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帰還、そして脱出

 三人は森の中を進んだ。皆一言もしゃべらなかった。

 藪をかき分けながら三時間ほど進んだ頃、アマンダは森の下生えの中に倒れ込んだ。サンダル履きの彼女の足は鬱蒼とした森の下では無防備に過ぎた。彼女の両足は森の草葉に切り刻まれて真っ赤に染まっていた。彼女は膝を抱え込んだままうつむき声を震わせて慟哭した。男たちは何も言わずに彼女のそばに立っていた。

「今夜はここで一旦休もう。もっとも火は起こせないがな……」ゲイルはそう言って荷を下ろして布を引き出した。それは昨日の夜テントの幌にした布だった。

 ゲイルは下生えを踏み鳴らし、平らな地面を作ると、布を敷きアマンダに寝るよう合図した。そうしてアマンダが横になると、ゲイルはすぐとなりに身を横たえた。アマンダが驚き固まっていると、今度はアイルが反対側に寝そべり、布にくるまるとアマンダを挟み込んだ。

「すまんが火を起こすわけにはいかねえんだ」ゲイルが言った。「体を冷やすのが一番だめだ。我慢してくれ」

 アマンダは背後でゲイルがそういうのを聞いた。目の前にはアイルの細い鎖骨があった。襟首と胸の隙間から香る男の芳匂いがアマンダの鼻孔をついた。

 アマンダ視線を上げてアイルの顔を見た。アイルは目を閉じ眠りに入ろうとしていた。

 アマンダはアイルの顔を見上げた。長いまつげと髪の生え際の産毛が女性的で美しかった。彼の年ではうっすら生えているはずのひげもなく、濡れた唇に妖艶さを感じた。

 アイルはアマンダを強く引き寄せ、彼女の頭の上にアゴを乗せて抱いた。汗と男性の匂いと体の熱に包まれて、アマンダは心臓を高ぶらせながら、それでもいつしか眠りへと落ちていった。


 アマンダは暑さと息苦しさに目を覚ました。全身が強い力で締め付けられていた。彼女は体を動かそうとしたが、その細身の体は身をよじることすらできなかった。

 彼女の目の前にはアイルの胸板があった。その心臓は壊れるのではないかというほどの激しい早鐘を打っていたいた。アイルの首筋は汗でぐっしょりと濡れており、開いた鼻の穴からかすかに匂う息の香りがした。

「あ、あの……」アマンダはくぐもった声を上げた。しかしアイルの耳には届かなかった。

 彼はアマンダの頭をふたたび強く抱きしめると、右足を臀部にからみつけ、腰を強く押し付けた。

 そこには怒張した陰茎があった。布越しに固くなった亀頭の感触がアマンダの太ももに押し付けられた。

 アイルは口を開け、前歯でアマンダの頭頂部を噛んだ。そしては腰全体を波打たせ激しく痙攣した。

 「うぅっ!」アイルは小さくうめき声を上げた。彼はアマンダあの頭をひきよせアマンダの額に唇を押し当てた

 やがて股間の膨らみから湿ったものが染み出しアマンダのスカートを汚した。

 布の隙間から強烈な男性の匂いが立ち上った。

 いまやスカートと布はぐしょぐしょに濡れ冷たい感触でアマンダの肢体に張り付いていた。

 おもらし?いや違う。アマンダはその液体の正体に気づき羞恥と興奮で鼻の穴を膨らませた。

 精液。ジャングルジュース。男性の子種。

 アマンダが驚き固まっていると、アイルが眠りから覚醒しゆっくりと目を見開いた。そして自分の下腹部を見つめ、己のやったことに遅まきながら気づいた。彼は毛布をはねのけ体を起こした。

 下腹部をネバネバの精液まみれに濡らして、アイルとアマンダは固まったまま見つめ合った。

 

