第21話:届かなかった
本作は毎週水曜・土曜の21時に、2話ずつ更新予定です。
その日は、最初から少しだけおかしかった。
朝、包丁が指先をかすめた。
血は出なかったけど、ヒヤッとした。
(集中してなかったかな)
それだけで済ませて、透は家を出た。
学校では、特に変わったことはない。
授業を受けて、昼を食べて、放課後になる。
ただ、胸の奥のあの熱が、今日は静かだった。
(昨日まで、あったよな)
考えないようにする。
夕方、校舎を出たところで、声が聞こえた。
「ちょっと待って!」
振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。
息を切らしている。
「これ、落としたでしょ」
差し出されたのは、透の定期入れだった。
「あ……ありがとう」
「もう。ちゃんと気をつけなよ」
そう言って、彼女は小さく笑った。
透は頭を下げて、その場を離れる。
(今日は、ほんとダメだな)
河川敷に向かう。
いつもの場所。
いつもの時間。
走るために、体を動かす。
――重い。
足が、いつもより地面に引っかかる。
「……?」
呼吸を整えて、もう一度走る。
スピードが出ない。
肺が苦しい。
(昨日まで、こんなじゃ……)
立ち止まる。
川を見る。
流れは、普通の速さだった。
昨日みたいに、ゆっくりには見えない。
胸に手を当てる。
熱が、ない。
(……なんだよ、それ)
少し、苛立ちが湧いた。
透は、土手の下を見下ろす。
ちょうどそのとき。
「危ない!」
声がした。
子どもが、転んだ拍子に
自転車ごと斜面を滑り始めていた。
反射的に、体が動く。
昨日までなら、迷わなかった距離。
――腕を伸ばす。
届く、はずだった。
でも。
「……っ!」
指先が、空を切る。
子どもは斜面の下で止まり、
大きな怪我はなさそうだった。
周りの大人が駆け寄っていく。
透は、その場に立ち尽くしていた。
(今の……)
心臓が、強く打つ。
さっきまでの苛立ちが、
一気に冷えていく。
(……できなかった)
守れなかったわけじゃない。
結果的に、助かっている。
それでも。
自分が「できると思ったこと」が、できなかった。
それが、ひどく怖かった。
帰り道。
夕焼けが、やけに遠い。
家に着くと、弟と妹が玄関まで走ってきた。
「兄ちゃん、おかえり!」
「今日な、学校で――」
「あとでな」
声が、少し硬くなった。
台所に立つ。
鍋に火をかける。
いつも通りのはずなのに、
手順が一瞬、分からなくなる。
(落ち着け)
深呼吸。
味は、問題なかった。
夜。
布団に入っても、目が冴えている。
天井の染みを見る。
昨日と同じ形。
なのに。
(昨日まで、できてた)
できるようになった、と思った。
少しだけ、前に進んだ気がしていた。
でも、それは――
「……勘違い、か」
小さく呟く。
胸の奥に、
名前のつかない不安が残ったまま。
透はまだ知らない。
力は、常に「思い通り」に応えてくれるものじゃない
ということを。
この日が、
「できない」という感覚を、
初めて覚えた夜だった。




