金色の環
一章
今日はなんて最悪な日だろう。
あと半月ばかりで卒業を迎える中学校からの帰り道を歩きながら、アタシはそう思った。今日は金曜日。毎週この日は帰宅後すぐに準備して塾に行かなくてはいけない。
思わずもれたため息は予想外に大きかったらしく、通りすがる一組の男女が何事かとこっちを見てくる。
どうせアタシのことバカにしているんでしょ、とイヤでもそんな考えに飲み込まれてしまう。
今日は朝から何もかもがひどかった。キチンと乾かしてから寝たはずの髪の毛は、何故かウニのように逆立っており、時間ギリギリでそれを整えた。朝ごはんも半分ほど残し、何とか家を飛び出したけれども登校班には間に合わず、一人で校門まで駆け抜けた。そうやって慌てて準備したおかげで後々気付く忘れ物の数々。何度隣の席の子に教科書を見せてもらっただろうか。途中からはアタシが何か喋る前に察して机をくっつけてくれた。お礼はその都度言ったものの、アタシはその子の顔を見るのが怖かった。班での活動中には好きな子の前でお腹が鳴り、必死に咳払いでごまかした。給食に出たデザートは好物のゼリーだったのに、食べるスピードは男子には敵わず、アタシが食べ終わった時にはおかわりのゼリーは全て持っていかれていた。食後の体育では体操着を忘れ、怒られた上に見学扱いで参加することができず、みんなの楽しそうな姿をうらやましげに見ていることしかできなかった。大好きなドッジボールだったのに……
そんなこんなで、それ以降も手を替え品を替え、我が身に降りかかる不幸を呪いつつアタシは帰宅の途についているのだった。
確か先生の誰かが言ってたっけ。この世は二本のねじれたヒモのようなもので、一本は良いこと、もう一本は悪いことでできている。だから良いことの後には悪いことが、悪いことのあとには必ず良いことがやってくるんだよ、と。
そんなのぜったい嘘だ!
今日のアタシは一体なんなんだ。ヒモが一本しかないじゃないか。もしこの後に良いことがやってくるっていうのなら、誕生日がニ回やってくるくらいのことが起こらないと割に合わないと本気で思う。
隣の車道からは、制限速度など知ったことかと走り抜けるスポーツカーの排気ガスが吹き付けられひどく目に染みる……この涙はそのせいに違いない。
何も考えていないように隣で傘を剣にして笑顔で走り抜けていく小学生がうっとおしい。カーカー聞こえるカラスの鳴き声がうるさい。新しく買ってもらった履き物の靴擦れが痛い――まるでこの世界は呪いで満ちあふれていて、それら全てが今アタシにまとわりついて離れてくれない。そんな考えで頭が一杯だった。
「……ただいま」
帰宅のあいさつもそこそこに、塾のカバンを手に取り逃げるように家を出た。奥から何やら声が聞こえたが、ピシャリと戸を閉める。
この時間に家に居るのはきっとおばあちゃんだ。もし一休みするとなると話が長くなって塾に間に合わないに違いない。そう言い聞かせて小走りになっていくアタシの胸はチクりと痛んだ。
勢いに任せて家を出たものの、どうしようかとアタシは悩む。祖母との長話となると別だけど、実は家で少し休んでからでも塾には十分間に合うのだ。おかげで三十分ほど時間を持て余してしまった。
「どうしよう……」
塾にはもう少しで到着する。が、早すぎる。やることがない。宿題でも持ってくれば良かったのかな、今からでも取りに帰るべきか、と考えたところでその案は放棄した。今は戻りたくない……今のアタシにはその資格がない。
活気のある声が響く商店街を、できる限り時間をかけるようにして歩いていく。視界の端には駄菓子屋やおもちゃ屋さんが並んでいるが、気持ちは惹かれない。中学生ともなると、そういったものからは卒業すべきだという変なこだわり……思い込みと言ってもいいかもしれない。とにかくそういう考えをアタシは持っていた。
ふと、視界の端に黒い影がとまった。
少し太めでふてぶてしく、けれどそれに似合わないほど綺麗な金色の眼がらんらんと輝く黒猫だった。
「なんだ『モップ』か」
物心ついた時からアタシの周りによく出没する猫で「モップ」というあだ名はアタシが付けたものだ。見た目そのまま、外国の血が濃い猫なのか、体毛がめちゃくちゃに長い。ある時、土手でお昼寝しているのを見かけた時は、本当に黒いモップの先っぽだけが落ちてる、と驚いた覚えがある。
決してこちらに近付いてこない猫だった。野良なんてそういうもんさ、とおばあちゃんは言っていたが、アタシだって手に届く動物はみな可愛がりたいと思っていた時期があったのだ。「おいで」と、それこそ猫撫で声で呼んでみても、こちらを一瞥しただけでツンと横を向き、そのまま草むらに入っていったのは幼稚園生の頃だったっけ。結構ショックを受けたのを覚えている。
今では「ああ、またいるな」程度の存在となっていた。そういえば、モップは何歳くらいなんだろう。アタシが小っちゃい頃から見てるし、人間で言えばもう結構な歳のはずだ。
黒猫は不吉の象徴です。
誰が言っていたかも覚えていない、そんな言葉を不意に思い出す。
「……こっち見ないでよ」
今日に限っては出会いたくない相手だった。普段のアタシなら気にも留めないのに……今のアタシにとってはまさに今日の悪い出来事全てを、それが事実であると、とどめのように突き付けてくる存在だった。
「見ないでって言ってるでしょ!」
モップを威嚇するように、そして同時にこのどうしようもない感情を少しでも吹き飛ばしたいという思いで、アタシは右足を大して舗装もされていないコンクリートへ叩き付けた。――結構痛い。痛いが我慢する。これくらいの痛みなんてへっちゃら、むしろ本当に痛い部分をちょっとでもごまかしてくれるならちょうどいい。
そんなアタシの胸の内など知ったことか、とでもいうように、モップはしばらくこちらを見つめた後、プイと顔を背けて狭い路地裏へ歩いていった。
はぁ、とため息が自然とこぼれる。
「何やってるのかな、アタシ……」
この何とも言えない苛立ちのようなものを何かにぶつけようと、多分、何も変わりはしない。そんなことくらいはアタシにも分かっていた。
それでもあがいてみたい……アタシをいじめるこの世界に、少しだけでも意地悪してやりたい……。
そんな考えが胸の中に灯り、やがて抑えきれない衝動となって身体の内からあたしをひっかきはじめた。
「……塾、サボっちゃおうかな」
そうだ、そのくらいの身勝手はやっちゃっていいはずだ。理由は……別にいいや。後でお母さんに怒られるかもしれないけど、それでも構わない。それに、これだけサイアクな一日だったんだから、もしかしたらこの後何か素敵なことが起きるかもしれない……! そんなことあるはずない、と考えるもう一人の自分を無理矢理ギュッと押し込める。
ふと、少し離れた場所にある建物が目に入った。その瞬間、あたしの心は決まった。
考えが決まるや否や、あたしは早足で塾へと向かい、少し体調が悪いので欠席するということを先生へ伝えた。背筋を伸ばし、真っ直ぐに目を見て堂々と物を言うアタシは、どこからどう見ても、超健康優良児に見えたことだろう。
構うもんか。どう思われようがアタシの知ったことじゃない。
言うべきことを言い終えたアタシは、失礼します、とだけ言い残し、もう用はないとばかりに勢いよくターンし、小走りで塾を後にした。
