。
無機質な壁。
早足で行き交う大人たち。
母は、受付の前に立っていた。
「母さん」
振り返った顔は、泣いていなかった。
泣けていない、という方が近かった。
医師の説明は、短かった。
専門用語は、ほとんど覚えていない。
ただ、最後の一言だけが、頭に残った。
「……残念ですが」
その瞬間、世界が一段、下に落ちた気がした。
*
家に戻ったのは、夕方だった。
弟と妹は、親戚に預けられた。
家は、驚くほど静かだった。
昨日まで、確かにあったはずの生活が、
音を立てずに消えていた。
食卓に置かれたままの椅子。
干しっぱなしの作業着。
袖口の汚れが、目に入る。
「……」
声は、出なかった。
悲しい、という感情が、まだ追いついてこない。
代わりにあるのは、現実感のなさだけだった。
父は、もう帰ってこない。
それだけが、事実だった。
夜。
布団に入っても、眠れなかった。
天井を見つめながら、
昨日の父の声を、何度も思い出す。
――最近、よく動いてるな。
その言葉が、胸の奥で引っかかったまま、離れない。
何か、言えばよかったのか。
何か、できたことがあったのか。
答えは、どこにもない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがあった。
この日を境に、
俺の日常は、もう戻らない。