 「夢精か」ゲイルは言った。

 アイルは黙って布を畳んでいた。

 「命のやり取りのあとは、そうなる。戦のあとに男が猛るというのはそういうことだ」

 既に精液は乾き固まり始めていた。アマンダの絹のスカートは白い糊のようなものに覆われゴワゴワに固まっていた。

 アマンダは彼らに背を向け生乾きの部分を指でこすり取った。そして鼻に近づけて匂いを嗅んだ。

 ジャングルジュースは乾燥した海産物の香りがした。

「おぶさってください」突如声をかけられアマンダはびくりと肩を震わせた。アイルはかがんで手のひらを差し出していた。

 アマンダはアイルの背中に身を預けた。

「しっかり掴まって」アイルがそう言うとアマンダはアイルの首元に強く腕を絡めた。そしてうなじに顔を沈めた。

 アイル達はまた森を歩き出した。


 やがて日は昇り昼になった。彼らは一度水分補給のため渓流に出ることにした。

 「ここで待ってろ」ゲイルは言い、一人で森の中から川へ向かった。しかし、すぐに引き返してきた。

 「だめだな。道に轍と足跡がある」彼は言った。「俺たちはもう道を先行されているようだ。しばらく進めば流れ込みがあるから、そこで水分補給しよう」

 アイルはこのあたりの森のことはそこまで詳しくはなかったので、さすが年季の入った猟師だなあと感心した。


 彼らは森の中を進んだ。やがて陽が落ち森は再び夜の帳に閉ざされた。アイルたちは少し木々もまばらに開けた森へたどり着いた。そのまま少し小高い傾斜を昇り、スホルト村を見下ろす小高い丘の上に出た。

 丘の上から覗くスホルト村は、橙色に光る松明の炎に取り囲まれていた。すでに先行したオークたちが村を取り囲んでいるのだ。

「裏口から入るぞ」ゲイルが言った。三人はごつごつした岩の突き出た乾いた渓流の底に降りると、蔦で覆われた大きな一枚岩の前に立った。ゲイルが岩の両端に手をかけて岩をずらすと、隠匿された洞窟が顕になった。穴の内部はコウモリの瞳より黒かった。

 三人は内側から扉を塞ぎ洞窟を進んだ。乾燥した洞窟はゆるい傾斜となって奥へ続いていた。やがて三人は行き止まりの壁にたどり着いた。

 その天井から一条の光が漏れていた。ゲイルは天板の岩に手をかけゆっくりとずらした。穴から出るとそこは村の家一つだった。

 三人は家から出て村の中庭に立った。村人の一人が気づいて彼らを指さした。


 村は跳ね橋があげられ防御態勢が固められていた。要塞壁にかけられた渡り廊下から幾人もの弓使いが外を伺っていた。

 広場の外周部にはぐるりと細い溝が掘られ、中には六芒の紋様が描かれていた。アイルには効果がわからなかったが、おそらく村長が引いた魔法陣だろう。

 竜狩りのバリスタには極太の矢が番えられており、オークの軍勢と言えど用意には近づけなかった。

 村の中央広場には村の大人たちと10人ほどの残存兵が火を囲み休息を取っていた。皆それぞれ傷つきぐったりとうなだれ疲労困憊していた。

「アマンダ様、よくぞご無事で」ジーグラットが進み出て膝を折って敬礼した。

 アマンダはこくりと頷いた。彼女はみなから離れると、ジークラットと小声でなにか話し合っていた。

「盾と剣をよこしてくれ」ゲイルがそばにいた兵に言った。

 ゲイルは長剣を受け取ると、感触を確かめるように空に向かって何度か振り回した。そして盾を背負いながらアイルに言った。

「俺は防御に参加する。お前は村長に事の次第を伝えろ」

 アイルはうなずくと、一番高くそびえる櫓まで行き、梯子を伝って上へ昇った。


 村長は櫓の堅い床の上であぐらをかいて外を睨みつけていた。

「ただいま戻りました」アイル言った。

「ご苦労」村長は疲れた様子でうなずいた。「すでに連隊からことのあらましは聞いた。ヤゴーはどうした?」

「ヤゴーは死にました」アイルは短く答えた。

「うむ、そうか……」村長は沈痛な面持ちで床を睨んだ。「ゲイルは?」

「ゲイルは守りに参加しています。ルーはどうしましたか?」

「ルーはブリスコーへ向かったきり帰ってこない」

「女達は?」

「ほとんど西へ送ったが、二人残っとる。ネネとララだ」村長は杖に寄りかかりながら答えた。「親父が帰ってくるまで村を出ないと、駄々をこねてるうちに敵に囲われちまったんじゃ。」

