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ワイバーンの襲撃

 アイルたちは一晩中川を下った。男たちが休んでいる間は女が交代して船を漕いだ。そのうちに夜は明けていった。

 やがてオルドの川幅は広くなり、さらなる大河であるラインベルクへ合流した。川の流れはより緩やかになった。水は濃い緑色になった。

 ローラント北部を東から西へ走るラインベルクは、幾万もの支流に支えられ巨大な水量を保っていた。川幅は上流域のここでもすでに六百ヤードを越えていた。向こう岸も濃い森に覆われていた。

 アイルたちはしばらく進んだあと船の向きを変え支流の一つに入った。そして藪のなかに船を隠し一旦陸地に上がった。

「行ってくる」アイルはそう言い狩猟小屋に向かった。久しぶりに硬い地面の感触を確かめつつ山の斜面を登っていった。狩猟小屋はスホルト村の狩り場の西端に位置し、普通は今いる支流より西側に出ることはなかった。狩猟小屋には食料や酒の備品が残っているはずだった。

 アイルは湿ったシダで生い茂る山の斜面を進んだ。太いアカマツの幹が背の高さまで緑に苔むしていた。やがて木々が開け、ぽつんと立つ狩猟小屋が見えた。しかし、アイルはすぐにその小屋の異変に気づいた。

 小屋の錠が壊されて地面に散らばっていたのだ。アイルは一旦森の中に戻り、迂回して小屋の側面から様子をうかがった。ついで足を忍ばせて小屋の壁に張り付き耳を立てた。


「これは全部持っていきましょう」低い女の声が響いた。

「え、全部持っていくの?残しとかないと、あとから来た人が……」今度は甲高い娘の声が響いた。

「戦線はもうここを通り過ぎています。ここに残しておいても腐ってゆくだけですよ」

「まだ逃げ遅れた人がいるかもしれない」

「いたとしても、スホルトの人間しかこの小屋を知らないはずですよ。敵は東側から来ているのだから、スホルトは全滅した可能性が高いでしょう」

「……スホルトって何だっけ?」

「父君の話を聞いてなかったのですか。ここから東にある村ですよ。あなたは下界に降りたことがないから知らないでしょうけど、スホルトの村長はかなり高名な魔術師だったのです。あなたのお父様も弟弟子としていくつか魔術を授かったそうですよ」

「そんなに高名な人が守ってるんなら、村はまだ生き残ってるかも」

「それはありえません。希望的観測は捨てましょう。スホルトは全滅したと考えるべきです。さあ、この干し肉を全部詰めて」

「うん……あれ、これ、きのこ?」

「乾燥きのこみたいですね。全部持っていってください」

「かなり量あるけど……あれ、この魚は?」

「さあなんでしょうね。あなた分かる?」

「これはタラですね」今度は若い男の声が答えた。

「タラ?」

「海の魚ですよ」

「海の魚が、なんでここにあるの?」

「干物ですし、普通に船で運ばれてくるのでは?ネーヴェにもたくさん海産物は売っていますよ」

「へえ?でも下流に滝があるんじゃなかったっけ?船で滝はどうやって登るの?」

「滝の上と下に港があるのです。下流のリンデンシュタットという街がそうですよ。聞いたことありませんか」

「ぜんぜーん」

 中で三人が立ち上がる音がした。アイルは静かに短剣を抜き扉の真横に背中を貼り付けて立った。

 アイルは若い方の娘を人質に取りたかった。おそらく三人のなかで最も地位が高く、最も知能が低い。

 扉が開け放たれ、女が出てきた。マリーゴールドの長髪が木漏れ日の朝日を浴びて一瞬まぶしく輝いた。

 アイルはその白い細首に腕を伸ばすと、一気に扉から引き放しナイフを突き立てた。

 「きゃ」

 女は短く甲高い悲鳴を上げた。

 「動くな」アイルは小屋から距離を取りながら言った。

 男はすでに腰の細剣を抜き放ち、大股でアイルとの距離を詰めてきた。

 「おまえ達は何者だ」アイルは後ろ足で下がりながら言った。そしてアイルは男の顔を見て驚いた。側頭部から長く尖った耳が突き出ていた。こいつらはエルフだ。見ればアイルが今つかんでいる女の頭からも橙色の髪の毛から長い耳が突き出ていた。

 「小屋から出ろ。もう一人の女もだ!」アイルは叫んだ。「返事をしろ!」

 アイルが首を曲げ中の様子を覗き見ると、小屋の中にはすでに誰もいなかった。窓から脱出したのだろうか。だとしたら、森を回り込んで襲ってくるか?