「一人で行くのは初めてだな……」
先程遠目に見えた建物……いや、建物は建物だけど、その機能はもう果たしていないので、廃墟と言ってもいいかもしれない。それは少し離れた山の上に高校が新設されたことで放置された旧校舎らしい。らしい、というのは、アタシが知っている頃からそこはオンボロの少し不気味な建物だったからだ。誰が教えてくれたっけ……覚えてないや。
商店街の裏道を通る。昨日降った雨のせいか、泥が跳ねて制服に飛んでくる――気にしない。金網に空いた小さな穴の隙間をくぐり、少し背の高い草むらをかき分けて進んでいく。カヤで少し腕を切ったようだ――気にしない。
そうしてたどり着いたそこは――旧東高等学校、誰かアタシの知らないお偉いさんたちの決定でそうなったのだろう。かつては商業に特化した授業を提供しており、進学を目指さない学生には人気だったという公立高校、その成れの果てだった。
前に来た時よりもずいぶんとボロボロになっている気がする。昔……と言っても小学校低学年の頃だけど、アタシは近所の男子グループに混ざって遊ぶことの方が多く、その遊び場の一つがここだった。
大分背が伸びたからだろうか……あの頃よりも色んなものが見えるようになった。窓ガラスが全部割れているのは……変わらない。よく何階まで届くか、みんなで外から石を投げて遊んだものだった。……今になってそれが結構危険な遊びだったと実感する。……これも成長してるってことなのかな。
敷地こそ金網で囲われてはいるけれど、今のアタシの背丈をもってしても結構入るのは簡単だ。ましてや小学生ともなれば、小さい身体が有利に働く。そして、まだ好奇心が理性を上回る年頃でもあり、ここが秘密の遊び場となるのにそう時間はかからなかった。
校舎内は……だいぶ荒れているようだ。お菓子や花火の燃えカスなどのゴミもかなり散らばっている。誰かが入った結果そうなっているのは間違いなかった。
昔のアタシは……アタシたちは、この廃校舎の外でしか遊んだことがなかった。理由は二つある。単純に立ち入り禁止の場所だったことと、中に入ってみようとは思わせないほどに不気味な雰囲気が漂っていたからだ。
そしてそれは今も変わらない。メインの入口は完全に壊れ、一階の窓は全部割れており、どこからでも簡単に入れる……けれどもタダでは出れそうにない。そんな根拠のない空気を、この建物は今も昔も変わらずに感じさせてくれる。
季節は秋口、もう一、二時間もすれば日は落ちて辺りは真っ暗になるだろう。
「……急がなくちゃ」
ここが遠目で見えた時、アタシは決めていた。
今日あの校舎に入ってみよう。入ってどれくらいこの不幸が続くのか試してみよう、と。多分、良いことなんて起こらない。それならそれで、今のアタシの気持ちを逆撫でしてくる気休めのような言葉に対して、自信を持って言い返せるじゃないか。
お前は投げやりになっている、と言われればそうだったのだろう。それでも……それでも少しくらいはアタシの意思で抵抗してみたかったのだ。このどうしようもないくらいに向けられた、世界の悪意みたいなものに対して。
片側が完全に壊れている入口から恐る恐る中を覗いてみる。当たり前だけれど、照明などの光源は機能を停止している。自前で懐中電灯など持ってもいないのだから、短期決戦は必須であった。
木造メインではあるが、所々にセメントやタイルのようなものが見受けられる。ここまで近付いて分かったけれど、誰かに持ち込まれたゴミ以外にも、色々なものが床に転がっていた。無造作にまとめられた用途不明のコード、ラベルが摩耗している正体不明の薬品など様々だ、
それらの存在だけでも、アタシのあと一歩をためらわせるのには充分すぎるくらいだった。
「――知るもんか!」
今からでも遅くない、と訴える心を叱咤し、アタシは廃校舎へと足を踏み入れた。本当は道場破りの如く踏み入るつもりだったのだけど、足元に散らばるガラス片を見てその案は即座に却下されたのだった。
もう後戻りはできない。
廃校舎内はひんやりとしていたが、それとは無関係に手足の先や背中に物理的でない冷たさを感じる。
一気に後悔の気持ちが押し寄せるが、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情のせいか、アタシの身体はもう思い通りには動かず、ただ足だけが前へ前へと進んでいく。
すぐ目の前に階段があった。既に思考から冷静さは欠けており、何を目的にここに来たのかも完全に頭から飛んでしまっている。
「登らなきゃ……」
何かに突き動かされるように動く足は嫌に軽く、けれど散らばる瓦礫やゴミは器用に避けながら階段を折り返し、あたしは二階へと登り切った。
何のひねりもない一直線の廊下の真ん中にあたしは立っていた。恐らくその両側には等間隔で教室が並んでいるのだろう。だろう、というのはそれを確認することができなかったからだ。
バリケード、と呼べばいいだろうか。とにかく、二階へ登ってすぐ目に入ったそれは、きれいに教室への道を塞いでいた。ご丁寧なことに両側までみっちりと。
それは規則性のある防護壁ではなく、ただ乱雑に机と椅子を組み合わせて作られたものだった。元は人工物でありながら、人一人通さないような構造にまでねじ曲げられたそれは、まるで複雑骨折を模しているかのようで、気持ち悪い、近づきたくない、という印象を見る者に与えるには十分すぎる代物であった。
それらの横の壁には意味不明なマークや下品な単語がカラースプレーで書き殴ってある。
アタシは逃げるように三階へと足を進めた。
階段の折り返し地点では、舞い上がる粉塵が割れた窓から差し込む夕日に照らされてキラキラと輝いている。しかし、今はそんなものをいちいち気にしていられる心境ではなかった。
早く目的を達成してここから出よう。足を進めるにつれ、アタシの心はそれ一色に塗りつぶされていく。
目的……あれ、アタシがここに来たのって何のためなんだっけ? そもそも、こんなところまで来て、一体何をするつもりだったんだろう。
そうしてアタシは気付く。くそったれな世界に対する反抗心から起こした行動だったけれど、じゃあこの廃校舎で何をすればいいのかを決めていなかったことに。――ただの勢いでここまで来てしまったことに。
抱いた後悔の念とは反対に、アタシは三階への階段を登り切った。外から見るに、ここが最上階のはずだ。さっきみたいなバリケードは……無い。ボロボロで、色んなものが散乱してはいるが、一直線に走る廊下の体を保っている。
首を恐る恐るゆっくりと動かして左右を確認する。まだ明るいおかげで足元ははっきり見える。気をつけさえすれば歩いていけそうだ……木が腐っていて踏み抜きでもしなければ、だけど。
右手に走る廊下の奥に、うっすらと消防設備を示す赤色のランプが見えた。当然、点灯はしていないけれど、光の反射でそれが今あたしが通っている中学校にもあるものだということが分かった。
アレにタッチしたらゴールにしよう……
今更ながら目標を定めたアタシは、そこに向かって歩き出した。目線は下。足元に注意しないといけないという理由も大きい。でも何より、目的以外の何かをここで目にしてしまうことが怖かったのだ。
