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肘や膝、指の関節、そして鼻の頭。たった今擦り傷の出来た所だ。折り曲げると少し出っ張る、もしくは最初から出っ張っている所。特に右膝と右肘が酷く、血が滲みジンジンと熱を持って痛みを伴っている。無意識に左側を庇ったせいかも知れない。
穴に落ちた。深い穴だ。とても自力ではよじ登れそうにない。
両親と共に旅行に来た先の、寂れた観光スポットだと言う登山道。子供やお年寄りでも登れる緩やかなコースだと言う事だった。
私達は、登り始めて30分程で休憩所に着いた。両親がトイレに行ったのを待っている間、スマホの電波も余り良くなく暇を持て余していた私は、大人しく待っていれば良かったのだが・・・。
ふと視界を横切る白い影が見えたのだ。
ウサギ?
正体はわからない。一瞬の事だった。ふわふわとしていたような気がする。温かそうな、触ると柔らかそうな、癒されそうな、そんなものだったような気がした。許されるならば触れたい。触れられないまでも、しっかりと見て何者なのかを確認したい。そんな気持ちが私の中に芽生えて、大きく膨らんだ。
とうとう私は、コースを少しくらい外れても大丈夫だろうと思い、両親を待っていた休憩所の道の隅を離れ、そのウサギらしき姿を探して木々の生い茂る獣道を進んで行った。
春の始まりにしては暑い日で、雨上がりだからか湿度が高かった。得体の知れない小さな虫が飛び、額を流れる汗が目に染み、涙を生んで量を増して頬を伝って行く。また別の場所から湧き出た汗と一緒になって量を増し、流れる水分は間違いなく私が生み出したもので、その分の水が私の中から奪われたことになる。乾く事なく流れるものだから、どのくらい私から奪われたのかがよくわかる。ああ、私が減って行く。
気分が萎えて引き返そうと思った時に、目の前に何やら拳大の羽のある虫が飛び出して来た。手で払いつつ目を閉じ顔を背けた拍子に、足を滑らせ、そして落ちた。
思わずため息が出る。
ウサギを追いかけて穴に落ちるなんて、まるで不思議の国のアリスではないか・・・。
はるか頭上に見える穴の入り口を睨みつけた。壁のように反り立つ穴の側面をよじ登ろうと試る。しかしながら所々飛び出す木の根や、日が届きにくいながら頑張る雑草は、やはり陽の恩恵を十分に得ていないせいかいとも容易くむしり取れてしまう。
スマホで親に連絡を取ろうと思い立った。が、気付くと背負っていたはずの荷物が無い。さほど広くは無い穴の中を見回してみても、どこにもそれらしいものはなかった。運悪く穴の上に残っているのか、何かに引っ掛かってどこかにあるのか。少なくとも目の届く範囲内には、何も見当たらなかった。
不運が重なり、何だか投げやりな気分になった私は、再びため息をついて、ダメもとで穴の上の陽の光の刺す方に向かって呼びかけてみた。
「すみません、誰かいませんか? 深い穴に落ちてしまったんです」
シンと何の音もないところに、私の声は思ったよりも大きく響いた。その声の響きが消えた後には沈黙が戻る。頭上からは何も聞こえてこない。
ダメか。そう思い、心細くなってきた時だった。
「君も落ちちゃったの?」
背後から声が掛けられた。唐突に。
私はヒュッと息を呑む。体全体に力が入って、自分が少し小さくなるのを感じた。声は私の物よりも少し低く、少し小さく、元気がなかった。驚いた事実を恥ずかしく思い、私は慌てて振り返る。そこには同い年くらいの男の子がいた。
さっき見回した時には何も無かったし、誰も居なかったのに・・・。
「僕も少し前に落ちてしまったんだ。僕は、誰にも言わずにここに来てしまったから、中々見つけてもらえなそうなんだけど、君は? 誰かと一緒に来たの?」
制服だろうか。白いワイシャツに黒のズボン。この辺りの学校ではこうなのだろうか、頭には学生帽を被っている。背が高く痩せていて、それでも顔は丸く、目元は腫れぼったく浮腫んでいるように見える。顔色は人形の様に白かった。声と同じく元気が無さそうだ。