「いつ敵の襲撃を受けたのですか?」

「昨日の朝だ。お前たちが村を発った直後から、ダンが森の様子がおかしいと騒ぐもんだから、念のため避難させていたのだ。こういう事態について、騎士団から前からお達しがあったゆえにな……」

「そうですか。敵は何人ぐらいでしょう」

「ここを囲んでいるのは50体ほどだが、川にはほかにも何体かのオークが配置されている。合わせて70体ぐらいだろう……お前粥食ったか。腹一杯にして今日はもう休め」

 アイルは地面に降りた。焚き火のそばへ行き丼いっぱいの粥をよそうと、ぼんやりと村の入り口を眺めながら飯をかき込んだ。眠気と疲労で頭がぼんやりしてきたので、自分の小屋に入り、藁敷に身を横たえると、すぐに眠りに落ちていった。


 しかしすぐにアイルは屋外の騒がしさに目覚めた。家から出て星を見ると、眠りに落ちてからまだ一刻も経っていなかった。

 皆塀に昇り物々しい様子で外を覗いていた。見るとゲイルが塀の渡り廊下の上から手招きしていた。アイルも塀の上から顔を出し外を覗いた。

 

 地面すれすれの高さにオークたち顔を突き出しこちらを覗いていた。奴らはバリスタの斜線に入らないよう塹壕を掘り進めたのだ。彼らの分厚い鋳鉄製の兜は錆止めの脂に濡れぬめりとやぐらの炎を反射していた。

 彼らの塹壕は既に櫓を完全に包囲していた。

アイルは言った。「すでに聞いていると思いますが、奴らはパルパットの城壁を破った大砲を持っています」

「ふむ……。ここももう長くはもたんかもしれんな……」村長は答えた。

 そのとき遠くから火矢が放たれた。赤く光る尾が高い放物線を描いて家の屋根へと突き刺さった。村長は杖を軽く掲げ、口中でくぐもった声で呪文を唱えると、水球を生み出し、それを打ち放って炎を消し飛ばした。

 「やつら姑息な手口を使いおってからに……わずかづつでもわしの魔力を削っていく気じゃろう。ここは長くはもたん。裏口もいずれ見つかってしまうかもしれん。そうなる前に女をつれてここを脱出するんじゃ」

「長はどうなさるおつもりですか」

「わしは残る。当然じゃろうて」

「長が死んだ場合、誰が村のものを導くのですか」

「わしが死んだらゴードンが長を継ぐ。もう決まっとることじゃろ。時間がない。はよ準備せい」

 

 アイルは自分の小屋に戻ると、短剣を腰に刺した。そして井戸で空の水筒を補充し、干し肉や乾パンとともに荷袋に放り込んだ。

 広場に戻るとネネとララは既に準備を終えていた。二人は四つ年の離れた姉妹でヤゴーの娘だった。ネネは長い茶色い髪をお下げにして垂らした美しい女性だった。若い頃はアイルとともに剣術を習い、今は腰に幅広の剣を差していた。ララは金髪をツーテールにさげた女の子で、短弓を肩に下げていた。彼女は腕の利く狩人だった。そしてアイルの許嫁であった。

 アイルを見ると、ネネは微笑んで手を小さく上げた。アイルは彼女に怒った顔を返した。

「なんでさっさと逃げなかったんだ?」アイルが言った。

「ごめんなさい……お父さんをおいていけなかったから」

「馬鹿だな。お前に心配されるタマじゃねえだろ」

「うん……それに、あなたのことも心配だったから……」

「はあ?俺?」

「うん……」ネネは口ごもった。「お父さん、死んだって聞いた……」

「ああ」アイルは短く答えた。

「死んだときのこと話して」ネネが言った。

 アイルは何も答えなかった。


 しばらくしてルイも広場にやってきた。肩から長剣を斜めに下げているほかは軽装だった。彼は鍛冶師であるため通り一辺は剣が振れた。

「大変だったな」ルイが言った。

「ああ」アイルは答えた。

「ナイフはどうだった」

「切れるし、役に立ったよ」

「そりゃよかった」そういい、ルイは長剣を背中から抜き素振りを始めた。


 最後にアマンダがやって来た。腰まである長いローブに、ズボンと革のブーツに着替えていた。腰には拳銃嚢に入ったオークの短銃を下げていた。音が出るため、もし銃を使うとしても、それは最後の手段となるだろう。