できる限り窓に近いルートを選びながらたどり着いた目的のものは、やはり消防設備だった。足元には使用期限をゆうに超えているだろう消火器が転がり、無造作に明けられた赤いドアからは所々に穴が空いたホースのようなものが飛び出している。ランプは……ちょうどアタシの目の高さにあるが、ひどく埃をかぶっているようだ。
……これでおしまい。さっさと帰ってお風呂に入ろう。塾からお母さんに連絡はいってるだろうけど、ひどく怒られるかもしれないけど、ここに居続けるよりは何百倍もマシだ。……結局良いことなんて都合よく転がってなくて、悪いことばかりの一日だったけれど、アタシの人生なんてそんなものなのかもしれない。何なら今日ここに入ってしまったことは明確にマイナス点だ。
汚れた指先は後で洗い流せばいい。願うなら、これが悪いことを全部リセットしてくれるボタンでありますように。そんなことを考えながら、アタシは薄汚れたランプへおずおずと人差し指を伸ばした。
「オイ」
後ろの方から何やら音が聞こえる。――気のせいだ。これだけ古い建物だから、吹き込む風や軋む床がそういった音を立てるのはよくあることなんだ。
「オイって、オマエだよオマエ」
――今度こそ、気のせいにすることはできなかった。しっかりと意味を持って放たれた言葉が、より近く、大きい音量となってアタシの耳に届いたからだ。
考えていないわけではなかった。一階に誰かが後から持ち込んだ物の残骸があったのだから「アタシ以外の人が居てもおかしくはない」と。そして、もしその気配を感じたら、気付かれることなく逃げようとも思っていた。
しかし、言葉の主は間違いなくアタシに対して言葉を投げかけてきている。そうなると、アタシが取るべき行動は一つだった。
「ごめんなさい! 友達に肝試しで行ってこいって言われて――すぐに出ていきますので」
振り返ってろくに相手の姿も確認せず、頭を下げた。
「いや、別にそんなことどうだっていいよ。こんなトコに一人で来るヤツなんて珍しいから声かけただけさ」
少し高い位置から聞こえる声は……女の人……? でもこんな喋り方……
恐る恐る顔を上げた先に立っているのは、すらりと背の高い女性に見える。沈み始めた太陽が逆光となり、シルエットくらいしか分からない。
その横を無理矢理通り過ぎようとしたら遮られた。
「――何ですか? 出て行くって言ってるじゃないですか。すみませんが退いてください」
相手の顔も見ずにアタシはそう言った。――実際は怖くて見たくなかった、という方が正しい。こんなとこに一人でいる人なんて普通はあり得ないからだ。……人のことを言えた身ではないけれど。
「ちょっと待てって。オマエ、何しに来たんだ?」
「だから言ったじゃないですか。肝試しって」
「いや嘘だろソレ。オマエみたいなツラしてここに来るヤツらはそんなことしねぇよ」
「どうでもいいじゃないですか! とにかく通して下さい!」
アタシはこの場からできる限り早く立ち去りたかった。
「あのなぁ……人の話はちゃんと最後まで聞けってオマエは耳が痛いほど聞かされてるだろ?」
「知りません。誰からですか」
「オマエのばあちゃん」
一瞬、時間が止まったような気がした。しかし頭はしっかりと働いており、得体の知れない女性の言葉をきっかけにおばあちゃんの顔が浮かんだ。
確かにそれは祖母の口癖だった。しかし、説教じみたその言葉には続きがあり――
「しっかり聞いた後でソレがオマエにとって良いことか悪いこと決めりゃあいい――そうだろ?」
……間違いない。コイツはアタシのことを知っている。
「……あなたは誰なんですか?」
初めて相手の顔を見上げて尋ねた。逆光でまだ目がチカチカしていて細かな部分までは分からない。だけれども、ソイツは金色の瞳を光らせ、ニヤリと笑いながらこう言い放った。
「オレかい? オレは――『死神』さ」
二章
「――は?」
唐突に飛び出してきたその言葉を、アタシは理解できずにいた。何だって? 死神? あのフード被って鎌持ってるあれ?
「あぁ、別に意味なんて深く考えなくったっていいさ。単にオマエらの見方で言えばそれが一番近いってだけで、オレはそんな枠に縛られるようなモンじゃねぇよ」
「はぁ」
本当によく分からないので適当に相槌を打っておこう。そして適当に誤魔化して逃げよう。そんな算段が頭の中を駆け巡る。
「少し話さねぇか? ちょうどヒマしてたんだよ」
「いえ……この後塾があるので……」
「いや、オマエサボってたろ」
――まただ。こいつはアタシしか知らないことを知っている。アタシの表情から強い警戒の色を感じ取ったのか、一歩下がって両手をヒラヒラさせている。一体何の意思表示だろう。
「そんな睨むなって。死神って言ったろ? 腐っても神様なんだぜ、オレは。全知全能とまではいかないが、そこそこ便利なチカラでオマエの考えてることなんざ丸見えなんだよ」
自称「死神」という部分と、そのよく分からない能力については疑う余地が十分にあるが、それとは関係なくこのまま何も無しに返してくれそうな様子もない。
アタシは腹をくくった。
「分かりました。何を話せばいいんですか?」
「そんな大した内容じゃねぇよ。言ったろ? 暇つぶしみたいなもんさ」
決まりだな、とそいつは前置きし、
「とりあえずこんなとこで立ち話もシンドイし、中入らねぇ? いい具合に座るモンもあったはずさ」
中とは? 既にここは屋内なんだけど。
「こっち」
そいつは背後にある教室の入口らしき部分を親指で指し示した。
「……暗くなる前には帰りたいんですけど、それでもいいなら」
「よし! 決まり!」
そう言うが早いか、そいつはズカズカとその教室へ入っていった。時折「邪魔だな、コレ」などの声と共にガチャガチャと鈍めの金属音が聞こえてくる。
「オーイ、早く入ってこいよー」
覚悟を新たにアタシは教室へと入ることにした。
思っていたよりもマシな状態だった。何がと聞かれれば廃教室の様子が、である。ボロボロなのは変わりなく、机や椅子は隅に重ねられて一つ取り出すのも大変そうだ。外からも見えていたが、窓ガラスは一つ残らず割れており、吹き込む風になびくカーテンは、元が何であったのか分からないほど劣化し黒ずんでいる。黒板にはよく分からない外国語のようなものがスプレーで吹きつけられていて、一種のアートの様なものを形成していた。
それでも、そんな有様であっても、ここでかつて授業が行われていたんだな、ということが分かる程度にその空間は体裁が保たれていた。
そんな教室のど真ん中に机と椅子が一組設置されている。目の前に得意げに立つこいつがあしらえたのだろう。
「まぁ座れよ。座り心地は保証しないが無いよりマシだろ?」
「……長い話になるならお断りしたいんですけど」
いいからいいから、と軽快なステップで背後に回ったそいつは、アタシの肩を押して半ば無理矢理椅子に座らされる形になった。
埃が舞い上がり、たまらず目を閉じて周囲を手で扇ぐ。どうやら長年にわたって積もりに積もっていたもののようだ。
「……最悪」
スカートと上着は完全にクリーニング行きが確定した。本日の悪いことポイント、プラス一だ。
ため息をつき、あらためてそいつを見上げた。逆光が順光となり、今度は姿がよく見える。