 アイルは小屋からも周りの木々からもさらに距離を取った。

「お前たちはどこから来た!」

「言えない」男は答えた。

 アイルは女の細首にナイフの先を突き立てた。一滴の赤い血が産毛に覆われた女の細い首を滴り落ちた。

「リッテンベルク。ここから北の砦だ。」男が答えた。

「なんだと?……そんな砦があるなど聞いたことはないな。お前の名前は」

「アベル」

「ここで何をしている?」

「……ブリスコーへ向かう途中だ。君はこの狩猟小屋の持ち主か?だったら、勝手に使って悪かったな」

「なぜブリスコーへ向かう」

「砦が魔物に襲撃されたので逃げている。ブリスコーが集合場所だと言われてる」

「スホルトを知っているようだな。村と何か関係があるのか」

「俺たちはスホルトの人間と情報交換をしている」

「なんの情報交換だ?」

「魔物の活動場所とか、その年の赤竜の飛翔範囲とかだな」

「そんな話は聞いたことがないな」

「北部連隊の一部とあんたの村の上役しか知らないんじゃないか」

「なぜ隠す」

「俺たちは隠れて住んでる」

「なぜ」

「村の存在を知られていなければ、厄介者に襲撃されることなどない」

「今の話の証拠は?」

「あんたのダマスカスナイフが証拠だ」

「ほう?」

「エルフがダマスカスの作刀技術を北部連隊の一部に渡したんだ。この地域全体の治安維持のためにね。柄の持ち手の装飾を見ろ」

 アイルは男の細剣の柄をと自分のナイフの柄を見比べた。たしかに2つの金細工は同じ美術様式のようだった。

 アイルは娘を離した。娘は変わった表情でアイルに振り向いた。そこにあったのは怒りなどではなく、むしろ好奇心と呼ぶような表情だった。そしてなぜかアイルに小さく一歩近づいた。

 娘は美しかった。ターコイズブルーの大きな瞳がアイルを見つめていた。

 無防備な女だ。

 アベルが少女の胸に手をかけ、引き寄せた。そして抜身の刀身をゆらゆらとまたたかせ、アイルを再び睨みつけた。

 アイルはため息を付き、両手を掲げて言った。

「悪かった。今の話は全部信じる。俺はスホルトの人間だが、俺たちもブリスコーへ向かっている。俺たちは船を持ってるし、道もわかる。一緒に来るか?」

「行く」娘が即答した。「私はイブ。もうひとりいた女の子はテオよ。よろしくね」

「ああ。俺はアイルだ」

 アイルはそう言い、二人とすれ違って再び小屋に入った。すれ違いざま、アベルの持つ細剣の刀身が少し揺らめいたが、アイルは無視した。やがて彼が剣を鞘に納める音がした。

 彼は小屋に入ると、床板の境目に指を引っ掛けて引っ剥がした。床の下にはまだ四つの荷袋があり、アイルはそれを全て取り出してエルフ達に持たせた。そして自分は棚から薬壺と竹の釣り竿を取り出した。

 三人は山の斜面を降りていった。川岸の藪を漕ぐと、葦の隙間から小舟が見えた。

 小舟の縁に長剣を抜いた女が立っていた。女は明るい金髪をサイドテールにしてまとめていた。女は遠くからアイルを睨んでいた。

 女は剣をアマンダの首元に当てていた。アマンダが潤んだ目でやってくるアイルを見ていた。

 「ナ・カ・マ!!!」アイルの真横で、イブが大声で叫んだ。

 女はため息を付き、剣を鞘に収めた。

 