「足、大丈夫か?」アイルが聞いた。

「うん」アマンダは髪をかき上げながら言った。

「アマンダ、一つ聞いておきたいんだけど、お前泳げるか?」

「泳げない……」アマンダは首を振った。

「そうか。これから船で川を下るから、もし船から落ちておぼれそうになった場合、敵に見つかるとか関係なく、すぐに大声で助けを呼べ。わかった?」

「わかった」アマンダはうなずいた。

「よし。じゃあいくぞ」アイルは皆に言った。

 五人は地下道に続く家へ向かった。アイルは振り返ってゲイルの姿を探した。塀の渡りの上から外を見張っているゲイルの背中が見えた。

 五人は蓋を開け地下の洞窟へ降りていった。


 

 アイルは洞窟の出口を慎重にあけ、隙間から外を覗いた。外はちょろちょろと流れる水の音のほかは何も聞こえなかった。いつの間にか外は小雨が降り出していた。

 五人は谷沿いに沼地へ向かった。

 

 ほとんど水の枯れた谷底の渓流は、深く鋭いくさびのように小山と小山の間に穿たれ、両脇には生い茂った広葉樹が生い茂っていた。糸より細い三日月の光は彼らの足元をほとんど照らすことはなかった。

 アマンダが石に蹴躓き転んだ。

「暗くて何も見えない……」彼女は泣きそうな小声で言った。

アイルは手を差し伸べ助け起こした。アイルは身をかがめて再びアマンダを背負った。ふとアマンダは視線を感じ横を見た。ネネとララが暗闇の中で彼女を凝視していた。その大きな瞳が僅かな月の光を反射して煌々と輝いていた。彼女たちはぷいと顔を逸らすと、早足で先へ進んだ。

 どうやら嫌われているらしい。自分は明らかに足手まといだ。アマンダはそう思い、悲しい気持ちに沈んだ。

 五人は渓流を跨ぐ小さな桟橋の真下にたどり着いた。するとちょうどその時、左手の森の奥から何か物音がした。アイルたちは脇の森の張り出しの中に隠れた。そして枝の隙間から橋上を観察した。

 一人のオークが後ろ向きに橋を渡っていった。彼は手招きしながら何かを先導していた。

 続いてゴトゴトとなにかが転がる音がした。橋がきしみ、ほこりがパラパラと橋から落ちた。緑色の錆びに覆われた大筒がが荷台に載せられて橋を渡ってきた。

 それはパルパットを破った新型の大砲だった。やがて荷が渡り終えると、オーク達は去り、森はまたすぐに静かになった。

 アイルは今から村へ戻り危機を知らせようか逡巡した。しかし考え直し、与えられた任務をそのまま遂行することに決めた。

 五人は乾いた渓流を下っていった。


 やがて渓流の細い流れは沼と合流した。葦に覆われた沼地は夜霧に覆われ暗く何も見ることはできなかった。

 村長いわく、船は既に岸に上げて葦の中に隠してあるらしい。アイルたちは右手の釣り小屋の方面へ向かった。やがて葦の草むらにへこみを見つけ、船を探し当てた。五人は船に乗り、アイルが舳先に立ちルイがオールをつかんだ。