女性……であることは間違いないと思う。スラリとした長身、黒を基調としたワンピース型セーラー服を違和感なく着こなしており、胸元では赤い長めのスカーフがヒラヒラとはためいている。学区内でこんな制服は見たことがない。夕日を受けて艶めく黒髪は異常に長く、少なくても腰くらいまであるんじゃないだろうか。それは窓からの風を受けて廊下側になびいていた。磁器を思わせる白い肌に整った顔のパーツが並ぶ。そしてその中でも彼女を際立たせているのは、切長の目の中心からこちらを覗いてくる金色の瞳であった。
「それで、今日は楽しかったか?」
いきなりケンカを売られた。ニヤニヤと笑っていることから、あえて聞いてきたのだろう。今日のアタシの不幸事情はほぼ全て知られていると考えていいはずだ。
「……うん、とっても!」
そっちがそういう態度なら、こちらもそれに合わせて言葉を投げ返すだけだ。できることならそのニヤけた顔面に。
「そうか、ソイツはよかった!」
「自称『死神』のオレから見ても今日のオマエのツキっぷりはかーなーりぶっ飛んでたんだぜ? それを愉快痛快な出来事としてキャッチできてるんなら言うことねぇさ。尊敬に値する」
「………………」
そんなわけない……ある程度の舌戦は覚悟していたけれど、それはものすごくちっぽけで、まだ自覚なく未熟な身であるゆえに簡単に吹き飛んでしまった。
「そんなわけないでしょ!」
アタシのタガは一瞬で外れ、決壊した感情が流れ出していく。
「何も面白いことなんてなかった!」
「みんなアタシのことなんて嫌いなんだ!」
「みんなみんなみんな! アタシの敵だ!」
吹き出す感情に言葉が追い付かず、具体化できない。でも、それでも良かった。あたしの中に渦巻く呪いのような感情を、言葉にして吐きだしたかったから。
「……楽しくなんて、なかったよ」
止まることなく流れてくる涙は、悲しみからくるものか、怒りからなのか分からない。この激情が頬を濡らしているのだろうか。歪む表情やポロポロとこぼれるしょっぱい雫が逆に感情を抉り出しているのだろうか。もはやどっちでもいい。感情に色があるならば、アタシのキャンバスはきっとぐちゃぐちゃに塗りたくられているに違いない。
「そうかい」
特に変化のないトーンでそう答えたこいつは、アタシが全て言い終えるのを待っていたのだろうか。荒くなった息を整え、涙を埃っぽい袖でぬぐって顔を上げた。
イヤに芝居がかかった口調と動作でそいつは言った。
「だけど心配しなくったっていいさ、悪いことがあった後には必ずイイことが待っている――」
「――なんてはずナイだろ?」
そんなこと、今日のアタシは嫌というほど分かっていた。
「オマエらニンゲンはアタマの作りがヒジョーに都合よくできてる。自分らにとって、な。そんで、そのアタマに残るのはメチャクチャ良かったこと、悪かったことってパターンが多い。もっと細かい目で見ればアリンコみたいな幸せやその逆だってあるだろうになぁ」
「それがたまたま交互に起こってるように錯覚しているだけさ。いや、そう思ってくれた方が都合がいい誰かさんがいたのかもな!」
何がおかしいのか腹を抱えて笑っている。もうこの際見た目と口調のギャップは気にしないことにした。それに、こいつの言うことは別に理解不能なわけではない。ご高説の開陳だけで満足してくれればいいけれど。
「大体、良いこと、悪いことってぇ括りで見れば、大概の人間にとっちゃ悪いことの究極ってのは死だ。考えてみな? 大病を患ったり、交通事故にあったりってモンはソイツにとって結構悪いことだろ? ならその後良いことが起こらなきゃ割に合わないはずだ」
「にもかかわらず、そのままおっ死んじまうことだって全然あるわけだ。な? おかしいだろ?」
「はぁ……」
理解できないわけではないし、納得もできる。しかし、素直に頷きこいつを調子に乗らせるのもヤダなと思った上での反応である。
「オマエらの運命に平等なんてもんはねぇよ」
キッパリと、気持ちがいいくらいに言い切った。
「そんなモンは詭弁で、くだらない。大体、何が幸か不幸かなんて誰が決めるってんだ。立場によってそんなモンいくらでも変わってくるじゃねぇか、なあ?」
「それは……そうだと思います」
だろ? と返すこいつの話は、繰り返すが分からなくはない。ただキリがなさそうだ。このままでは日が沈んでしまい、諸々含めた大目玉をくらうことになる。
「あなたは何が言いたいんですか? アタシの不幸のことなら分かりました。……もう諦めもついています。ただこれ以上はあまり時間がないので帰りたいんですけど」
「励ましの言葉」
全然、これっぽっちも癒されてない。ただ事実をドンと並べられただけじゃないか。
「――帰ります」
「まぁ待ちなって」
今のところ時間を無駄に持っていかれただけである。
「暇つぶしなら他の人を当たって下さい。別にアタシ以外の人だっていいじゃないですか」
これは本心である。一階のゴミなどから、ここを訪れる物好きもゼロじゃないみたいだし。
「世間話ってやつさ。どうだ? 少しは様になってただろう? よくオマエらもやってるじゃあないか。ほら、『今日もいい天気ですねー』とか。そういうアレだよ」
よく分かんないし、それは大人たちの世界のことだ。あと世間話って、いきなり人のプライベート事情に踏み込むようなものじゃないはずだ。
そんなアタシの心情を読み取ったのか、こいつは半笑い気味の笑顔を少し引っ込め、ちょうど教壇であったであろう位置からこちらを見下ろしこう言った。
「悪かったよ。本題だ」
「……手短にお願いします」
「オマエ、オレのこと何だと思ってる」
「口の悪いおねーさん」
そう言われたそいつは、未だ舞っている埃の壁に孔を空けるように、乾いた笑いを一つ飛ばした。
「言うねぇ、でもソッチじゃあない」
「最初だよ最初。オレはどんな生きモンだって意味だ」
そう言われて一つの言葉を引っ張り出す。
「……死神?」
「そう、ソレ! 結構あの返しは決まってたって思うんだけど、どう?」
「どうもこうも、信じてませんけど……大体、死神とかいきなり言われても分かるわけないじゃないですか。お話の中でしか聞いたことないオバケみたいなものだし、格好とかもイメージと全然違うし……」
「――マジかよ、結構ショックだぜ……」
長座体前屈のようにうなだれる人は初めて見たかもしれない。
「じゃあ一個訂正。オレは死神じゃない」
そこは一番訂正しちゃいけない部分ではないのだろうか。
「正確に言えば『死神のようなモノ』だ。分かりやすいかなって思ってカッコつけたんだけど失敗したかー。まぁ次に活かせばいいか! ドンマイ、オレ」
だめだ。真面目に付き合っていては本当に日が沈んでしまう。ここは無理にでも――
「――だから待てって」
ここで折れたら負けだ。そう思ったアタシは言い返そうと言葉の手札を色々と用意していたが、それらは一瞬にして放棄せざるを得なかった。
――鎌が、アタシの喉元に突きつけられていた。
鎌という表現は……多分正しくない。目の前のこいつの人差し指から爪が異常に伸び、膨らみ、弧を描き、白く怪しい輝きを孕んでアタシの肩に置かれているのだ。
何を言おうとしてたかなんて忘れてしまった。こいつは普通じゃない――人間じゃない。――怖い、怖い、怖い!
