第四話 旅立ちの準備
夜になり、俺は部屋でゴロゴロしていた。
終業式の一日を振り返ると、どうもクラスメイトたちの様子が気になったが、結局、深く考えることはしなかった。
そんなとき、リビングから母さんの声が響く。
「湊、そろそろ荷造りしておきなさいね」
「へ?」
母さんの言葉に、一瞬、何のことを言っているのか理解できなかった。
「荷造りって……どこか旅行でも行くの?」
「相変わらずのんきねぇ、まぁあんたにとっては似たようなものよね。
とりあえず、数日分の着替えと必要なものをまとめておけばいいわよ」
「マジで旅行か?」
俺は首を傾げながらも、まあいいかとボストンバッグを取り出し、適当に荷物を詰め始めた。
下着、Tシャツ、ズボン、歯ブラシ、スマホの充電器、あとは——
「これくらいでいいか」
まあ、旅行なんてものは何とかなるものだ。
どこいくのかなー海外とかとかかなぁ?
などと気楽に考えていると、部屋のドアがノックされた。
「兄さん、入るわね」
柚希の声だ。
「ああ、別にいいぞ」
ドアが開き、柚希が入ってくる。いつも通りの落ち着いた表情だったが、その目はどこか真剣だった。
「兄さん、荷造りはもう終わった?」
「おう、完璧だ。ほら」
俺はドヤ顔でボストンバッグを持ち上げて見せた。
「……兄さん、まさかとは思うけど、中身を見てもいい?」
「ん? いいけど、まあ普通の旅行セットだぜ」
柚希は無言でバッグを開け、中を覗いた。
次の瞬間、眉をピクリと動かす。
「兄さん」
「ん?」
「……これで本当に大丈夫だと思ってる?」
「え、何か問題あるか?」
柚希はバッグの中身をひとつひとつ確認しながら、深いため息をついた。
「兄さん……。ちょっと旅行に出かけるくらいで考えてるのね」
「え、違うの?」
柚希はバッグを閉じると、俺の顔をじっと見つめた。
「兄さんは……本当に、よかったの?」
「……は?」
なんのことだか、さっぱりわからない。
「兄さん……後悔してない?」
「後悔……?」
俺は少し考え込んだ。
「俺はさ、自分の選択になんて一ミリも自信を持ってねえよ。
その場の流れでいろんなことを決めてきたし、やってきた。それを後悔したことだっていっぱいある。
けど、今こうして生きてる。そしてそれなりに楽しくやってる。
なら、決して間違いではなかった。そう思ってる。
人生なんて選択の連続でしかない。けれど、その選択に正解なんてなくて、なるようにしかならない。
なるようになった先で俺が笑えて、身近な人たちが笑えてるなら、それで充分じゃね?」
柚希はしばらく俺の言葉を噛み締めるように沈黙し、それから小さく微笑んだ。
「……そっか。兄さんはやっぱりすごいね」
「当たり前だろ? なんたってお前の兄ちゃんなんだぜ?」
俺はニッと笑い、親指を立てる。
柚希はクスッと笑いながら、小さく頷いた。
何に対しての問いだったのかわからんけど、今の俺……立派な兄っぽくね?
ひゃっほう!
柚希の好感度が上がった音がするぜ!
確実に気のせいだが。
◆
※柚希視点
兄さんの部屋の前で、私は一度深呼吸した。
ドアの向こうからは何やらごそごそと音がする。荷造りをしているのだろう。
兄さんは、私の選択を受け入れてくれている。
それが兄さんにとって当然なのかもしれない。けれど、私はずっと迷っていた。
兄さんを巻き込んでいいのか。本当にこれでよかったのか——。
だから、確かめたかった。
ノックをして、返事を待たずにドアを開ける。
「兄さん、入るわね」
「おう、別にいいぞ」
部屋に入ると、兄さんは得意げにボストンバッグを掲げて見せた。
「おう、完璧だ。ほら!」
私は無言でそれを受け取り、ゆっくりと開ける。
中には、最低限の着替えと日用品だけ。
——やっぱり。
「兄さん……。ちょっと旅行に出かけるくらいで考えてるのね」
「え、違うの?」
兄さんは首を傾げた。その姿があまりにもいつも通りで、胸が苦しくなる。
私だけが、この選択の重みを感じているのかもしれない。
兄さんは何も変わらないままで、いつも通りの顔をしている。
「……兄さん」
「ん?」
「……本当に、よかったの?」
兄さんは一瞬だけ考え込むような素振りを見せたが、すぐにいつもの調子で応えた。
「……は?」
迷いはした。でも、私は決めた。
兄さんに相談するまでもなく、私は兄さんを選んだ。
兄さんがいてくれるなら、どんな未来でも怖くないと思った。
でも、それは私の気持ちでしかない。
「兄さんは……後悔してない?」
問いかけながらも、兄さんがどんな答えを出すのか、分かっていた気がする。
「俺はさ、自分の選択になんて一ミリも自信を持ってねえよ。
その場の流れでいろんなことを決めてきたし、やってきた。それを後悔したことだっていっぱいある。
けど、今こうして生きてる。そしてそれなりに楽しくやってる。
なら、決して間違いではなかった。そう思ってる。
人生なんて選択の連続でしかない。けれど、その選択に正解なんてなくて、なるようにしかならない。
なるようになった先で俺が笑えて、身近な人たちが笑えてるなら、それで充分じゃね?」
私は息をのんだ。
——やっぱり、兄さんは何も変わらず、私の言葉を受け止めてくれる人だった。
私はあんなに悩んだのに、兄さんはいつも通りだった。
私が選んだ兄さんは、やっぱり間違っていなかった。
「……そっか。兄さんはやっぱりすごいね」
「当たり前だろ? なんたってお前の兄ちゃんなんだぜ?」
兄さんはニッと笑い、親指を立てた。
その姿が、私の不安を吹き飛ばしてくれる。
——この選択に、後悔なんて必要ない。
「……ふふっ、そうだね」
私はそっと微笑んで、部屋を後にした。
兄さんは、余計なことを聞かず、ただいつも通りにいてくれる。それが、どれだけ心強いことか。そう思うと、私は自然と胸が温かくなった。