07_第二章 初クエスト
その部屋を訪れた理由。それはエステル自身にも曖昧だった。ただ病院を退院してからこの数日間、彼女は非現実的な日々を過ごしてきた。ゆえにこの部屋にある確かな現実を改めて確認しておきたかったのかも知れない。操作も慣れてきた車椅子に腰掛けて彼女は目の前にあるその現実をじっと見つめる。
白を基調とした清潔な部屋。窓から差し込む温かな日差しがベッドにいる一人の女性を照らしていた。成人した美しい女性だ。腰まで伸びた艶やかな白髪。作り物のような透明感ある白肌。固く閉じられた瞼と綺麗な薄紅色の唇。簡素な白いワンピースを着用しており衣擦れの音ひとつ立てず眠り続けている。
僅かな身動ぎさえない女性。まるで死んでいるようだ。だが確かにこの女性は生きている。少なくともその精神は活動していた。ゆえにこの非現実的な数日間が存在している。部屋を訪れてから五分。何をするでもなくベッドの女性を眺めていると――
「ここで何をしているの?」
背後から声が掛けられた。
エステルは黒いポニーテールを揺らしながら背後へと振り返る。廊下に面した部屋の入口。そこに屋敷の主たるリタが立っていた。少女の言葉にただ沈黙するエステル。リタがゴシック調ドレスのスカートを揺らしながらエステルへと近づいていく。
「ずっと寝顔なんか眺めちゃって。もしかして寝込みでも襲おうというのかしら?」
「……別にそんなつもりはない。ただ未だに信じられなくてな」
リタがエステルの横で立ち止まる。隣に並んだその少女にエステルは慎重に尋ねた。
「……本当にこの女性は――貴女なんだな?」
エステルの確認にリタがニヤリと笑う。
「そうよ。何度も説明してあげたじゃない。あたしは十年前から寝たきりで精神だけが活動している。そしてアンタの目の前で話をしているこのあたしは、あくまでのその精神で遠隔操作している機械人形なのよ」
「精神だけで機械人形を操作している。そんなことが現実に可能なのか?」
「震えるほどの馬鹿ね。現実を前にして現実であるか否かを問うなんて。何にせよ、こんな姿をしていてもあたしは今年で二十一歳の大人よ。アンタより頭脳も年齢も上なんだから、もっと敬意を払ってほしいものだわ」
何とも不遜な物言いだ。もっとも彼女が自分には及びもつかない優れた頭脳を有していることは間違いない。スマホやタブレットに代表される近代科学の急激な発展は彼女の助力によるものなのだから。エステルはそれを認めつつふとした疑問を口にする。
「リタさんが寝たきりだというのなら、リタさんが使用しているその機械人形は誰が製作したモノなんだ? リタさん以外にもそんなことが可能な人物がいるのか?」
「あたしと並ぶ天才がいるわけないでしょ。この機械人形もあたしが作ったのよ」
首を傾げるエステル。疑問符を浮かべる彼女にリタが「正確には」と言葉を補足する。
「この機械人形はバージョン6でバージョン1までは他人に作ってもらったわ。その当時は機械人形と言うよりアームしかないただの機械だったけどね。だけど自分の意志で動かせる手さえあればあとは簡単よ。自分で自分をアップデートすればいいんだから」
「なるほど。しかしアームだけとはいえ人の精神で動かせる機械なんて十分すごいだろ。リタさんの助力を得られないだろう当時の科学にそれだけの技術があるなんて驚きだ」
「感心しているところ悪いけどそれは見当違いよ。バージョン1ではまだ精神と機械を連動させる機能なんてなかった。その接続を実現していたのは――ルイスなんだから」
ルイス・アーモンド。同居人である彼の名前を口にした途端リタの頬が僅かに赤らむ。
「ルイスの魔術を中継してあたしの精神と機械を接続していたのよ。寝たきりで話すこともできなかったあたしと唯一心を通わせることができたのが彼だったからね」
「寝たきりの人と心を通わせる。そんな魔術なんて聞いたことがない」
「ルイスをアンタたち凡才と一緒にしないでくれる? 彼はあたしと同じ天才中の天才なんだから。前にも話したけど、彼の魔術は旧時代魔術――魔法にまで到達している」
病院を退院してからの数日間。エステルはリタと毎日顔を合わせている。ゆえにリタのことも多少なりと理解していた。リタは毒舌家であり自信家で相手が誰であろうと蔑みのスタンスを崩さない。だがルイスだけは例外でリタも彼には素直な称賛を送るようだ。
「魔法……か。効果に制限がある魔術とは異なり理論上あらゆることが実現可能とされている魔術の到達点。だが魔法は五百年前に廃れて現在は使用者もいないと聞いているが」