「とりあえず座れって、な? 別にオマエをどうこうしようなんて思っちゃいないさ」
そんなこと信じられるもんか! と言いたかったが恐怖でまだ声は出ない。きっと顔も青ざめているだろう。背中には嫌な汗が一滴と言わず背中を濡らしている。
「ヨシ! 座ったな」
そうするしかアタシに選択肢はなかったからだ。
「『死神ようなモノ』ってのはそう言う他ねぇからだ。オマエらニンゲンは、アタマで――理屈で理解できないようなモノに出くわした時、とりあえず『名前を付ける』クセがある。名前という枠に無理矢理押し込んで、とりあえず理解した気になりたいからな。オレはそん中の一個、今ある言葉を使えば『死神』が一番近くてイメージしやすそうだったから使ったまでだ。『オレ』という存在に名前はまだ無いんだよ、オマエらはオレって存在を認識するレベルまでまだ来てないってことだな」
話が難しいのと……何よりさっきの出来事に対する恐怖からアタシはまだ抜け出しておらず、言葉を発することはできなかった。
「――で、だ。オレの役割はオマエを喰うことなのさ」
その言葉を理解するのにかかった時間は、現実において数秒未満だったんだろうけれど、アタシにはその倍以上に感じられた。意味の理解を脳が拒み、視界がぐにゃりと歪んで見える。
「アタシを……殺すって、ことですか……?」
かろうじて発することができた声は多分震えていたと思う。なんだ、こいつの言う通りじゃないか。悪いことの後に良いことが起きるなんて嘘八百。今日のアタシはえらく角度がついたすべり台に身を任せ、その着地点には足を着けることなく底のない落とし穴が掘られていたのだった。……そのトドメにきたのがそれを言ったこいつなのはなんだかなぁと思うけれど。
「オイオイ、何だその諦観っぷりは。言ったろ? 今ここでオマエをどうこうするつもりはないって。そりゃその素っ首刎ねることだって簡単にできるが、それはオレっていう存在意義に反するし、何より――契約違反だ」
「意味が、分からない、です……だって食うって、殺すってことと、同じじゃないですか……」
恐怖と混乱でもうよく分からなくなっていたけれど、かろうじて口は、喉は動いた。
「それも言ったはずだ。オレはまだオマエらニンゲンの認識の外にいる。オレが言った『喰う』って意味は、ニンゲンで言う咀嚼と嚥下じゃあないんだよ」
「そしゃく……? えんげ……?」
「噛むこと。飲み込むこと」
なら一体どういう意味なんだろう。
「オマエらは生命活動を終えた時――死んだ時にそれまでに溜め込んできた『思い出』を吐き出すんだよ。それは放っておけばすぐに消えて無くなるモンなんだが、オレらにとっちゃごちそうでね。それを喰ってる存在ってのがオレってわけさ」
「それが死神……?」
「『みたいなモン』って言ったろ。オマエらのイメージでいけば死神ってのはおおよそマイナス印象しかないはずだ。いやそりゃいるよ? ニンゲンに取り憑いて積極的に死を選ばせようとするヤツとか。でもオレとは存在自体が根っこから違うね」
「オレはニンゲンの死に直接関わらない。早死にしようが長生きしようがソイツの勝手、運もあるだろうが興味は一切無い。『思い出』さえ喰えりゃそれでいいのさ。ただ――」
初めてこいつのわざとらしくない笑顔を見た。恍惚というのだろうか。頬に両手を当ててうっとりとしている。
「――美味いんだ」
「酸いも甘いも経験してきた『思い出』ってのは、まさに極上の絶品。何物にも代え難い味がする。だから必然的に長生きしてるヤツらの方がオレにとって美味しい存在ってなワケだ」
未だ心ここに在らずといった表情だ。こいつが心というものを持っているかどうかは知らないけど。
「……あなたの言うこと、よくは分かりませんけど分かりました。分かったことにしました。けどアタシを食べるってどういうことなんですか? あなたの言ってることとの繋がりがよく分かりません……」
「ん? あぁ、つまりだ。将来的にオレはオマエの『思い出』を喰うつもりで目を付けている、ってとこだな。オマエは今『アタシってば世界で一番不幸!』とか思ってるだろうけど、そんな感情も含めて良い味に育っていくと思うぜ? オレは」
何だそれは。すごく身勝手な考えじゃないか。アタシの意思なんてこれっぽっちも入っていない。
「……アタシが早く死んじゃったら?」
多分効果は無いことは分かっていたけれど、それでも少しは言い返したかった。抵抗したかったのだ、アタシは。
「そんときゃそん時、ちゃんと喰ってやるよ。どんなに不味かろうとな」
……どうやらアタシは逃げられないらしい。こいつが人間でないのは明らかだ。そうだとすれば、こいつの言うようにすれば、今ここで短い生涯を終えずに済むだけマシだろう。……ただ死ぬまで生き続けなければならない、それだけのことだ。
アタシも含め、どうせ人間いつかは死ぬ運命だ。小さい頃、死を初めて意識した時はお母さんに泣きついたものだったけれど、いつの間にか平気になっていた。多分、常に意識なんてしてるとアタシが保たないからだろう。全く、目の前のこいつの言うように、人間って本当に都合よくできているじゃないか。
「だから足掻け」
金色の瞳がアタシを射抜くように見つめている。不思議と視線を逸らす気にはならなかった。
「足掻いて足掻いてオマエが心底『あぁ良かった』って思えることの一つでも拾ってみせろ。いや、もっと欲張ったっていい」
「いいか、繰り返すがオマエらニンゲンの運命なんて平等に作られてねぇ。良いことづくめのヤツもいれば、それを感じられずに死んじまうヤツだってザラにいる。良いことってのはあくまでオマエの主観で、だ。他のヤツらがどう思ってようがどうだっていいんだよ、オマエが良いならな」
ニヤリと笑うその表情は崩れない。
「もちろん、悪いことだってその辺にゴロゴロ転がってるに決まってる。言っとくが今日のオマエが思う不幸が底だなんて思うなよ? 大体そういうもんは二重に作られてるからな。明日はもっっっと悪い日かもな」
ふぅと一息吐く。本当に嫌味なやつだと思う。だけど、もうそれだけだ。さっきのような怖さはない。こいつはただの口と性格が捻じ曲がった死神モドキで、確かにアタシに言いたいことはあったのだ
「……次に会うのは、アタシが死んだ時?」
「正しくは、死ぬ間際だな。オレらの世界にも色々決まり事があるんだよ」
面倒臭い事にな、と側頭部をポリポリと掻いている。その動作に合わせて長髪もわずかに揺れている。
「『契約』ってのがある」
うっすらと聞き覚えがある言葉だった。恐らく今日、この場で。ただアタシは今初めて冷静な考えを取り戻したと言える状態で、申し訳ないがやりとりの半分以上が曖昧だ。
