尻に敷かれるということ
朝のホームルームが終わり、あと十分もすれば一時間目の授業が始まる。一時間目の授業は数学だ。
数学の教科書とノートを机の上に出し、俺は頬杖をつきながら授業が始まるのを待つ。
「翔太郎は今回の数学の課題やった?」
目の前の席に座っていた男が、こちらを振り向いて尋ねて来た。
彼の名前は小野健。爽やかな黒髪短髪が特徴で、ハーフ寄りの顔をした純日本人のイケメンボーイだ。しかもその顔のかっこよさだけでなく、健はサッカー部でエースを任せられているらしい。もちろん、女子ウケもばっちりな男だ。
「ああ、一応やった。逆関数のやつだろ?」
「そうそう。あの時間がかかる課題ね」
健は苦い表情を作ると、課題で出されていたプリントをヒラヒラとさせて見せた。彼のプリントの空欄は全て埋まっていた。健は顔もいいし運動も出来るが、それだけでなく勉強だって学年で上位二十名の中に入る学力を持っている。ちなみにウチの学年は、三年生だけで百人くらいの人数がいる。
「今の単元難しすぎないか? 俺、分からない問題は飛ばしちゃったんだけど」
そう言いながら俺も課題のプリントを机の上に出す。健のプリントと違って、こちらの空欄はポツリポツリと空白が目立っていた。
「やっぱり難しいよね。僕も分からない問題は何個かあったけど、何となくで答えを出しただけだったから」
「なんとなくで答えを出せるのがすごいんだよな。俺、分からない問題は答えまで辿り着かないから」
健とは席が前後であるため、こうやって授業の間に話すことが多々ある。
帰宅部である俺とサッカー部のエースである健が仲良くなれたのも、この席順のおかげだ。ウチのクラスは席替えがないので、これからも健とは仲良くあり続けることだろう。
「ねえ、翔太郎」
健と数学の話で盛り上がっていると、横から一人の女子に声を掛けられた。そちらに顔を向けると、一枚のプリントを手に持った蜜柑がこちらを見下ろしていた。
「蜜柑か。どうしたんだよ」
恋人である蜜柑とは同じクラスなので、こうやって彼女が話し掛けて来ることは多い。しかし蜜柑が俺に話しかける時は決まって厄介事を持ってくるので、俺は心のどこかで身構えてしまう。
「一時間目に提出しないといけない課題やった?」
机の上に置いてある俺の数学のプリントをチラリと見るなり、蜜柑は笑顔で尋ねてくる。机の上のプリントを見れば課題をやってあることが分かるだろうに、どうしてわざわざそんなことを尋ねるのか。嫌な予感がしてならない。
「やったけど、それがどうした」
思わず声が低くなる。しかし蜜柑はそんなことなどお構いなしに、手に持っていたプリントを俺に見せる。そのプリントは一時間目の授業に提出しなければいけない数字の課題として出されていたプリントだったが、そこの空欄には一切なにも答えが書かれていなかった。
「数字の課題やってくるの忘れちゃったから、代わりにやってくれないかなーって」
愛嬌のある笑みを浮かべながら、蜜柑はこてりと首を傾げた。
やっぱり嫌な予感は的中した。学校で蜜柑が話し掛けて来る時は決まって、俺を利用してやろうと思っている時だけだ。
「一時間目が始まるまで残り十分もあるんだから自分でやればいいだろ」
俺にだってプライドがある。
蜜柑に「代わりに宿題やって?」と聞かれて、かしこまりましたと頭を下げる俺ではない。今日こそ蜜柑のワガママに負けず、なんとか彼女を追い払おう。そう思ったのだが、俺の言葉を聞いた瞬間に蜜柑の顔から笑顔が消えた。その冷たい眼差しに、背筋がゾクリと震える。でも、今日こそは負けない。
「わたし、このあと友達とお手洗いに行きたいんだけど」
「そんなこと知るか。なんで俺が蜜柑の課題をやらなくちゃいけないんだよ。課題をやって来なかった蜜柑が悪いんだろ?」
「忘れちゃったんだもんしょうがないじゃん。それともなに? 翔太郎はわたしがお手洗いに行けなくて具合い悪くなってもいいの?」
「一時間くらい我慢できるだろ」
「友達ともお喋りしたいもん」
「そっちが本音じゃねえか。一時間くらい我慢しろ」
朝から喧嘩を始める俺と蜜柑を見て、健は気まずそうに苦笑いを浮かべたまま前を向いてしまった。
俺と蜜柑が喧嘩をするのは日常茶飯事なため、俺たちの喧嘩を止めようとする者は一人も居ない。
「まずさ、これは自分に与えられた課題だろ? それを俺にやらせてどうすんだよ」
課題を人にやらせても自分のためにはならない。そう思って言ったのだが、蜜柑はフグのように頬を膨らませた。
「いいじゃんケチ! 翔太郎は課題やってあるんだから、あとは写してくれるだけでいいのに!」
大きな声を出されて、俺は思わず体をビクリとさせてしまった。なんとなく周りを見回してみると、他のクラスメイトたちがこちらの様子をチラチラと見ているような気がする。朝っぱらから夫婦喧嘩か、とでも思われているんだろうな。
俺は「はあ」とため息を吐き、頭に上りそうになった血をなんとか落ち着かせた。
「分かったよ。写すだけな。写したのがバレて怒られても知らねーぞ」
きっと蜜柑は俺が課題を代わりにやるまで、ここでワガママを言い続けるだろう。朝のゆったりとしたこの時間を、蜜柑との喧嘩で終わらせたくない。そう思ったので俺の方から折れると、蜜柑は途端に顔色を明るくさせた。
「ほんと! やっぱり翔太郎は優しいね! ってことで課題はよろしくね! 終わったらわたしの席の上に置いておいて!」
蜜柑はそれだけを言うと、俺の机の上にプリントをバンと叩きつけた。そしてこちらに笑顔を向け、「じゃあね」と手を振りながら女子の友達と教室をあとにした。
俺は悔しさで泣きそうになるのを我慢しながら、蜜柑のプリントの空欄を埋めるために筆記用具を取り出す。
「今日も牧野さんは元気だね。お疲れさま」
前を向いていた健がこちらを振り返り、励ましの言葉を掛けてくれる。
「全くだ。もっとおしとやかな女の子と付き合いたいわ」
ため息混じりにぼやきながら、俺は並べられた空欄に数式を書き込んでいく。
完全に蜜柑の尻に敷かれている俺を見て、健はかける言葉が見当たらない様子でいた。
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