 船はゆっくりと葦を掻き分け進水した。静寂の湖面に小さな小舟が波紋を引いた。

 その時、沼と川のつながる入口の方、沖の闇の中に小さな光が見えた。それはゆっくりとアイル達の方へ近づいてきた。

 アイルは身振りで皆に伏せるよう合図した。

 アイルは目を凝らした。沖の水上に灯籠のぼんやりとした黄色い光が浮かんでいた。

 風が吹き岸際の葦を揺らし、湖面が波立ち舟が揺れた。

 光はさらにゆっくりと近づいてきた。アイルは明かりに照らされた船上の巨体を視認した。

 緑の鬣が光を反射してつややかに光った。緑青だ。

 彼の進路とアイルの進路とが、このままではぶつかってしまうだろう。

 アイルは舵を取り、船を左手へ差し向けた。

 そのとき、浅い沼沢地に沈む岩の頭を、小舟の底が擦り上げた。

 石と船底とがこすれる乾いた擦過音が夜の闇に響いた。

 緑青が船の舳先をこちらに向けた。そしてゆっくりとだが、まっすぐこちらに近づいてきていた。

 アイルは手振りで皆に伏せているよう合図してから、取舵を取った。そして沼地にぼこぼことできた葦の小島に回り込んだ。そうして葦の影に入り込みやつの視線から逃れようとした。

 だが小舟は静かな湖面にわずかなさざなみを立てた。そのさざなみが灯籠の光を一筋二筋と反射した。

 緑青は目ざとくそれを見つけ、さらに距離を詰めてきた。

 アイルは腰に手を回し音もなく短剣を抜いた。やつの巨躯に勝て得る見込みは殆どなかった。だがなんとしても四人を逃がすまでの時間は稼がなくてはならない。

 緑青はもう目と鼻の先まで近づいてきた。アイルはかかとを浮かせ臨戦態勢に入った。

 

 その時、突然の衝撃波が湖面を揺らした。アイルの鼓膜は急激な気圧の変化に押され一瞬耳に激痛が走った。続いてやってきた砲火の重低音が闇夜の森に長く長く残響した。

 おそらくさっきの緑色の大砲が、村に向かって放たれたのだ。

 緑青は音の来る上空に目を向けた。そうしてしばらく上を向いたまま佇んでいた。なにか考え事をしているのだろうか。やがて彼は船の向きを変え葦際に船を乗り上げた。

 巨体が草むらを踏み歩く鈍い音がしばらく響いた。やがて音は森の奥へ消えた。

 

 アイルたちはしばらく息をひそめてから、暗闇の中へ船を出した。


 アイルたちは、沼地を滑るように船を漕いだ。

 アイルは勝手知ったる沼の地形を、僅かな光を頼りにゆっくりと進んだ。水辺の蛙たちの大合唱に隠れて、彼らの存在に気づくものはいなかった。

 やがて沼の水がオルド川に流れ込む合流地点へ来た。渓流のせせらぎだけが暗黒の世界に唯一響いていた。

 その静寂を突如狼の叫びが引き裂いた。

 その遠吠えははるか上流から響いてきた……近くで聞けば砲火と聞き間違うほどの大音響だろう。

 狩人であるアイルは獣の鳴き声を聞き分けることができる。その彼が確信した。

 あれは砦にいた黒狼だ。

 だとしたらまずい。もしアイルの匂いを記憶されていたら、その鋭敏な鼻でいとも簡単にアイルを追跡するだろう。

 その時、再び遠くから大砲の砲火の残響が沼地を超えて響いてきた。アイルは村の皆を想い、心臓を締め付けられるような気持ちで川に漕ぎい出た。

 「おい、あれ」ルイが小声で言い、川の上流を指さした。

 遠くに船の熾火が三つ川面に揺れて浮かんでいた。おそらくオーク共の増員兵だろう。

 奴らがアイル達の姿捕らえていないことを祈りつつ、櫂で川底を押し闇夜の川に船を進めた。

 

 幅広の川へ漕ぎ位出ると、頭上の枝が開け、細い三日月の僅かな光に照らされて辺りが少し明るくなった。しかし水面はまるで底の見えない暗黒に覆われていた。しかしそうは言っても渓流からようやく川と呼ぶような幅になったばかりのオルガの川底は深い場所でも肩までの深さしかないはずだった。