「オマエらが死ぬ間際、その『思い出』をオレが食べるかどうかは実は一方的な意思で決めれない。互いの合意が必要なんだよ。――オマエらは『思い出』をオレに差し出す。――オレは死の間際にソイツの願いを一つ聞いてやる。そういう決まりになっている。意地が悪いだろ? まだ人生が残ってるならまだしも、この世からオサラバの瞬間に願いが叶うんだからな。富とか名声とか権力だとか愛だとか――そういう生きてる内に欲しいモンはゴミ同然になっちまうのさ。あ、若返るとか延命とかってのは無理な。あくまで死を迎えた上で『思い出』をさしだすことが契約条件だ」
「――だから決めとけよ、願い。枕元とは言わず、本当に昇天の寸前にオレは来るからな。喰えなくなるのは最悪だ」
待たせに待たせて、その上でのお預けでも面白いかもしれない。それはきっと、アタシがこいつに一矢報いる最期の手段だ。だけど――
「今すぐに決めろって言われても無理かな。だってアタシは長生きしなきゃいけないんでしょ? そしたらやりたいこと、したいことなんて多分コロコロ変わると思うよ。その時その時で考え方なんて変わるよ――今みたいに」
「分かってんじゃねぇか」
ニヤリと笑う、ここに来て見慣れた表情だ。
「せめて忘れないようにしときな、メモなんか取っててもいいかもな」
「それは嫌。変な人扱いされちゃうから」
会話が途切れ、ひと時の間が訪れる。それは決して張り詰めたものでなく、むしろいつまでも浸っていたいと感じさせてくれるようなものだった。
「……じゃあな」
「うん」
もう引き止められることはない。
「……今日の悪いことポイント、また増えるな」
「――へ?」
「――時間。走って帰っても色々間に合わねぇだろ」
外を見た。綺麗な満月が空へと登り、それを歓迎するかように様々な虫の声が響き渡り、少し肌寒い空気はどこまでも澄んでいる。差し込む月の光は、綺麗にアタシとこいつの姿を照らし出していた。
後ろからヒヒヒ、と笑い声が聞こえてくる。
「捜索願、出されてないとイイな」
塾用のカバンだけ引っ掴み、アタシは教室を飛び出した。天候が幸いし、校舎に差し込む光は夕陽から月光に変わったけれども足元はまだ見える。今はオバケなんかより怒られる事の方がよっぽどマズい。というかオバケよりも変なものに出会ったばっかりだ。
廃校舎の入口を走り抜けて草むらへと走るアタシの顔には何故か笑みが浮かんでいた。この後雷が落ちることは決まっているのに。制服も……あいつのせいで汚れちゃったっけ。これも怒られるだろうな。
それでも笑顔のアタシは完全に開き直っていた。不幸でも何でも来るなら来い! カヤで切れる脚も気にしない。途中で出くわしたモップも無視する。「恐怖! 廃校後を笑いながら走る女!」なんて都市伝説化しちゃっても面白いかもしれない。全部全部ぜーんぶ、ひっくるめてあいつに叩きつけてやるんだ!
そうしてたどり着いた我が家では、予想の範囲内の出来事が待っていた。それはそれは今まで経験したことがないくらいに怒られたし、長時間の正座も中々にこたえたけれど、それでもよかった。
それだけ怒られるほどにアタシは心配されていた。大切に思われていたのだ。帳消しにはならないけれど、今日の良いことポイント、プラス一に数えよう。
こうしてアタシにとっての長い長い一日が終わった。
三章
「では、おばあ様、これで失礼します」
「じゃあね! ばーば!」
「いつでもおいで、ミソラ。タケルさんも、元気でね。ショウコにも、たまには顔出すよう、きつく言っといてくれ」
白塗りの戸が締まり、いつまでも聞いていたかった幼い声が遠ざかっていく。今日は孫娘の旦那と、ひ孫のミソラが来てくれた……面会の時間はおしまいだ。アタシはこの部屋に一人、取り残される。……そんな時間にも、もう慣れた。
色々なことがあった。
良いことも、悪いことも数えきれないくらいあった。
恋もしたし、失恋もした。高校生になって経験した初めての失恋の時は、死んだ方がマシだと思うくらいだった。
高校を卒業したら就職するつもりでいたけれど、おばあちゃんが小金を貯めてくれていたらしく、大学まで行かせてもらい、都会の暮らしも経験することができた。
結婚もした。お母さんに勧められての、半ば強制的なお見合いから始まったお付き合いだったけれど、何度か会ってみるうちに「この人となら大丈夫」と思ったのだ。
三人の子供に恵まれ、子育ての大変さを思い知った。一人目が生まれたときは、今までの自分の身体でなくなったと思わせられるほどに体質が変わってしまい、色々と苦しんだし、周りに迷惑もかけた。それでも、この世で一番大切なものがアタシにはできた。
そうして育った子供たちは自立し、アタシの元から離れていった。自分の子の結婚は、嬉しくもあり、少し悲しかった。次第に静かになっていく我が家を見ながら、涙は決して人前では見せないようにしていた。
二人の子供に孫が産まれた。電話で知らされた時には実感が湧かなかったけれど、実際に会って抱っこさせてもらったとき、その温かさは、一番大切なものがまた増えたことを伝えてくれた。一番がたくさんあったっていいじゃないか。アタシ自身なんかより大切なものはもう片手じゃ足りなかった。
肉親との別れは悲しかった。初めはおばあちゃん。本当にアタシのことを最後まで一番大切に想ってくれていたということは、大人になって初めて実感できた。さすがにお葬式の場は平然さを保っていれたけれど、しばらくの間、思い出すたびにワンワン泣いていた。それからお父さん、お母さん……アタシの子供たちの前では多分、いつもの「お母さん」でいれたと思っているけれど、油断するたびに膝は崩れ、顔は歪んでしまった。
孫に子供が産まれた。落っことしては怖いので、抱っこは遠慮しておいたけれど、本当は抱きしめて走り回りたい気持ちで一杯だった。産まれたばかりの頃の娘によく似ており、ミソラは間違いなくアタシの血をひいていた。
あの人はアタシより先に逝ってしまった。気が強かったアタシのことだ。色々と衝突もしたし、それで苦労をかけたことも多いだろう。悲しかった。とても悲しかったけれど伝えたい気持ちは「ありがとう」の方が多かった。
歳は九十を超え、それでも畑仕事に精を出すアタシを周囲は心配していたけれど、身に染み付いた日課は自然と身体を動かすものだ。そしてある日の早朝、庭の掃除をしていた際――アタシは倒れたらしい。
今年で定年退職を迎えた息子の意思であれよあれよと転院の手続きが進み、アタシは生まれ育った町へと戻ってきた。
