第二話 妹の部屋と世界の広さ
俺は、部屋でゴロゴロしながら漫画を読んでいた。
特に何の変哲もない午後。平和な時間。
……だったはずなのに——
「兄さん、ちょっと来てくれる?」
柚希の声が扉の向こうから聞こえてきた。
「おお、どうした?」
「私の部屋まで来て」
「え?」
妹の部屋に呼ばれるなんて、久しぶりだ。
いや、正確には数年ぶりだ。
「……お兄ちゃんを妹が部屋に誘うなんて、なにかのフラグじゃないだろうな?」
「別に変なことしないから、さっさと来てよ」
変なことって何だろう。お兄ちゃんも多感な時期だからいろいろ想像しちゃうよ?
うん、むしろ多少なら変なことされてもいい気がしてきた。
されないだろうけど。
「本当に? 俺が部屋に入った瞬間、罠が発動するとかないよな?」
「兄さんが勝手に変なこと考えてるだけだよ」
何故バレてるのだろうか。
「……ふむ。しかし、妹が兄を部屋に呼ぶ。これは何かの物語の重要なイベントのような……」
「兄さん、それ以上変なこと言ったらマジで入室禁止にするよ?」
「すみませんでした」
これ以上ふざけることを許さない冷静な返しをされ、俺はしぶしぶ立ち上がる。
妹の部屋の前に立つ。
「……」
何だろう、妙に緊張する。
まるで初めて女の子の部屋に入るかのような——
「……ごめん、やっぱり心の準備が——」
「いいから入って」
「あぁ!!」
バタン。
背中を押され、俺は柚希の部屋に押し込まれた。
「お、お邪魔します……!」
周囲を見回す。
き、綺麗だ。
白を基調とした清潔感のある空間。机の上には整然とノートや本が並び、ベッドにはフワフワのクッションと昔ゲームセンターで俺が取ってきた、なんのキャラクターだか判らない謎のぬいぐるみ。
「うぉ……ここが、女の子の聖域……!」
「……兄さん、今の発言アウトだからね?」
「えっ、俺なりに神聖な気持ちで——」
「アウトって言ったのに、さらに深みへ突っ込むのやめて」
「そんなこと言うなよ!? 俺はただ、妹の成長に感動して——」
「黙って座って」
「わかった!!なんとかクッションってやつだな!?大昔にジョークグッズとして流行った、座るとさながら放屁したかのような音がなるというー」
「座れ。」
怒られた。
俺はしぶしぶ椅子に座る。
机の上にはノートパソコンが開かれている。
『ふふふっ、おもしろーい。この子が? いいわね、すでにエンタメ性を感じるわ』
突然、スピーカーから女性の笑い声が聞こえた。
「うおっ!? 誰!?」
驚いて画面を見ると、そこには銀髪の異国美女が映っていた。
年齢は……二十三、四くらいか? いや、それ以上かもしれない。
整った顔立ち、碧く知性に溢れる冷静な眼差し、それでいてどこか柔らかく人懐っこさを感じる微笑み。
「紹介しますね、マリアさん。兄の湊です。少し奇行が目立ちますが、善良で割と優秀なのですよ」
「待て。 奇行とは失礼な。てか俺変人枠なの!?」
『ふーん……湊君、だっけ?』
マリアと呼ばれた女性が、画面越しに俺を見つめる。
まずい、何か言わないと。
「……Hi! My name is Minato! How do you do! I am very fine thank you!」
『……え?』
「……え?」
『……』
「……」
沈黙。
気まずい。
俺はなぜか異国の美女と話すプレッシャーでテンパり、脳内にある英語力を総動員してしまったのだ。
『あの、別に日本語でいいんだけど……』
「Oh…… I see……」
『いや、だから日本語で——って、どうして急に昭和の英会話教本みたいになるの?』
「Very sorry! My mistake! Japanese difficult!」
「兄さん、やめて。ほんと恥ずかしいし、英語が崩壊してる」
『……ふふっ。湊君、面白いね』
マリアはクスクスと笑う。
「……いや、これが初対面の人間への正しい対応だと?」
『まあまあ、楽しかったからいいわ』
マリアが落ち着いた雰囲気で微笑む。
俺はなんとか正気を取り戻し、改めて妹とマリアの会話を聞いた。
——流暢なやりとり。
……普通に外国人と会話してる!?
「え、柚希……お前、英語ペラペラなの?」
「まあ、普通に話せるくらいにはね」
「マジかよ……すげえ……」
俺は純粋に感動した。
俺の妹、普通に国際派やん。
こう言っては何だが、俺は英語ができない。
テストでは選択問題がなければ赤点必至ともっぱらの噂。
ちなみに選択問題の正解率は80%を超える。
六角形の棒状のものが俺に正解を教えてくれるのだ。
しかし兄妹でなぜこうも出来が違うのか。
「いや、なんかもう色々すごいな……。妹がグローバルすぎて、俺、家から出たくなくなってきた」
「うん、出よう?出なきゃなにも変わらないよ?」
感心しながら話を聞いていたが、その会話が“何を意味していたのか”を知るのは、もう少し後のことだった——。