 アイルは背後を振り返った。船の光はまだかなりの距離があった。

「ルイ、後ろの光が近づいているか見てくれ」アイルはそう言い視線を前方に集中して速度を上げた。

 そのまましばらく時間がたった。川はさらに幅が広くなり虫の声も遠くなった。ただ小舟が水面を打つたぷんたぷんという音だけが響いていた。

 すると遠く上流から夜の静寂を裂いて再び狼の遠吠えが響いた。しかも、先刻より近づいている。

 アイルは急いで説明した。「今のは砦で闘った黒狼だ。俺が砦に行ったとき、おそらく匂いを覚えられてる。ここでもたもたして匂いに気づかれると、すぐ俺たちに追いつくだろう」

 ルイが言った。「だがこの先は滝だろ?一旦船から降りないと」

 アイルは一瞬逡巡して言った。「駄目だ。そんな時間はない」

「どうする」

「船ごと滝に突っ込む。アマンダは泳げるか?」

 アマンダは首を振った。

「重い装備ははずして船に下ろせ。ネネ、何かあったらお前がこの子を助けろ」

 アイルはルイから片方のオールを受け取ると、目を細めて滝の稜線を見つめた。川の先は大岩を噛んだ三段の急流となっており、ごうごうと響く落水の衝撃音がだんだんと大きくなってきた。

 次の瞬間、アイルの目は右岸になに動くものの気配を感じた。彼は目を凝らした。

 それはオークだった。オークが滝のふちに片膝を立てて座っていた。すでに防衛線が敷かれているのだ。そして滝を越える者がいないか見張っているのだろう。

 船は滝の縁のすぐ手前までさしかかった。もはや躊躇する時間はない。

 船首が滝の縁を越えた。小舟が大きく前方に傾き滝壺の闇へ傾斜した。白く泡立つサラシから跳ね返ってくる水しぶきがアイルの顔面を冷たく濡らした。

 アイルは目の端に、オーク達が立ち上がり動きだす様子をとらえた。

 アイルは記憶を頼りに櫂を左手前方に突き出し強く握った。途端ガツンと櫂の先端が大岩を突いた。船は滝の最初の一段を落下したのだ。アイルは全体重を櫂にかけ船首をなんとしても川下に向けようとした。小舟は大岩を横滑りし、彼らは一瞬空中に放り出された。船尾が岩棚をこすり激しい擦過音を立てた。そして船底が大岩の底に直に落下し大音響で打ち付けられた。

 突然の腰に来る衝撃の痛みが体を貫いた。アマンダが恐怖で甲高い叫び声を上げたが、ララがその口を手で塞いだ。

 次の瞬間、滝の上から白い狼が船に飛び込んできた。しかし、両手のふさがったアイルに対処するすべはない。

「ルイ、なんとかしろ!」アイルは叫んだ。

 狼が船に乗り込むんできた音がした。しかし、前方を見るアイルには何が起こっているかはわからなかった。小舟は水流に錐揉みにされぐるりと回転すると、今度は船尾から空中に投げ出され、更に6フィートの高さを落下した。

 船尾がまた岩を激しく打ちまたガガッっという衝撃音を立てた。船はそのまま岩の間の楔形の細流に飲み込まれ操舵が効かなくなった。アイルは懸命に櫂を大岩に突き立て転覆を防いだ。

 次の瞬間、突然の閃光と爆発音が小舟を包んだ。

 アイルには何が起こっているのかわけもわからず、ただひたすらに船の水平を保つことに全力を傾けた。

 ようやく滝壺に船がたどり着くと、同時に船は水平を回復していった。

 アイルが背後を振り返ると、狼は腹に空いた穴から血を吹き出し死んでいた。見ると、目を見開いたアマンダが短銃を握り、肩で息をしていた。彼女が撃ったのだ。。

 ルイは腕をかまれ、牙に穿たれた二つの穴から血を垂らしていた。

「よくやった」アイルは言った。アマンダは少し笑った。

 アイル達は急いで船を漕いだ。滝壺の轟音はやがて背後の闇に溶けていった。

 彼らはしばらく進んだ後、一旦船を停止させて様子を探った。

 川は静まり返ったままだった。アイルは下流に向けて再び船を漕ぎだした。

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