窓から見える町並みは、記憶にある頃とすっかり変わってしまっていた。昔友達と一緒に走り回っていた田んぼや公園は見当たらない。聞くところによれば、持ち主に手放されて放置されていたり、取り壊されてただの空き地になったりしているとのことだった。学校への通学路だった商店街は、軒並みシャッターが下ろされ、代わりに……とおずおず主張するかのように、大して大きくもないスーパーがポツンと一軒建っている。
「本当に短いんだねぇ」
ポツリともれた独り言は、人生というものに対して、であった。「人生二十歳が折り返し、そこからの時間は一瞬だぞ!」と誰かが言っていたっけ。その声の主を思い出そうとしたけれど、無駄だと思いすぐにやめた。
アタシは最近、色々なことを思い出せなくなってきている。いや、思い出せない……というのは少し違うかもしれない。今日の朝食の献立、昨日のTV番組の内容など、現在に近しいものは全くと言って良いほど記憶に残らない。けれど、昔のこと――アタシがこの町に住んでいた頃の出来事は割と思い出せるのだ。
最近、変な夢を見る。その中でアタシは、先の見えない階段を登っている。……もう現実のアタシにそんな力は残ってないというのに。
一段一段と踏み締め、一息ついて振り返ると――今まで登ってきた階段が、細かい粒子となって消えていく。驚いて足元を見ると、そこも粒となってサラサラと消え始めている。――落ちる! と身構えるけど何も起こらない。確かに登ってきたはずのものは消え、ただアタシ一人、取り残される。唯一遠目に見えるのは階段の始まり辺り、その部分は数段残っている。残っているのだけれど――それも少しずつ砂のように上から崩れ始めているのが年老いたこの目からでもしっかりと見える。
そうして目を覚ますと同時に悟るのだ。あの階段が消えて無くなる時が、アタシという人一人の人生の終わりなのだと。
そうして月日は流れていく。今は何月の何日だろうか。着ている服から見るに、どうやら夏は過ぎたらしい。
……アタシは多分、この病院から出ることはできない。自分の身体のことだ。医者に直接指摘されなくても何となく分かってしまう。アタシの身体に繋がっているなんだかよく分からない管は入院当初より増えており、まるでしつこく絡み付くツタのようだ、と思うこともある。
満月が綺麗な夜だ。カーテン越しにもよく分かる。
――一瞬、何か火花のようなものが頭の中で散って消えた。それが何なのか分からないが、多分、似たようなものを昔見たことがあったんだろう。……思い出そうとするだけ無駄だ。
廊下や室内は最低限度の照明だけが点灯しており、それは就寝時間をとうに過ぎていることを意味していた。
寝よう。次に起きるのは何時か分からない。もしかしたらまだ夜かもしれないけど、それならそれでいい。どうせ時間になったら流されるままに動くだけだ。
そんなことを考えながら、アタシは目を閉じた。
「……イ」
珍しい。今日の夢は音声付きなのか。
「……オイ」
少し音量が大きすぎやしないか。いくら夢でもそのせいで眠れないのは……少しだけ困る。
「オイ」
……これは夢じゃない。誰かがアタシを起こそうと声をかけている。でもこんな乱暴な口調の看護師さんはいただろうか。文句の一言でも言ってやろうと目を開ける。
「ったく、やっと起きやがった。オレは律儀にきてやったってのにオネンネとはイイご身分だな、オイ」
いつの間にか開かれていたカーテンと窓、そのサッシに黒服の少女が座り、金色の瞳でアタシを見下ろしていたのだった。
「あんたは――」
夜遅くにこんな格好でうろついている人物なんて、きっと碌なヤツじゃない。泥棒の可能性だってある。そう思ったアタシは、ありったけの力を振り絞ってナースコールボタンに手を伸ばそうと試みた。
「待てって」
――またあの火花が頭の中に走る。着火しようとするが、そのライターの歯車ヤスリが上手く回らないような、そんなもどかしい感覚に囚われる。
それでも不審者には変わりないはず――伸ばす手は止めない。止めないけれど――届かない。そして気付く。アタシはもう、自分の意思で身体を動かすことができなくなっていた。
「オマエ、だいぶ前からそんな感じだぞ。気付くの遅えのな。まぁ自分のことになるとトント疎いのは昔っからか」
どういう意味だろう。分からない。
「金目の、ものなら、アタシは、持ってないよ……他を当たって、下さいな……綺麗なお姉さん……」
一体何日ぶりにアタシは喋ったのだろう。かすれた声はちゃんと届いただろうか。
「もう一年近く、オマエはそんな感じだよ。身の回りのことは最低限、決まった時間にあの白服どもがササっとやって帰っていくだけさ」
「……お姉さんは、よく知ってるねぇ……。ここの人、なのかい……?」
「バカ言え、んな訳ねぇだろ。百パーセント、自信を持って部外者だ」
「……なら、お姉さん、は……一体誰、なんだい……?」
少女はサッシからよっと飛び降り、アタシの顔を覗き込んでこう言った。
「オレかい? オレは――『死神』さ。ちゃーんと半世紀以上に渡ってオマエとの約束を守りにきた、な」
――走る火花は次第にその数を増やし、束ねられてより強固なものとなる。そしてそれは、アタシの中で磨耗してしまっていた、ある一つの記憶に強烈な火を灯した。
「ごめん……忘れちゃってたね」
この時、この瞬間、アタシは確かに当時の「アタシ」だった。声色も姿もあの頃とはすっかり変わってしまっていたけれど、それでも「アタシ」だったのだ。
「気にすんな。ニンゲンはそーいうもんさ」
「あれから何してたの?」
「別に? その辺フラフラしてただけさ。あぁもちろん、オマエに目ぇ付けてた以上、ちゃーんと見てたぜ? それこそ今に至るまでのぜーんぶをな」
「……退屈じゃなかった?」
「言ったろ? オレは存在そのものからしてニンゲンとは違うんだよ。時間の感覚なんて無いに等しい。寝て起きたらオマエがババアになってた。そんだけのことだ」
「口の悪さは変わらないんだね」
「元々こうだ。いちいち気にしてられっか」
大仰な仕草も、口調も、こいつはあの時と全く変わらない。変わってしまったのは……自分だけだ。
「――で、どうだった?」
このニヤけた表情も懐かしい。
「楽しかったか?」
うーん、と少し考える。確かにあの時のアタシは自分が一番不幸なんだと思っていた。思い込んでいた。「運命は平等じゃない」っていうこいつの言葉はその通りで、そこから先の人生でも良いことが続いたかと思いきや、ドン底に叩き落とされるような出来事だって経験してきた。……それでもここまで生きてこられた。生きようと思うだけの理由は確かにあった。だから……