「信じないならそれで構わないわ。どうせルイスを理解できるのはあたしだけだし、あたしを理解してくるのもルイスだけなんだから」
どこか誇らしそうにそう話して、リタが「さてと」と腰に手を当てる。
「ルイスが朝食を用意してくれているわ。アンタも食べるならリビングに来なさいよ」
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リビングに用意されていた朝食はアイスクリームが乗せられたフレンチトーストと新鮮な各種果物だった。まるでホテルのような豪華な朝食にエステルは目を輝かせる。
「どうぞ温かいうちにお召し上がりください」
ルイスが穏やかにそう言う。目の前に並べられた豪勢な朝食はアイスに至るまでが彼のお手製だ。エステルは「いただきます」と声を弾ませるとフレンチトーストを切り分けてアイスとともにトーストを口に運んだ。
「ふぅううん――おいひぃいい」
エステルの語彙力皆無な感想にルイスが「ありがとうございます」と微笑みを浮かべる。美形青年の屈託ないその笑顔にエステルはつい頬を紅潮させた。
「いや――本当に素晴らしい腕だ。私は高級ホテルなんて縁ない人間だが、恐らくそこで提供される料理にも劣らないだろう。もしかしてルイスさんは元シェフか何かなのか?」
頬の赤らみを誤魔化すための質問。エステルの質問にルイスが「いいえ」と頭を振る。
「ただ料理は私の数少ない趣味のひとつなので多少こだわるようにはしています」
「多少のこだわりではないような気もするが。このアイスも自家製なんだろ? この滑らかな舌ざわりも口の中でトロける食感もどれも初めての体験だ。最高に美味しいよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると作り甲斐が――」
「ちょ――ルイス! ルイスってば!」
エステルとルイスの会話にリタが声を割り込ませる。「はい、何ですか?」と首を傾げるルイス。リタがきょろきょろと目を彷徨わせた後、何か思いついたように頷いた。
「なんかこう……手が不調みたいでうまく動かないの。だからルイスが食べさせてよ」
「手の不調ですか? しかし見たところすでに半分ほど食事を終えているようですが?」
「きゅ、急に不調になったのよ。そ、それともルイスはあたしに食べさせるの嫌なの?」
リタの懇願するような瞳。その瞳に見つめられてルイスがニコリと微笑む。
「分かりました。少々お待ちください」
リタが表情をぱあっと華やがせる。ルイスがリタのフレンチトーストを切り分けて、一口大のトーストをフォークにぷすりと突き刺した。
「はいリタ。あーんしてください」
「あーん」
ルイスの差し出したトーストをリタがぱくりと口に含ませる。頬を赤くして幸せそうに咀嚼するリタ。その何とも無邪気な表情は実年齢となる二十一歳の女性と言うより、見た目通りのまだ幼い少女であるように思えた。
『エステルさん……コーヒーどうぞ』
声を掛けられてエステルは横に振り返る。エステルのすぐ横に屋敷の侍女である三つ編みの機械人形とツインテールの機械人形――レンとランが立っていた。
『コーヒーだけはランお姉ちゃんが淹れたんですよ。とっても美味しいですよ』
レンが明るい声でそう話した。ランが瞳をチカチカと明滅させる。照れているのかも知れない。ランの手にしているコーヒーポット。それを一瞥してエステルは眉をひそめた。
「私はコーヒーが苦手で飲めないんだ。せっかく勧めてくれたのにすまない」
『……え?』
エステルの言葉にコーヒーポットを持っていたランがカタカタと全身を震わせる。
『コーヒー……飲まない――飲まままないいい――のののののままままま――あがががががががー―ピィイイイイイイイイイイイイイイイ――ボフン!』
『お姉ちゃん!? お姉ちゃんしっかり――こんなのいやああああああああああ!』
全身から煙を噴出させたランにレンが絶叫する。コーヒーを断られるという条件分岐を処理できず熱暴走を起こしたのだろう。エステルはそう冷静に解釈した。なぜそれを彼女が理解できたかと言えばここ数日間で同じような場面に何度も遭遇しているからだ。
煙を吐きながら沈黙するランと、床にこぼれたコーヒーを拭きながら悲しみに暮れているレン。彼女たちの様子をぼんやりと眺めながらエステルはトーストを一口頬張った。