「お父さんとお母さんと3人で・・・。急に居なくなったから、探してくれると思う・・・」
「そう。なら大人しく待っていよう。ここ、狭いけど乾いているんだ。立ったままだと疲れるから座らない?」
不安と不思議と、少しの怖さがあった。知らない人は苦手だ。初対面は怖い。でも掛けられた声には悪意のかけらもなく、優しさと、私と同じような怯えがあった。振り返って目にしたその姿と表情にも、優しさと怯えが見えた。ああ、彼はおそらく、私と同じで、不安と不思議と、少しの怖さを抱えているのかもしれない。ならば、と、少しだけ構える心が柔らかくなった。
彼が示した場所は、狭い範囲に陽射しが当たり、その陽射しがずれたのだろう、日陰で乾いていて、座っていても眩しくなく、快適そうだった。彼は先に発って座った。頷いて私は彼の隣りに座った。
「あ、」
彼は「しまった」という顔をして自分の体を見つめる。座ると更に痩せて見えた。背が高い分、畳んだ体が窮屈そうだ。
「?」
「暫くシャワー浴びてないから、少し臭うかも」
腕を上げ、脇の辺りに鼻を寄せる。匂いを嗅ぐ仕草。私も釣られて周囲の匂いを嗅いでしまった。草の汁の青臭い匂いと、土の匂いと、自分の汗の匂いがする。あと少し、何かの腐ったような匂い。穴の中でしそうな、想像を超えない匂いしかしなかった。
「大丈夫だよ」
私は少し笑って両腕を膝の前に出して体育座りをした。そうすると、左腕の七分袖の袖口から包帯が覗いた。お母さんが巻いてくれた白い包帯は、滑り落ちて土と擦れたせいか茶色く汚れていた。彼の目が留まる。
「僕はハル。君は?」
彼、ハルは私に名前を聞いて来た。視線は包帯に留まったままで。
「綾」
私は答えた。包帯を見つめながら。
「腕は怪我?」
首を傾げながらハルが聞く。私が思ったような嫌悪感や侮蔑、疑いやら差別的な感情は読み取れない。
「あーうん。切ったの。自分で」
別に隠すつもりも無かった。一昨日自分でやったのだ。
「助けが来るまで暇だし、もし嫌じゃ無かったら聞いても良い?」
同情とか、冷やかしとか、そういうのも感じ取れない。ただ気になるから聞いた。昨日の夜何食べた? 助けが来るまで暇だし、もし嫌じゃなかったら聞いてもいい? そういう感じだ。
私は頷いた。過ぎた事だけど、誰かに聞いて欲しいという想いがあった。長くなるけどいい? という前置きは必要ないだろう。助けが来るまで暇なのだから。
「中学時代、ずっと勉強を頑張っててね、それなりの成績が取れて、希望の高校に入れたの。朝起きて予習して、ご飯食べて登校して、授業受けて、終わって塾行って、帰って勉強して、寝て、起きて予習して。全然辛く無かった。それが当たり前だと思って、特に頑張ることもなく。でもね、いざ合格して高校に通い始めたら、自分が何をしてるのかが分からなくなったの。高校に入ってもやっぱり朝起きて予習して、ご飯食べて登校してって同じ毎日。友達も居なかったし、欲しいとも思わなかった。気付いたら、何も良いと思えない、嫌な事もない、ただ生きてるだけだなって思って。変化が欲しかったんだと思う。それで切ってみたの」
ハルはただ聞いていた。隣に座って正面を向いて。
「痛かった。適当にやったから脈の上じやなかったみたい。でも血が沢山出て止まらなくて、自分じゃどうにもならなくなってお母さんの所に行ったんだ。で、そのまま話してみた。イジメられてる訳でも無いし、不満や不都合があるわけでも無いのになんとなく切っちゃったって。お母さん、止血しながら百面相みたいになってた。「綾は真面目だからね、少しお休みしようか」って言ってくれて、すぐ学校に連絡して暫く休みにしてくれた。自分もパート休んで、お父さんにもすぐ連絡して、有給貰って「旅行行こう!」って。で、ここに来て穴に落ちた」
一気に話して一呼吸置く。ハルを見ると、正面を見たままじっとしている。
手を見ると、私と同じく土と草の汁にまみれていた。だが爪が、私よりも酷く荒れていた。