だから、アタシの答えは――
「――悪くなかったよ」
「うん、悪くなかった」
「一つ一つ振り返ってたらキリがないけど、全部、ぜーんぶひっくるめて、悪くなかった」
金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そう答えた。
しばらくの間、無言の間が訪れる。こいつが何を考えているかは分からない。けれど、今のアタシが持っている全てをぶつけてやった。そんな妙な爽快感があった。
開いた窓から吹き込む風は少しひんやりとしている。やっぱり、今日は満月だった。
「……そうかい」
ニヤけた表情は消え、どこか神妙な面持ちに見えるのは気のせいだろうか。
「契約……忘れてねぇだろうな?」
「……ごめん!」
「この馬鹿野郎。あんだけ言ったじゃねぇか。……分かってるだろうがここにオレが来たってことは――」
「――うん、大丈夫」
ちゃんとアタシは理解している。こいつの役割も、契約についても。今さら何かを差し出すのにためらいなんか無い。惜しむわけがない。それだけのものを、アタシはコイツから既にもらってここにいる。
これは奇跡のようなものだ。アタシの心に灯る火はまだ残っているけれど、それもすぐに消えてしまうだろう。……多分これは、アタシに残された時間の前借りで灯された火だ。ならここで消してはいけない。血や肉や骨、アタシの全てを燃料にしてでも全てを終えるまでは絶やしてはならない。
契約――アタシの『思い出』を食べる代わりにこいつが叶えてくれる願い。
富、名声、権力、愛――そんなものは要らない。第一、アタシに子供が生まれた時、自分の人生における優先順位は入れ替わり、アタシは一番ではなくなっている。
こいつの言った通りになって何か癪だけど、アタシは自分の考えを一番に生きてきた。矛盾なんかしていない。自分の子供、さらには孫やひ孫と、自分より大切なものを優先している自分の姿が一番大事だったというだけだ。そして、その考えは今この時も決して揺らぐことはない。
「……願い事もオッケーだよ。ねえ、一つだけ聞いていい?」
「手短にな」
「アタシの『思い出』は美味しそう?」
「喰ってみるまで分かんねぇよ。けど――あん時よりは全然マシだと思うぜ? いやホント、前のオマエからは炭みたいな匂いしかしなかったからな。正直、腹下しそうな予感しかなかったわ」
「……契約、やめようかなー」
「――冗談だ。こんだけお預けくらっておいてそれはマジでやめてくれ」
「ウソだよ。あースッキリした!」
こいつからはこれだけ引き出せれば十分だ。それに……多分もうアタシに残された時間は少ない。胸の内で小さくなっていく灯火にくべることができるものは、もう何も残っていない。
けれど――これはアタシに残された数少ないもの全てを燃やし尽くして手に入れた奇跡だ。ムダになんてするもんか。そんなの許せない。そんなの――今のアタシじゃない!
「……もうちょっとおねーさんとお話してたかったけど、難しいみたいだね」
「……あぁ、そうだな」
「願い事、ちゃんと守ってくれるの?」
「そういう決まりだからな、破るとオレが死ぬ」
それなら安心できる。多分こいつはあの時も、そして今も親切な誰かさんとの契約を守り続けてここにいるんだ。ならアタシがお願いすることは一つだけだ。
ゆらめく灯火は、すでに一息で飛んでしまう大きさだ。
「・・・の・・・を・・・・・・」
……ちゃんと伝わったかな? 焦った。ホントにギリギリだった。少し余計なことを喋りすぎたのかも……まぁいいよね、それくらいは。感謝の言葉は言わない、言ってあげない。それは未来の誰かに任せよう……こんなことばっかやってるとあいつは永遠に言われないかもだけど、こればっかりは自業自得だ。あいつはあいつでそういうあり方を選んでるんだろう。だったらアタシが口出しすることじゃないもんね。これでアタシの時間はオシマイ。後はお願いね、優しいおねーさん。
「……ったく」
言葉を返す相手がいなくなった空間で黒服の少女は呟く。
「結局同じことしか言わねぇじゃねーか、オマエらは」
ある日、ある時、二人を照らしていた夕陽や月光。それらはスポットライトの如く、今宵も病室へ冷たく差し込む。その照らす先に、生あるものはもういない。
「ばーば、てんごくにいっちゃったの?」
「……そうだよ、でも大丈夫。ちゃんとミソラを見守ってくれてるからね」
ママはそういってあたしをだきしめてくる。なんでママはないているのかな? よくわからない。だってあたしをみててくれるんだよね? それってまえよりもっとあえるってことだよ? よんだらおへんじしてくれるのかな?
「ばーば!!」
「ミソラ!」
なんでママはとめるの? ばーばはちかくにいるんだよね? ぜんぜんあえなかったから、あたしばーばとおはなしするのたのしみだよ!
「ミソラ……おばあちゃんはね……」
「ママ、なにかきこえるよ?」
斎場の片隅で草むらが揺れている。
「ばーばかな!」
あたしははしった。ころんじゃうかもだけどあたしはへーき。だってそれよりうれしいんだもん。
草むらから黒い影が飛び出した。
「わあ、ネコさんだー」
普通の猫より少し大きめで、やけに長い毛を持つ黒猫だった。そして何よりも、その瞳に湛える怪しげな金色の光が際立っている。
「おいでおいでー」
よんでみたけどあたしをみているだけでぜんぜんちかよってこない。あたしはこんなにやさしいのに、いじわるなネコさんだ。
じゃあこっちからいってなでてやろう、とすこしちかよると、にげられてしまった。むぅ、とあたしはせいいっぱいふまんげなかおをつくってみた。
「ママ、ネコさん逃げちゃった!」
「野良猫はほとんどそうよ。人に慣れてないから逃げちゃうの」
「ふーんだ、あたしあのこキライ!」
ほんとはおともだちになってなでなでしたかったけれど、あたしはせいいっぱいのうそをついた。
「それでいいのよ、ミソラ。あんまり近づくと引っかかれちゃうからね」
「……うん、わかった」
手を繋いで歩いていくニンゲンが二人。この後向かうのは彼らが暮らす家だろうか、それともついでに買い物でもしていくのだろうか。……どうだっていいか。
……アイツの「思い出」はたいそう美味かった。ならそれ相応のモンで応えてやるのが筋ってヤツだ。
金色の瞳に映るのはまだ幼い少女、まだ自分の世界しか知らない少女、そしてこれから――自分以外の世界と触れ合うことになる少女。
――廻る、廻る。時間や場所、肉体は異なれど、廻り続けるものがある。誰かに意図されたものでなくとも、同じように紡がれるものがある。廻る、廻る――