 そのエルフはテオと名乗った。彼女は細い金髪をサイドテールに結った凛とした女性だった。

 アイル達の小舟は八人が乗るには手狭だった。積載量としてはこれがギリギリだろう。船べりは水面にどっぷりと沈んでいた。

 「あなた、傷見せて」

 テオはそう言い、ルイの隣に腰掛けた。彼女はルイの右腕の包帯を外し、その傷口を検分した。

 野犬の牙に穿たれた2つの穴は黒く化膿し、多少の異臭を放っていた。

 テオは荷袋からグラス管のような物を取り出した。その透明な管の底に緑色の液体が入っていた。

 彼女は栓を抜き、ルイの傷口に液体を注いだ。

 「いっ!」ルイはそういってピクリと全身を震わせた。

「がまんして。痛いっていうことは薬が効いてるってことよ」

「ああ……」ルイはしばらく苦悶の表情を浮かべた後、言った。「ありがとう」

「別に。あまり激しく動かさないで」テオは無感情にそう言った。


「昨日ここに帆船が浮かんでたんだけど、みなかったか?」川を渡る最中にアベルが訊ねた。

「いや」アイルは答えた。


アイル達は支流を少し遡り、川に張り出した枝の中に小舟を隠して陸地に上がった。少し岸の斜面を登ると、そこからはラインベルクの本流が直接視認できた。

 アイルたちは斜面の草むらから突き出た石灰岩の岩陰に隠れ、車座になって斜面に腰を下ろした。

「ねえ……ここ安全なの」イブが言った。

「オーガのことなら大丈夫よ。やつらは生身じゃ川を渡れないし、船を造る知能もないから」テオが言った。

「オーガに追われているのか?」アイルが訊いた。

「ええ。でも多分もう撒いたわ……」

「ふうんそうか。俺たちはスホルトから逃げてきた」アイルはあらためて言った。「今はブリスコーに向かって川を下っている途中だ。ここらの地理にはそれなりに詳しいんじゃないか。そっちは?」

 テオが答えた。「私達はリッテンベルクという山脈の奥にある村から出てきたわ。二日前にオーガの軍隊に村が襲撃されたの。私たちは本体と分かれて川を下ってる。目的地は同じくブリスコーよ」

「山奥ってここよりも北か」アイルが訊いた。

「そうよ」テオが答えた。

「そんな山奥に住んで赤竜に襲われないのか?」ルイが訊いた。

「千年前だかに描かれた魔法陣が私達を守ってくれていたの。私は詳しくは知らないけど」

「へえ。俺らんとこは龍が降りてくる度にバリスタ打ち込んだり矢を射ったりで村中てんやわんやだけどなあ」

「そうだな。まあとりあえず飯にしよう」アイルが言った。

 アイルは荷袋を漁り干し肉を取り出すと皆に配った。肉はかなり湿気っていたが、贅沢は言えなかった。アイルは革袋をルイに放り投げて言った。「それに水汲んできて」

「待って。火を起こすつもり?」

「ああ。少しだけな」

「ちょっと待って」テオはそう言いルイから皮袋を受け取った。そして袋の口を開けて地面に置き、その穂口の上で両手を掲げた。

 みなテオを注視していた。テオは口中で静かに呪文を唱えはじめた。

「öum el jackt …… 」アイルの耳には聞き取れない異国の言葉が響いた。みな彼女を注視していた。

 やがて彼女の両手の中に小さな氷の塊が現れ、それは大きくなり一本の長いつららが形成された。テオはつららをボキボキと折って皮袋の中に入れた。

「地面においておけばすぐ溶けるわ。生水と違って安全よ」

「へえ、すごいもんだな」ルイは言った。

 しばらく待った後皆でっ革袋をまわして水を飲んだ。アイルは急に眠くなったので、草むらに横たわり眠った。

 

 アイルは体を揺すられてぼんやりと目が覚めた。

 エルザの顔が目の前にあった。彼女の橙色の髪が青空を背に透けて美しく光り輝いていた。彼女はなにか切迫した表情で叫んでいた。

「……きて……起きて!」アイルは頭を起こし目をこすった。まだ頭に霞がかかっていた。「起きて!!!ワイバーンが……」

 アイルは飛び起きた。そしてエルザの指差す方向を見た。高緯度地方特有の空気の澄んだコントラストの激しい空と雲の間に、一つの小さな黒い凝固点が蠢いていた。アイルはそれに目を凝らした。寝起きの眼球は焦点を合わせるのに苦労したが、遠く小さく見えるゴミ粒のようなそれが、翼を広げ滑空姿勢をとるのをようやく認めることができた。

 その龍は両の翼が等しく左右に開いていた。そして尾が体の影に隠れて見えない。それが意味するところは、こちらに向けてまっすぐ滑空しているということだ。

 みな既に荷物を持ち慌ただしく動いていた。アイルは皆に続いて坂を駆け下り森の中に逃げ込んだ。

 彼は振り返って梢の隙間からワイバーンを探した。さっきより大きさを増した黒黒とした点が、青空のグラデーションの中に油滴のように張り付いていた。

「もっと奥へ入れ!そこじゃ焼き殺される!!」アイルは叫んだ。八人は薮をかき分け高い木立の中に入ると、身を低くして隠れた。しかし鬱蒼とした木々の隙間を越えて、ワイバーンの空を裂く羽ばたきがだんだんと距離を詰め近づいてきた。

