だから心が安定する時が夜中しかないのかな
最近、しばしば思うことがこの世界から「音」という「音」全てが消え去り、消音化されてまるでずっと真夜中のように、静寂で音ひとつない場所があれば良いのにと。
それは、自分の何気ない生活音ですら何かを発していたり、自分に悪口を言っていたり、ちょっとしたことでも気になって落ち込んだりしてしまうからだ。
そこで、最近見つけた心地の良い空観が、倉庫の中であった。
1番心が落ち着くなんの変哲もない場所であるが、全くと言っていいほど音の無い空間である。全てを否定する音が消え去ったようで安心するばかりか、ずっとそこに止まっていたくなる。
他にそんな場所があればいいと願うけれども到底ありはしないし、そんな所にずっといることも不可能なのは承知の上だったけれども、夜に外に出て散歩をする時、人が居ても何も聞こえてこなければ問題なかった。むしろ、風にあたる心地よさを感じ得る。まだ、自然の中にいること自体には抵抗がないのだろうか。やはり、安眠は大事というけれども、まだ薬断ちは早かったのもあってかなかなか寝付けない。なんの音にしても全ての音が外界に触れることと繋がるような気がして、また一歩玄関を開けて外に出ようものなら悪口・嫌がらせ・非難・批評大会の嵐の渦に巻き込まれて、過呼吸になると想像するだけで、もうそれはそれはしんどいし、耐えられないだろうと思う。
ある人は、「ろくな死に方をしない」といい、またある人は「ひとつくらいいいところがあってもいいのに」という。その言葉で自分に向けられたものと思い、早歩きできていた脚が遠ざかり、2つしかない脚がいうことを効かなくてどうにも立ち止まることしかできなくなる。立ち止まるだけだったらまだいいものの、目先にあるものすべての事柄が信じられなくなり、しゃがみ込んでこの世界が本物でないように一転してしまわないかと願ってみたりする。とにかく、そんな事ができるわけもなく、悲しみの世界から抜け出させないために、如何なる手を使ってでも罵倒させたり、親を伝って嫌がらせをしたりすることはどうもやめたくないように感じる。
それがどんなに無礼講で失礼かなど考える事も出来ない方が如何なものかとさえ思うが。
こうなると後遺症として残るものは、もう二度と、誰か他の人とコミュニケーションを図ることも、愛想良くすることも、笑うことも、食事をすることもできないだろう。1番痛手なのは外での食事ができないこと。ただ、外で食べるだけなのにお店に入る=人混み。つまり、人の声という名の音の中で食事をすることになる。それがどうも自分にはそぐわない。
ということは、家で自分の食べたいものを作って食べることが1番の幸せで、1番の心の安らぎでもあったはずなのに、スマホのバイブ音や、風によってガタガタと唸る窓の音と共鳴する「でぶす」だとか「デブ」とかいった誹謗中傷する声に聞こえ、そんな闇から抜け出したはずなのに、一度脳に焼きついた悪党の声はなかなか消え去ってくれない。むしろ消し去ろうとすればするほど、何か行動しようとするとその悪党たちが止めようとし、身動きがまた全然上手く取れなくなる。体がいうことを効かないということが本当にあるのであればそういうことで、早く呪縛のようなものから抜け出したいとばかり願っている。