 皆息を詰めその瞬間を待った。

 森が一瞬静寂に包まれた。アイルは木々の間から見える青空を見上げた。次の瞬間、轟音とともに噴き上げる炎が森を包んだ。アイル達は身を伏せて、炎がやむのをひたすらに過ぎた。

 それが起こったのは実際には一瞬だったが、アイルたちにとっては長い長い時間身動き取れず身を伏せていた。

 やがてワイバーンは体躯を広げアイル達の頭上を通過していった。巨大な翼の影に入り周囲は一瞬だけ暗くなった。そして竜は大河の方へ飛んで行った。

 アイル達はその後も小一時間ほど森の下生えに身を潜めていた。やがて空から雨が降り出した。雨さえ降れば、火竜は雨を避けて棲家に帰るだろう。アイル達はゆっくりとこわばった表情で森から這いでてきた。


 アイルたちは崖沿いの斜面へ移動し、空から影になる場所を探した。しばらく進むと小さな洞窟があった。女を奥、男を手前にして彼らは穴の中に入り込んだ。

  アイルは疲れて眠かった。荷袋から布を取り出すと、固く冷たい石の上に敷きすぐに横になった。

 ルイが干し肉を皆に配った。アイルは口の端に咥えつつ言った。

「夜のうちに川を下りたい。みな今のうちに寝て体力温存してくれ」

 アイルは肉を飲み込み体の横を開けた。そこに当然のようにルイが横に滑り込んできた。

 アベルは怪訝な顔をして言った。「それは、どういう……」

「体を冷やさないように一緒に寝るんだよ。お前も入れ」アイルは言った。

「いや……気持ち悪いから無理だわ……」

「アベル、言う通りにしなさい」テオが穴の奥から命じた。

 アイルは顔を上げてテオを見た。女達はすでに肩を寄せて毛布にくるまっていた。女はこういうことに抵抗はないのだろう。

 このエルフ三人は一体どういう関係なのだろうとアイルは思った。いつの間にかテオは敬語を使わなくなっていた。おそらくエルザの身分を隠したいのだろう。想像だが、エルザが上級貴族でこの二人はお付きの護衛か何かだろう。

 アベルは嫌々アイルの隣に寝た。アイルはアベルに上から毛布を掛けた。

「……この布温かいな」アベルが言った。

「石綿っていうんだよ。繊維みたいにほぐれる石があって、それをフェルトにしてあるんだ」

「へぇ」アベルは生返事した後、目線を動かしていった。「船だ」

 アイルは体を起こした。ラインベルクの中腹には高い帆を掲げた巨大な船が悠然とその船体を滑らせ走っていた。その船尾の帆には、布の代わりに龍の翼が張られてあった。雨覆の途中で飛び出した竜の手首に水輪が縛り付けられていた。

「あれは竜帆船だ」アベルが言った。

「竜帆船?」アイルが尋ねた。

「本来は遠洋航海用の船だよ。帆のほかに船尾にかけてある龍の翼で風を受けるんだ……まあ俺も本で読んだことしかないけど。なんでこんな川の上流に……」

「あんなでかい船初めてみたな」ルイが言った。

「リンデンシュタットは滝で超えられないんだから、上流の何処かであの船を造ったってことだよな」アイルは言った。

「あの船の舷側には大砲が備え付けられてる。やつらはあれを使ってラインベルクをまるごと支配下に置くつもりじゃないかな」アベルが答えた。

 たしかにそれが事実なら脅威だろう。しかし、アイルにできることは何もない。強烈な眠気に襲われてアイルは思考を放棄し目を閉じた。やがて彼は眠りへと落ちていった。


 アイルは夜中に目を覚ました。外では雨脚が強くなり、洞窟の庇には雨が小さな滝となって流れ落ちていた。気温が低くなり肌寒さを感じた。

 アイルは気配を感じて顔を上げた。テオは既に起きていて、アイルを見つめていた。

 アイルは皆を起こして言った。

「ララは大丈夫そう?」


「今すぐ川を下ろう。この雨脚と暗さなら、見つからずにかなりの距離を進めるはずだ。」

 こうして八人は船に戻り、また川を下り始めた。


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